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弱いときの強さ
2013/7/10、アルフォンス・デーケン先生の2013年キリスト教入門講座前期(東京都千代田区 岐部ホール)では「「いやし」と完全性への道」というテーマが取り上げられました。その際、デーケン先生はコリントの信徒への手紙 二 12章10節より、次の言葉を取り上げられました。

「わたしは弱いときにこそ強い」


引用文献:
新共同約(2012)『The Study Bible 新約聖書』
コリントの信徒への手紙 二 12章10節, 日本聖書協会, p. 340

弱いけれども強い?といった一見矛盾するお話ではありますが、これは弱い者にキリストの恵みの力が働くから、強くなれるということを説かれたものです。

このお話を伺いながら、以前、小児外科病棟で看護師をしていた時、ある大変な病気を抱えて、苦境の中におかれた男の子とそのご両親のお顔が浮かんできました。いろいろなことがあっても、どこか強さを持っているように感じられるおうちでした。
ここで言う強さとは、決して強がりだとか、強情だとか、そういう意味の強さではありません。大変な状況であっても、それに振り回されないぶれない芯をもっているような、強さです。
当時20代だった私には、その強さが一体どこからくるのかわからなかったけれども、もしかしたらそこに信仰の強さがあったのかもしれないと、思うようになりました。

そして弱さと強さについてお話をされている途中で、デーケン先生は次のように言われました。

「病気によって周りの人と共感できるようになる」


引用:
2013/7/10 キリスト教入門講座 アルフォンス・デーケン先生の言葉より(於:東京都千代田区 岐部ホール)

その共感は信仰によって得られた強さから、生まれ出たものではないだろうか、と思いました。
病気になることは決してうれしい話ではないけれど、信仰の力によって、強い心を持った自分に変わり、通常では得難い力、たとえば周囲へ共感する力を得られるようになるのではないでしょうか。

でもなぜ信仰が…?
そう考えていたところ、トルストイの『懺悔』の中から、次の言葉を見つけました。

私もやはり、人生の意義を知っていた間だけ、これを見失わなかった間だけ、安らかに生きて来たのであった。すなわち、私自身にもまた他のすべての人々にも、信仰が生の意義と可能性を与えていたのである。1)

信仰とは、これを獲得すると同時に、われわれが自己を滅落させることなく生きて行けるようになるところの、人生の意義に対する知識なのである。つまり、信仰は生の原動力なのである。
人間は生きているかぎり、かならず何物かを信じている。もしも彼が、自分は何ものかのために生きなければならないのだ、ということを信じないならば、彼は生きていることができないはずである。2)


引用文献:
1)トルストイ著, 原久一郎訳(1935)『懺悔』岩波書店, pp.76-77
2)トルストイ著, 原久一郎訳(1935)『懺悔』岩波書店, pp.77-78

信仰があるか、ないか、それは人によって様々です。絶対的な価値を見出す揺ぎない何かを信じる人もいれば、そうではない人も。
でも人間の心が窮地に陥って、どうしようもない迷路にはまり込んだ時に自分の心を立て直すための「何か」を持っている人はとても強いのだと思います。
その「何か」は神、仏、あるいは何か別のものかもしれませんが、そうした対象をもつことが心を変えていくということは、動物の中でも知性を持つ人間に与えられた能力。それを活かしていくことが、病気と向き合っていく時のキーの一つかもしれません。

 
あなたのお子さんは病気の中で、何もかも失ったわけではありません。得られた能力が、きっとあるはずですから。          
長原恵子