2017年7月、神奈川県鎌倉市の大巧寺(だいぎょうじ)に行ってきました。これまで鎌倉は何度も訪れ、大巧寺前の交差点である若宮大路の鎌倉駅入口交差点を通ってはいたものの、実際に大巧寺境内に入るのは初めてでした。 こちらのお寺は日蓮宗系単立寺院で、山号寺号は「長慶山大巧寺」です。開山は日澄上人。 現地の解説板によると当初「大行寺」という名前だったこちらのお寺、源頼朝が作戦会議である軍評定(いくさひょうじょう)を寺で行い、その結果大勝した、ということから、大巧寺と呼ばれるようになったのだそうです。 そして時は巡り16世紀、室町時代の終わり頃、大きな転機を迎えることとなりました。 帰宅後開いた大巧寺の公式ホームページには「産女(うぶめ)霊神縁起」がPDFとしてリンクされていました。そこには実に切ないお話が綴られていました。それを元にいろいろ調べてみますと……。
時は天文元(1532)年4月8日の夜明け前、こちらのお寺の住職日棟(にっとう)上人が毎朝続けている勤経のため、比企ケ谷 妙本寺の祖師堂へ向かおうとした時のことです。日棟上人は滑川 加能橋を渡った時、川原の陰で赤ちゃんを抱き、さめざめと泣く女性を見つけたのです。平成の世の中になっても大巧寺より東の方向に妙本寺があり、大巧寺と妙本寺の間には確かに滑川があります。滑川は鎌倉市街を通り、由比ヶ浜と材木座海岸の間から相模湾へと注ぎこむ二級河川。昔通りに今があるって、何か感慨深いですね。 さて、その女性は大倉という場所に住む秋山勧解由(かげゆ)の奥様でした。腰から下は真っ赤な花が泥から出て来たかの如く大出血で、両腕にしっかり抱えた赤ちゃんは痩せ細っていました。その女性は死出の長路で迷い、川を渡ろうにも渡れず、泣く子を抱いて途方に暮れていたのです。寒さに震え、ひどく憔悴し「誰が悪いせいでもない、己の身を恨み苦しむより他はない。どうか察してほしい。」と泣き崩れました。 日棟上人はこれはまさに孤独地獄というものだろうからと、女性を救うため、妙法蓮華経 提婆達多品(だいばだったほん)第十二と妙法蓮華経 薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第二十三を読み始めました。 やがて朝日が昇ってきました。明け方、カラスが鶴ケ岡から由比ヶ浜まで渡り、その鳴き声が響き渡った頃、女性と赤ちゃんの姿は消えていたのです。 そこから3日後、突然、日棟上人の元にその女性が現われました。美しく、清らかで気品にあふれた姿の女性は、日棟上人の読経のおかげで救われたことに感謝し、今は嬉しさと喜びに満ち溢れていると夫に知らせてほしいと頼んだのです。そして自分が生前貯めたお金を差し出し、宝塔を建ててほしいと頼みました。また、難産で死んだ自分が妙法の功力によって救われた恩に報いるため、これからは妙法を唱えて自分を祭祀すれば、妊婦が安産になるように守るから、と告げたのです。
日棟上人は早速秋山勧解由の元を訪れ、その話を伝えたところ、不思議な話を聞きました。なんと勧解由はその前夜、宝塔を建ててほしいと告げる妻の夢を見ていたのです。また上人から見せられたお金を包んでいた布は、妻の衣装櫃にあったはずの着物の柄と同じで、妻の着物の片袖と蓄えていたお金も消えていたことから、これは亡くなった妻の思いの表れだ、と確信したのでした。そして自分も妻の報恩に力を貸したいと申し出たのです。 このお寺に、そんなじーんとする悲話があったのですね…。 帰宅後詳細を調べたものですから「ちゃんと調べてから行けば良かった…」と少々後悔。
難産による女性の死、そして生まれるはずだったこどもの死、でも女性は助けられた御恩を忘れず、これから誰か他の人のために力を尽くしたいという思いが伝わるエピソード…そういう場所であるからこそ、こんなにも力強く松葉を生い茂らせる力のような、何か不思議な活力がこのお寺の辺りにあるのかもしれません。
そしてこちら美しい花々で有名ですが、訪れた7月中旬はいくつもの種類の花が咲いていました。アガパンサス、キンシバイ、ビヨウヤナギ、インドハマユウ、ハス(巨椋の炎)、アマギノクサキ、イワフジ、キキョウ…その他名前を知らない草花もありました。参道もきれいに手入れされていました。
本堂手前、社務所の庭にトンボが飛んでいました。同じトンボが、何度も何度も棒の上に、飛んでは戻り、飛んでは戻りを繰り返し…。 トンボも戻りたくなっちゃうようなお寺です。ちょうちょのヤマトシジミもどこからか、ひらひらと。
圧巻です。奉納した方の地名と名前が書かれている様子がはっきりわかる物もありました。この美しい天井の彫り物、お礼参りの奉納なのかもしれません。いろいろな人の思いが詰まった天井です。