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大学進学を目指し、頑張ってきた青年が、体調がすぐれないと訴えた時、初めに考えることはきっとどなたも勉強のしすぎによるストレス、睡眠・休息時間の不足、そういったことが原因だと考えるでしょう。でも、もしそれが脳腫瘍によるものだと診断されたら、本人、ご家族はどれほど驚き、心配になることでしょう…。先日読んだ『ではまた明日』、こちらは脳腫瘍の高校生が、心の動きを書き溜めた日記を基に、編纂された本です。
思春期の純粋な部分と、悩み深き部分とが交錯しながらも、自分で見つけ出した信条にそって、強く生き抜いた姿は、深い響きを持つと感じたので、ここで取り上げたいと思います。

西田英史さんは高校2年生の秋より食欲が落ち、疲れやすく、右前方の視野が欠損し、ものが二重に見える症状が出てきました。その冬、複視は悪化し、のどが詰まるような感じが起こり、年が明けてから病院を受診。一時は受験勉強のための疲れ目と診断されましたが、脳外科で検査の結果、脳幹部グリオーマと診断、放射線、化学療法を受けました。

病気を治そうと前向きに考えて、日記にもそう記して生きた英史さん。効果を期待し、待ち遠しかった抗がん剤治療は3クール目が終わったけれども、三叉神経痛は続き、新たに右足の痛覚や温度感覚を失い、左手足の動きも鈍くなり、身体も左に傾くようになってきました。英史さんは闘病意欲を失い、無気力となっていきました。そして英史さんは、安らかに苦しまずに死ぬためにはどうすればいいのか、と考えるようになっていったのです。

しかし英史さんはやがて、自分自身と向き合っていきました。
まず症状に対して、自分でできる工夫を試みました。たとえば鼻の粘膜が乾燥している時に自分の三叉神経痛がくるとわかり、そのために鼻を湿らせたり、鼻のひりひりした感じを減らすためにマッサージをしてみたのです。それは効果を表しました。英史さんはそこから、少しずつ自信を取り戻していきました。
もちろん、ずっと気持ちが上向きであるわけではありません。気持ちが落ち込む時もありましたが、英史さんは自分が感じていた無気力とは、実は自分の感じていた疲労感と取り違えていたのではないか?と気付いていったのです。そこから英史さんは急に元気を出していきました。
死ね方法を考えていた青年が、いつしか自分の白血球ががん細胞と闘っているところをイメージし、気持ちをしっかりと前向きに持つように変わっていったのです。

平成5年5月4日の彼の言葉を、見てみましょう。

朝起きた。生きていた。全世界に感謝した。
いきようと思ったのは、それから何時間もあとの昼3時過ぎになってからだった。(略)
ここ数日は無気力な状態が続き、自分の死というものに初めて直面した。考えに考えた。
頭が熱くなって血液の流れるのを感じる。

ポイントとなったのは、死の準備をするため、それとも、生への努力をするために自分のエネルギーを使うかということだった。ここ2日ばかり俺のやっていきたことは、死の準備をするまではいかないが、生への努力とは違った。
俺のやっていたことは、真ん中あたりにあったわけだが、やや生への努力からは遠かった。

それで、半分強引に俺の考えを死の準備をするほうに入れてみた。そうすると、やはりむなしさを感じた。
それで簡単に生への努力を選んだかというと、それだけではなかった。実は、本読みに疲れて横になったとき、無意識のうちに白血球が癌細胞を食いつぶすイメージを頭に描いたのだ。「おい、何をやっているんだ」と思ったが、同時に、これが俺の行く道ではないかと感じた。


引用文献:
西田英史著, 西田裕三編(1995)『ではまた明日』草思社, pp.105-106

高校3年生の青年が、こんなに深く自分の生き方を考えていたとは、本当に驚きですね。

できるだけのことはやってみよう。その結果がどうであれ、挑戦することが、あきらめないでやることが、癌を克服できたと言
えるのではないか。1)

しかし、疲労原因説を発見してからは急に元気が出て、治す目的でもサイモントン療法ができるようになった。
しかし、この数日の自分の死の体験、それに関わる考えの変遷はかけがえのない俺の宝物となった。それに、一日一日を精一杯生きるという生き方に巡り会えたこと、これは何物にも代えがたい。すべてのものに感謝しつつ、自分ができることを他人にしてやるというつこと、明日死んでもいいような生き方を今日すること、これが大事なんだと気づいた。

いつの日でも、今日で自分の人生が終わったらと考えながら生きていくと、自ずと充実した人生になるのだろう。
では、受験勉強をしたいので今日はこれでおしまい。
また明日。2)


引用文献:
1) 前掲書, p.106
2) 前掲書, pp.107-108

非常に抑うつ状態が強くなったお子さんのそばで、看病しているご両親はどうしたらいいだろうかと心を痛めていることでしょう。でも、死さえも意識するほど心が苦しくても、お子さんの心の中には、強く変容していく力を持っているのです。
期待が大きかっただけでに、効果の上がらなかった化学療法に落胆した英史さん。でも病院から提供される「医療」ではなく、自分で自分の身体にアプローチしていくこと(自分なりの三叉神経痛対策とか、治っていくプロセスを心の中で描いていくサイモントン療法など)を始めたことは、自分の身体の治ろうとする力を、もう一度信じてみようと思ったからだと思うのです。自分なりの方法で。
きっとそれは、本人にとって一番大切なことだと、私は思うのです。
たとえそれが医学的に「治癒」と表現される状態を生み出していなかったとしても、少なくとも英史さんは自分で自分の人生を作り出しているという実感を伴っていただろうから…。受動的に命を長らえている自分なのではなく、能動的に自分の命を作り出していこうとしているのだから。

 
落ち込むことによって、何を一番手にしたいのかがわかるもの。お子さんが自分なりのやり方で、自分の人生を作っていけますように。    
2015/6/6  長原恵子