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病気と共に生きる時、意外と厄介なのは自分自身の心の持ちようかもしれません。今日はそういうことを悩んでいる方のために、昭和の歌人、山崎方代氏(1914-1985)のお話しをご紹介したいと思います。

Lana-Peace 瑞泉寺 山崎方代 歌碑

Lana-Peace 瑞泉寺 山崎方代 歌碑

こちらは、今夏訪れた瑞泉寺(神奈川県鎌倉市)の山門を入った左側、大きな鐘(錦屏晩鐘)のそばに設置されていた山崎方代氏の歌碑です。

「手の平に豆腐のせていそいそといつもの角を曲がりて帰る」

というこの歌、ほのぼのとした情景がとても心に残って、方代氏ってどういう人だったんだろうと調べていくうち、方代氏は若い頃、中途失明されていたことがわかりました。ご苦労は多くあったようですが、元々のお人柄もあってか、俗世間の「あるべき論」的な価値観に左右されず、飄々と、そしてその人生を十分に生きた方でした。

山崎方代氏は大正3年(1914)11月1日、山梨県東八代郡右左口(うばぐち)村で山崎龍吉家の10番目のお子さんとして誕生されました。名前の「方代」は「ほうだい」と読みます。雅号のようなお名前ですが、こちらは本名です。

方代氏のきょうだいは長女と長男のほかは夭逝され、長男も21歳の時にチフスにかかって、亡くなられました。当時、お父様はショックのあまり、石臼を底石に叩きつけて二つに割り、蔵に入って中から鍵をかけ、7日間も閉じこもってしまったそうです。お父様を助け出そうと窓が壊された時、蔵の中には黒い髪が真っ白く変わり、やつれた姿になってしまったお父様がいた(※1)というエピソードが伝わっているほどです。その悲しみの後、山崎家に方代氏が誕生しました。
お父様は「生き放題死に放題の方代」(※2)と命名されたのだそうです。
「放題」という言葉を聞くと、何か勝手気ままな放埓なイメージが浮かんできますが、お父様は「自由に存分にその人生を生きることができますように」と息子の名に願いを託したのではないかと思います。

※1, 2共に出典 山崎方代(1981)『青じその花』かまくら春秋社, P.130

さて、方代氏の若き時代は、ちょうど日本が戦争をしていた頃でした。方代氏も召集されましたが、昭和18(1943)年6月、インドネシアのチモール島クーパンで起こった戦闘で、方代氏は米軍の爆撃により、全身に320もの弾片が突き刺さってしまったのだそうです。何とおぞましい状況でしょう。そのうちの一つは、方代氏の右のこめかみに入ってしまい、両眼の視力を失ってしまいました。その後、右目の視力は戻ることはなかったのですが、左目は治療により0.01まで回復し、度の強いメガネをかけるとぼんやりと見えるようになりました。方代氏は左目の視力を大切にして、天眼鏡(手相を見る時に登場するような大型の凸レンズ)を三つ重ねて、細い字を読むこともあったそうです。

人生これから、という時に失った視力。どんなに辛く、大変だったことでしょう。やがて戦争が終わり、召集解除され、方代氏は昭和21年(1946)5月、病院船で帰還しました。戦後の混乱期当時、不自由な視力で職を得ることは随分骨の折れることだったでしょう。街頭で靴の修理をはじめながら、方代氏は短歌に打ち込んでいくようになり、昭和22(1947)年には歌誌「一路」に詠出するようになりました。かつて18歳の頃には地元の青年団の文芸部に所属し、20歳の頃には山梨日日新聞にも短歌を投稿していた方代氏にとって、歌を詠むとは目が見えるか否かにかかわらず、自分自身の核を保っていくために、必要なことだったのだろうと思います。

方代氏はこんな風に語っています。

いいことに、短歌っていうやつは三十一文字でしょう。短いじゃない。小説だったら字をうずめるのは大変だけどね。でも小説も書いてみたいという意欲はあるんだけど。


引用文献:
山崎方代『もしもし山崎方代ですが』かまくら春秋社, p.129

その後、方代氏は横浜の歯科医院で歯科技工士として働いたり、茶畑で茶摘みに参加するようになりました。横浜の歯科医院はお姉様の嫁ぎ先でしたから、ある程度配慮されていたのだろうと思います。しかし、ある年、茶畑の主人から仕事の依頼を断るお手紙が来たときには、相当ショックだったようです。お仕事は手慣れて早いけれど、新芽と古葉の区別がついていないから、眼が悪いのではないかという指摘でした。

まったくそのとおりで、右は失明、左は0.01の視力しかないのであるが、生きるためにはこれもいたしかたなかったといって謝まるばかりである。めしさえ食べさせていただけたら手当はいらないとも言ってみたが、茶摘みだけはあのその何ですからというわけだ。(略)
本当に本当に悲しかった。
お目目のせいであるからしかたがない。


引用文献:
山崎方代(1981)『青じその花』かまくら春秋社, p.188

傷痍軍人として傷病恩給も支給されていましたが、方代氏にとって、働くことはきっと、お金以上の何かを得ることだったのでしょうね。茶摘みの時期に集まる人々との交流は、普段の生活とは異なった活気をもたらしていたのかもしれません。

視力の悪化は働く機会を奪っただけでなく、方代氏の歌の世界をも脅かすことになりました。

私は昨年、どうやらこうやら用が足せる程度の視力しかなかった片目が急に見えなくなった。一面にもののあやめもわからぬ白濁の世界となったときの狼狽を思い出すのであるが、盲目と歌とを考えてみたのは初めてであった。写生をやらない癖が身についていたのでたとえ目が見えなくても歌はできるかもしれない。しかし、その淋しさは耐えられないものであった。

目が見えないと心境に一段と深まりが出てくるというのはうそらしい。
少なくとも私にとってはそうであった。心の中からひょいと出てくるといっても、それは目が見えるからである。目玉は何の役にも立たぬものが映っているようだが、視覚がピラピラと遊びながら眠っている心の暗部をなぶるのであろう。これも忘れることのできぬ歌の見直しであった。入院手術をして半年たってからやっと元の視力になった。元に帰ったといってもわずかの視力であるが、それでも見えないよりは増しである。

いきなり人並みの視力にもどったらこれまた大変だ。今まで見えなかった人の睫毛までが細かく見えるようになっては、その調整に全身のバランスが狂ってくるだろう。

いよいよ、数え年で来年は60歳になる。思えば長く生きてきたものだ。一人ぐらしの気安さをうらやむ人もあるが、今さら、そうでもないですよと説明することもあるまい。歌を作るのにはいろいろな条件がいるが、精神のコンディションを調整することが私にとってはまず先決である。歌の秘密というとおこがましいが、結局それに尽きるのではあるまいか。不仕合わせを、少しずつ生活の意識の中に混ぜておくのが精神のバランスである。つまり、ちょっぴり不幸という薪をちょろちょろくべるということであるろう。

私はたいへん勝手に生きてきたような気がするが、歌をつづけてきたことは右のような薪をくべてきたのではないかという気もする。つまり、案外、人工的な生き方をその意味でやってきたと言えば言えるかもしれない。その仕返しは必ずくるはずだ。どっかり腰をすえて、その仕返しを受けてみよう。(略)

ようやくに鍵穴に鍵をさし入れるこの暗がり
のうらがなしさよ

ひとりよがりのはにかみを持ち出でゆけばみ
んなせわしく働いている



引用文献:
山崎方代(1981)『青じその花』かまくら春秋社, pp.53-54

半年もの入院と治療。そこで得られた結果は、他人から見れば、喜べるほどの回復とは言えないかもしれません。逆に「半年も治療をしたというのに…」と落ち込むもかもしれません。でも方代氏の言葉には、そんな恨めしい気持ちは微塵も感じられません。方代氏にとってたくさんの不幸とは、わずかな前進でさえも大きな喜びを感じさせてくれる原動力であり、そうした心の昂揚は、歌を詠むうえで欠かせなかったのだと思います。そして右目はまったく見えず、左目は0.01であったとしても、その範囲で見える世界の中から、何かを感じ取り、言葉を紡ぎだす才能って本当にすごいことですね。

時にはこんな日もありました。

手の甲に顎をのっけてくちびるを窓より外に
突き出して居た


引用文献:
山崎方代(1981)『青じその花』かまくら春秋社, P.152

方代氏はその時、何を考えていたのでしょう。このように続いています。

毎日の人生のくらしをこんな風にボーッとして見送って暮らしていても、たまには潮のように寂しさがしのび寄せてきて身をゆさぶりやまない時がある。みずからの首をみずからが断つようなあやふさにさいなまれて、悔の深さにおののく日がある。若い時には年に一回くらいだったのが、近ごろは月に一回ぐらいせまってくる。

しかし、ボーッとしてくらしているように見えても、五分の魂で本人にとってはそれはそれは大変なことで、ぎりぎりいっぱいに毎日を生きているつもりだ。(略)
無病息災、これは哲学者に言わしむれば、生きている事は不幸の始まりであるらしい。しかし私はたとえ地べたに面をすりつけてあやまりながらも、生きている限り生き抜くつもりである。

引用文献:
山崎方代(1981)『青じその花』かまくら春秋社, p.152

「生きている限り生き抜くつもり」と言いつつも、方代氏も自らが命を絶つかもしれないと自分自身を恐れるほど、抑うつ状態になっていた時もあったようです。そこで方代氏はどうされたのでしょう。

窓のない笹小屋の内に立ったりすわったりうずくまったり、なぜかものうくけだるく手の届く所の物を取るさえも片わらの蝋に灯を入れるのも大儀である。息をひそめてじっと闇をうかがいながら眠れない朝を待っている自分をひょっと自分で断つおそれがあるので、寝台のへりに両手を固くひもでくくりつけて、わけのわからぬ空念仏を唱えながら恐ろしい夜の白むのを待っていると、長い長い夜のおわりに朝の光が疲れ果てた瞼をくすぶってくれる。もうしめたものだ。

死神にとりつかれたあれほどのさびしさもどこ吹く風だ。夜が明けた。太陽が上がっている。風が吹いている。雲が飛んでいる。花が咲いている。あなたひとりのために。

たいせつな一日である起き出して外の空気を
はりたおす

安気というかのん気というか、朝の空気にふれると重い思いは消し飛んでしまう、これも親が授けてくださった事をちゃんと知っている。


引用文献:
山崎方代(1981)『青じその花』かまくら春秋社, pp.153-154

自分ただ一人のために、太陽が上り、自分のために風が吹き、自分のために雲が飛び、自分のために花が咲く…驕りとかそういうことではなく、身の回りに起こる森羅万象が、自分を励ますために起こっているのだと考えてみると、そこから生まれ出る感情はずいぶん変わるものですね。
そうすると、いつまでも悩んで立ち止まリ続けているわけにはいかないなって思えませんか?

※山崎方代氏に関する参考文献
山崎方代(2003)『こんなもんじゃ 山崎方代歌集』文芸春秋
山崎方代(2004)『もしもし山崎方代ですが』かまくら春秋社
田澤拓也(2003)『無用の達人 山崎方代』角川書店
高村壽一(2000)『石の心を―山崎方代という歌人』邑書林

 
「たいせつな一日である起き出して外の空気をはりたおす」そういう気概はどんな状況をも打破する力を持っているような気がします。
長原恵子