病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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病気と一緒に生きていくこと
絶望の中で対峙する心

お子さんが病気になってしまったら、かつて健康だった(あるいは病気と気付いていなかった)頃の時間が懐かしく、何とかしてそこに戻りたいと思ってしまいます。病気と共に過ごさなければならない時間が、たまらなくもどかしいように思えてきます。お子さんの病気が長期に渡ると、やがて気持ちがくすんでくることもあるでしょう。
一歳八ヶ月の時にかかった病気のため、目、耳が不自由になってしまったヘレン・ケラー女史は自叙伝の中で、中途失明した場合の方が味わう気持ちについて、次のように記し残しています。

視力を失った人が最初に考えることは、自分に残されているのはもはや悲嘆と絶望だけだということです。
彼は人間らしいことのすべてから閉め出されたと感じます。彼にとって生命は、冷えた暖炉の灰も同然です。野望の火は消え失せ、希望の光もありません。(略)

さてそこへ、教師でもあり友人でもあるなかなか賢い人が来て、こう保証します。たとえ眼が見えなくても、手を使って働くことはできるし、かなり訓練すれば聴覚が視覚の代わりもする、と。傷心の人というものは、なかなかこういうことを信じようとせず、絶望しているせいか、自分がからかわれているのだと誤解してしまいます。そして、溺れかかっている人のように、自分を救おうとしている人をだれかれかまわず盲滅法になぐりつけます。

それでも、本人がどう思おうと、彼を励まして前進させなければなりません。そしてひとたび彼が、社会に復帰して人間として価値ある仕事を遂行することもできるのだと気づけば、かつては夢にも思わなかったような存在が彼の中に花開くのです。もし彼が賢ければ、幸福というのは外的境遇にほとんど影響されないということを最終的には理解し、眼が見えたときよりもっとしっかりした足取りで闇路を歩いてゆくことになるでしょう。


引用文献:
へレン・ケラー著, 鳥田恵訳(1992)『へレン・ケラ一 光の中へ』めるくまーる, pp.192-193

悲嘆と絶望を感じ、周りからの声は単にその場の気休めのようにしか受け取れなかったとしても、それは自然な心のあり方だと思います。
何よりも、見えなくなったということ自体、受け容れ難いのですから。
「どうして、こうなってしまったんだろう…」と強い怒りがこみ上げている時、かけられた励ましの言葉は、もっと自分をみじめな気持ちにさせるかもしれません。まるで自分が憐れみの対象になってしまったかのような気分になって。

でも、もし、あなたのお子さんがそのような状況で自暴自棄になって、励ましの言葉を拒否するような態度をとったとしても、どうか見放さないでください。なぜなら、あなたのお子さんは平静心で聞いているのではないのですから…。
そして何より、あなたの励ましの言葉が決して上っ面の言葉ではないことは、お子さんは十分わかっているのです。ただその優しさを正面から素直に受け取れるようになるには、もう少し時間が必要なのです。

目が見えなくなって、怒りや動揺が少し収まってくると、お子さんは「これから、どうしたいのか(どんなふうになりたいのか)」という方向に気持ちが向かうようになっていきます。その時、あなたの存在がとても大きなものとなります。
なぜなら、これまでそうしたことを真剣に考える機会はなかったでしょうから…。それは、とてもとても大変なこと。
大人でも難儀なことを、お子さんがこれから考える時、あなたがそばにいてくれることが、とても力になるのです。
もちろんそれは、べったりそばにいるという意味ではなくて。

私は、人は皆、一人一人の人生の中で、果たすべき役割があるのだと思います。その役割にお子さん自身が気付き、その役割を果たせるようにお子さんが頑張りたいと思うこと…そうした気持ちの萌芽こそ、ヘレンの示す「外的境遇にほとんど影響されない」幸福なのではないかな…。

 
お子さんが思考の迷路にはまった時に、高い位置から見渡して、お子さんにとって良いと思われる道のいくつかを、あなたの意見として伝えることは、きっとお子さんの力になっていくことでしょう。
長原恵子