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たとえ耳が聞こえなくなったとしても…

小学校だったのか、中学校だったのか定かではありませんが、音楽の授業で「モルダウ」(ドイツ語ではモルダウ、チェコ語ではブルタワ)を初めて聴きました。当時、海外旅行など一度も行ったことのない田舎のこどもだった私は「ヨーロッパの川は何と雄大な流れなのだろうか…」と感動し、あれこれ彼の地の風景を想像したことを思い出します。でも、その曲が、実は耳が聞こえない方が生み出したものだと知ったのは、それから30年以上経ってからでした。驚きと驚きと、そのまた驚き…。
今日はその作曲者 ベドルジハ・スメタナ氏(1824/3/2-1884/5/12)のお話を、ご紹介したいと思います。

ベドルジハはプラハに住居兼音楽教室を構え、生徒指導のほかに作曲など音楽活動を行っていました。しかし経済的には厳しかったことから、30代半ばの頃、当時声がかかっていたスウェーデンのゲーテボルグへと渡りました。ゲーテボルグでベドルジハは、水を得た魚のように活躍しました。音楽指導やコンサートの定期開催、交響詩の作曲…それらはプラハにいた時よりも、格段に高い報酬を得て、生活はすっかり安定していきました。しかしどんなに生活が潤っても、ベドルジハにとっては異国の地。祖国の音楽向上のために尽力したいと、ずっと思っていました。
そんな折、チェコで大きなうねりが起こることを知ったのです。当時、オーストリア帝国による支配を受けていたチェコは、ドイツ語が公用語とされていました。しかし民族復興運動の気運が高まり、プラハにチェコ語のオペラと劇を上演するための劇場を作ろう、という動きが起こったのです。小さいけれども、しっかりした仮劇場が建設される、というその知らせに、ベドルジハの心は躍りました。そして1861年4月、スウェーデンでの生活を終わらせ、プラハに向かったのです。ベドルジハ、37歳の春でした。

彼は新市街ジェズニスカー通りに住まいを見つけ、病死した前妻との間に授かっていた三女ジョフィエと、再婚した妻との三人の暮らしを始めました。その数カ月後に五女ズデンカが生まれ、1863年1月には六女ボジェナが誕生し、スメタナ一家は五人家族となりました。しっかり家族を養わなくては…という思いに駆られたのでしょう。親友の作曲家・バイオリニストのフェルディナント・ヘレル氏と共に、1863年9月、音楽学校を開きました。ブルタワ川沿いのラジャンスキー宮殿で開いた音楽学校には、どんどん生徒が集まる一方で、彼の指揮者としての才能も認められ、ベドルジハは1866年9月、仮劇場の首席指揮者に選ばれました。オーケストラや合唱団のメンバーからも慕われ、オペラの作曲にも励む日々を送っていました。しかし「好事魔多し」と言います。ベドルジハは次第に周囲の人間関係の狭間で、悩むようになりました。新聞紙面で言われなき酷評を書かれたり、首席指揮者の座から彼を下ろそうとする陰謀などに巻き込まれ、ベドルジハは神経をすり減らす日々が続くようになりました。

1873年、ベドルジハは首席指揮者に再選されましたが、度重なる心労は彼の身体をも蝕むようになっていきました。1874年4月半ばには発疹が現れ、それが収まると、6月にはのどの炎症が何週間も続くようになりました。
そして自分が創立したオペラ学校の初公演に向けて、リハーサルをしていた6月30日、彼の耳に異変が起こったのです。
ベドルジハの片方の耳に高いオクターブの音が響き、同時に両耳はピリピリし、まるで大きな滝の中に佇んでいるかのような騒音が耳の中で起こりました。彼は一旦耳鳴りが収まるのを待って、練習を再開しました。しかし突如起こった耳の不調。彼の味わった恐怖とショックは、きっと私たちの想像も及ばないほど大きかったと思います。なにせ初公演は翌日に迫っていたのですから…。

7月1日、オペラ学校の初公演は無事大成功に終わり、ベドルジハは4日、オフチャールナー村に一家で向かいました。結婚した三女が新しい家庭を築いていたその場所は、とても自然豊かな場所でした。そのような環境で、信頼できる家族と共に過ごすことにより、彼は心と身体を休めることができたでしょう。やがてベドルジハは、もう主席指揮者の地位を降りて、ピアニストとして活動したいと思うようになりました。わずらわしい人間関係によって、自分の身体に大変な変調が起こっている今、自分がどうしても追い求めたいものは一体何であるのか…?自分の心と向き合ったからだろうと思います。そして耳の不調もきっと一時の変化であり、ストレスを感じる状況から身を離せば、良くなるだろうと考えていたのかもしれません。ベドルジハは何時間もピアノに向かい、練習を始めました。しかし耳鳴りがひどく、ピアノの音は正しく聞こえませんでした。7月半ばには全身に発疹が現れたため、プラハまで戻って診察を受けましたが、結局、塗り薬をもらって帰ってくるだけでした。

そして7月28日、ベドルジハは娘婿とアヒル狩りに出ていた時、突然、耳の閉塞感とめまいが起こり、まっすぐ歩けなくなったのです。最初は天気の変わり目のせいかと、ベドルジハは思いました。しかしその数日後の夕方、娘夫婦と散歩している最中に、今度は幻聴が聞こえてきたのです。ベドルジハには確かにフルートの音色が聞こえてきたのですが、娘夫婦には聞こえません。翌日、部屋の中でもその音が聞こえ、騒音も響くようになりました。そういう事態が何日も続き、ベドルジハはプラハの耳鼻咽喉科の名医の元を訪れました。内耳炎と神経の使い過ぎによる耳鳴り、幻聴だと診断されました。スプレー薬の注入、通気療法、耳管カテーテル、エーテル注入、空気浴、あらゆる方法を試みました。補聴器も使いましたが、人の話し声はベドルジハには騒音にしか聞こえません。ついにベドルジハは9月7日、仮劇場管理委員会の副会長に次のように手紙を送りました。

『私は自分に振りかかったひどい運命についてあなたにお知らせするのを、自分の義務だと考えます。
私は聴覚を失うかもしれません。右耳は全く聞こえず、左耳だけが聞こえています。私は七月から治療を受けていますが、ずっとこの状態です。それはオペラ学校の初公演の最終リハーサルの時に起きました……(略)
このような訳で、私はあなたに、私のこの不幸な状態を管理委員会にお知らせ下さるようお願いします。これは全くの災難です。ですので私が自分の務めを果せない間、つまりこの状態が改善するまで、私の指揮と練習の義務を免除して頂きたく、そのこともお願いします。もしあと三ヶ月たっても私の健康が悪いままでしたら、私は劇場における自分の地位を断念して、自らの運命に身を任せるしかありません。

私はピアノのレッスンも行えないため、収入の道が途絶えて家族を養えなくなってしまいます。
それで管理委員会に私が受け取るはずのオペラ学校の教授料を出して下さることを、お願いしたいのです。
ツォウファル博士は私の悲しい健康状態について、いつでも診断書をあなたに送って下さるでしょう。
委員会の決定をお待ちします』

引用文献:
ひのまどか(2004)『スメタナ 音楽はチェコ人の命!』リブリオ出版, pp.154-155

ベドルジハの頭の中は、自分の音楽家としてのプライドよりも、家族の生活の安定を確保することで、いっぱいだったことでしょう。
10月になると、注入法の治療後、久々に左耳でオクターブの全ての音を聞き取ることができました。彼は家族と喜び合いましたが、それもつかの間、10月20日には、左耳の聴力も完全に失われてしまったのです。右耳から始まってついに左耳も…これで両耳の聴力を彼は失ってしまったのです。医師は両耳の完全な静寂を保つため、耳に綿を詰めて、家から出ないようにとベドルジハに命じました。しかしそれははからずも、仮劇場でベドルジハの作品「売られた花嫁」の記念すべき50回目の公演が行われていた日だったのです。
そしてついにベドルジハは仮劇場主席指揮者の地位を追われ、11月1日、後任が決まりました。

ベドルジハは長年の経験から、楽譜やスコアを見ればピアノがなくても、音が頭の中で再現され、作曲することができました。そこで彼は、実は9月末からボヘミアを讃えるオーケストラ曲の作曲に着手していたのです。彼は「わが祖国」と名付けた連作交響詩の第一曲目「ヴィシェフラト」をわずか1カ月半で書き上げました。スコアの最後には1874年11月18日と日付を入れ、「耳の病を患いながら」と添え書きしました。そしてベドルジハは、指揮者や演奏家がこの曲の意図や背景をよく理解できるようにと、細かく解説も書き加えました。

《ヴィシェフラト》

『伝説の吟遊詩人ルミールが、岩上の城ヴィシェフラトを眺めながら過去に思いを馳せている。
彼が奏でる竪琴の響きと共に、栄光の時代の王や騎士たちの祝宴の情景が浮かんでくる。ルミールは試合や戦闘についても歌う。
勝利の歌がこだました城は幾多の戦いで崩れ落ち、金色の広間も玉座も打ち砕かれた。
ヴィシェフラトは廃墟となり、何世紀もの間さびれた姿でたたずんできた。
廃墟からは昔の歌がこだまし、ルミールの竪琴の音は風の中に消えてゆく』


引用文献:前掲書, p.159

まるで映画のようなワンシーンが、頭の中に瞬時に広がりますね。ゼロからアートを生み出す天賦の才は、耳に支障が起ころうとも、ちっとも損なわれるものではないと、改めて感服です。
ベドルジハはそれから2日後の11月20日、今度は二曲目の交響詩「ブルタワ(ドイツ語名モルダウ)」の作曲に着手しました。苦しく辛い時期に精力的に作曲し、結果を出せたことは、きっと彼の心の中で自己肯定感を生み出し、自信を引き出したことでしょう。

ベドルジハにとって「ブルタワ川」は、7年も前から温めてきた作曲テーマでした。1867年8月下旬、ブルタワ川源流の美しさと雄大さに出会い、彼は深い感銘を受けたからです。それは仮劇場オーケストラのバイオリン奏者モジツ・アンゲル氏の招きによるものでした。プラハから100キロ南下したその森林豊かな場所は、まさにブルタワの源流、ヴィドラ川とクシュメルナー川が合流する地点でした。聞こえてくるのは遠くの製材所の音と、大自然の生命の息吹だけ。彼はそこからオタワ川との合流地点まで歩きました。オタワ川は北に向かって流れを進め、やがてブルタワ川へと流れ込むのです。今となっては、ベドルジハはもう耳は聞こえなくなってしまったけれど、当時彼の心に刻まれた川の流れの美しいハーモニーは、色褪せることなく蘇ってきたことでしょう。7年分の思いを込めて、ベドルジハは19日間ペンを走らせました。

《ブルタワ》

『曲はブルタワの最初の小さな流れ、冷たく、そして暖かい源流から始まる。二つの流れは一つになり、岩に当って清々しい水音を立てながら、陽の光を受けてしだいに川幅を増してゆく。川は狩人の角笛が響く森をぬけ、収穫祭が行われている田園を流れてゆく。
夜には月明かりを浴びた川で、水の精たちが踊る。朝になって流れは速さを増し、聖ヤンの急流にしぶきをあげて流れ落ちる。川幅を増して大河となったブルタワは、古く尊いヴィシェフラトに挨拶を送りながら、ゆったりとプラハに流れこみ、ついには壮大なエルべ川へと流れ去ってゆく』


引用文献:前掲書, p.163

そして完成した1874年12月8日の日付と共に『全くのつんぼになって(※)』と書き記したのです。 (※長原注:差別的な言葉だとは思いますが、文献から引用した表現なのであしからず…)
その一言に、彼の切ない気持ちが、伝わってくるようです。
 
耳が聞こえない状態で書き上げた交響詩ですが、当時五女ズデンカは13歳、六女ボジェナは11歳でした。彼女らの将来を思うと、父としてベドルジハは、耳の不自由さなどに負けてはいられない…といった思いがあったに違いありません。
経済的に困窮していたベドルジハに、1875年、年明け早々、仮劇場管理委員会からある知らせが届きました。劇場作曲家として働かないかという仕事の提示でしたが、それはあまりにも不当に低い金額だったのです。

深く自尊心を傷つけられ、憤慨したベドルジハは、そのエネルギーを自身の作曲活動に向けていきました。そして1月半ば、三曲目の交響詩「シャルカ」を書きはじめ、2月20日に書き上げたのです。

《シャルカ》 

『この曲はシャルカ谷に伝わる女戦士シャルカの物語を描いたものである。 
初めに恋する男に裏切られたシャルカの怒り、屈辱、激怒、復讐の誓いが語られる。騎士ツティラートと部下の戦士の一団が、女戦士軍をこらしめるため森に入ってきた。武器を持ち行進する音が聞こえてくる。 
シャルカは部下に命じて自分を木に縛りつけさせ、か弱い声で助けを求める。 
テイラー卜は彼女の美しさに心を奪われ、その場で恋に落ちた。 
彼はシャルカを自分の城に連れ帰り、盛大な宴を聞く。 
シャルカは用意していた薬入りの酒で男たちを酔わせ、彼らは全員眠りこんでしまう。 
シャルカは外で待機する女戦士軍に、角笛の合図を送る。遠くからこたえる角笛。 
女戦士軍は城になだれこみ、眠る男たちに襲いかかってみな殺しにする。シャルカも自分の剣で騎士を刺す。
復讐を果したシヤルカの、勝利のおたけび』

引用文献:前掲書, pp.165-166

その年、ベドルジハの経済的な苦境を救うため、友人、弟子、助手が立ち上がりました。彼の耳が何とか治るように、外国で名医の治療が受けられるようにと、治療費をまかなう慈善コンサートを、チェコとスウェーデンで開催してくれたのです。またかつて仮劇場でベドルジハの助手だったチェッフの指揮によって3月14日に「ヴィシェフラト」、4月4日に「ブルタワ(モルダウ)」が初演されました。
そうした協力を得て、ベドルジハは4月にはドイツで耳の名医の診察を受けることができました。しかし期待に反して、治療法が見つからず、地元プラハの医師に鼓膜切開してもらう事を指示されただけでした。翌月、オーストリアに向かい、電気を通す治療を受けました。両耳に綿栓をし、耳の安静を保つために会話もピアノも禁止され、耳の後ろと身体に軟膏を塗って四週間部屋に引きこもる、といった治療も行われましたが、結局改善は見られませんでした。

プラハに戻ったベドルジハは、地元で医師の治療を受けることにしましたが、決して創作意欲が失せることはありませんでした。すごいことですね…そうした強さは、彼ならではの強さであり、その強さがあるがゆえに、苦境の中から美しい作品を生み出すことができたのですね、きっと。

その年の夏、三女ジョフィエ一家の転居先ヤプケニツェ村を訪れたベドルジハは、交響詩「ボヘミアの森と草原より」に取り組みました。

《ボヘミアの森と草原より》 

『これは私がボヘミアの田園風景を眺めた時心に呼び起こされる全ての感情を音で表現した曲である。
木立、牧場、森、肥沃な大地、だれもがこれを聴く時、私が何を描いたのか分ってくれるだろう』 


引用文献:前掲書, p.172

この頃、もはや声の音量がうまく調節できず、怒鳴るように話していたベドルジハでしたが、きっと自然豊かな場所で娘家族と過ごした時間が、多くの滋養をもたらしたのでしょうね。そして、耳が聞こえなくてもまだ作品を生み出せる自分を、嬉しく思っていたことでしょう。
ベドルジハはプラハに戻ると、作家エリシュカ・クラスノホルスカー氏に、オペラを一緒に制作しようと話を持ちかけました。そして二人の共同制作が始まったのです。話すことができるけれども、聞き取ることのできないベドルジハは、エリシュカには筆談でコミュニケーションを図ってもらいました。そして1875年11月、ボヘミアの再婚男性に対する言い伝えを喜劇にしたオペラ「接吻」の作曲を手掛けたのです。

そうした中でもベドルジハは経済的な苦しさから抜け出せず、家賃滞納が続き、ついに大家からは督促状が来てしまいました。そのため1876年6月、ベドルジハは住み慣れたプラハでの生活に別れを告げ、次女の住むヤプケニツェ村へと身を寄せたのです。 当時の日記には、このように書かれています。

『私の頭の中で鳴り響く音、これが一番恐い。
頭の中が全くの静寂ならばまだ我慢できる。

しかしほとんどいつもつづく騒音は時として雷のように大きくなって、私を拷問責めにして打ち砕く。刺し通すような金切り声、かん高い口笛のような音、ぞっとするような騒ぎ。まるで怨霊や悪魔が激しく荒れ狂って私を押さえ付けようとしているみたいだ。
最後はどうなってしまうのか、私は心配だ』


引用文献:前掲書, p.176

彼の本音と苦悩が滲み出た言葉…とても切ないですね。
そのようなベドルジハが何とか楽しく過ごせるようにと、家族は雰囲気作りに努めました。前庭での食事、茶会の開催、歌や踊りに興じたり、森の池での水遊び、そして近くの町へのお出かけなど…。
お出かけの際はベドルジハに気付いた人々が、彼に尊敬の言葉をかけてくることもありました。たとえ耳が聞こえなくても、その表情や仕草を見ていれば、自分がどんなふうに思われているのか、嬉しく伝わってきますね。家族や周囲の思いを、きっと彼は十分汲み取っていたことでしょう。朝食後と夕方散歩に出る以外、ベドルジハは作曲に没頭していきました。 

そして7月29日、エリシュカとの共同作品であるオペラ「接吻」を完成させると、ベドルジハは直ちに、弦楽四重奏曲「わが生涯より」に着手しました。「接吻」は11月7日に仮劇場で初演され、ベドルジハは平土間の最前列に座って鑑賞しました。公演は大盛況で、幕が終わるたびに耳の聞こえないベドルジハに向かって、聴衆が手やスカーフを振り、感謝と賛辞を表しました。そして一週間後には大祝賀会が仮劇場で開催され、ヤプケニツェ村に戻ると彼を待っていたのは、祝電の山でした。音の聞こえない世界の中で自分が造り出した音により、こんなに人々と繋がることができている…その喜びは、何にも代え難いものだったに違いありません。

ベドルジハはそれからも、精力的に作品を生み出していきました。エリシュカとの共同作品オペラ「秘密」を書き上げ、1878年秋には連作交響詩「わが祖国」の中で五曲目にあたる「ターボル(陣営)」を書き始め、12月13日に完成させたのです。

《ターボル》 

『フス団の讃美歌「汝ら神の戦士」がターボルの町で歌われ、キリスト教徒全員の頭上に響く。讃美歌は戦いにおもむくターボル派の人々を勇気づけ、戦いの神聖さを断固確信させた。
戦闘のさなかにも讃美歌は聞こえ、信仰を裏切るよりは死を選ぶターボル派の激しさに、敵は恐怖に陥った』 


引用文献: 前掲書, pp. 181-183

そして六曲目の「ブラニーク」に取りかかり、翌年の3月、55歳の誕生日を迎えたすぐ後に完成させました。

《ブラニーク》 

『《ブラニーク》は《ターボル》のつづきとなる曲である。フス団の戦士たちは戦いを終えたのちブラニークに隠れ、国を救う時が来るのを待って眠っている。
曲はフス団の讃美歌「汝ら神の戦士」で始まり、小さな間奏曲としてブラニークの周りの風景の描写や羊飼いの少年が奏でる牧歌をはさんで、敵の来襲、新たな讃美歌「汝らの神と共に勝利を収めん」がつづく。
さいごに《ヴィシェフラト》のテーマがチェコ民族の復興と未来の栄光を讃え、《わが祖国》の全曲は終わりを迎える』



引用文献: 前掲書, p.183

1881年6月11日、それまで仮劇場だったチェコの国民劇場が、正式な国民劇場として開館し、オープニング作品としてベドルジハが1872年に書いたオペラ「リブシェ」が選ばれました。賞金も授与されました。諦めることなく、地道に努力を重ねていれば、いつかあたたかい日差しを存分に浴びることができますね。ベドルジハの努力の賜物です。彼はオーストリア皇太子ルドルフ二世に謁見し、作曲者として紹介される栄誉も受けました。

そして1882年、エリシュカとの共同作業でオペラ「悪魔の壁」を書き上げましたが、彼の身体はかなり負担が重なっていました。6月にかかった気管支炎は、もう何カ月も続いていました。

ベドルジハの記憶力の低下は進み、過去に書いたものは記憶に残っていませんでした。そして作曲中も、今書いていたところを忘れてしまうようになりました。散歩中も道がわからなくなりました。7月14日、プラハにいる友人へ送った手紙には、次のように記されています。

『私は弦楽四重奏曲の第一楽章を書き上げたが、その形式が普通とはずい分違うので、演奏者にかなりの負担を強いることになりそうだ。私は疲れと眠気を感じていて、少しずつ音楽の感性が失われてゆくような恐怖におそわれる。

今私の頭の中は、憂うつと、辛さと、悲しみの霧に覆われているような気がする。もうすぐアイデアが枯れて、それから長い間の沈黙の後、私の才能が終りを告げる時が来るのではないかと恐れる』


引用文献: 前掲書, pp.202-203
1882/7/14 スルブ・デルブノフへの手紙

11月5日、ジョフィーンホールで連作交響詩「わが祖国」の全曲初演が行われた喜びもつかの間、11月半ばの夜、ベドルジハは声が出なくなってしまいました。文字を理解できず、「チェ、チェ」と叫ぶだけでした。孫の名前もわからなくなってしまいました。その日の深夜、医師が往診に来た時には、字も読め、家族全員の名前を思い出すことができましたが、一週間後、ベドルジハにまた同じような発作が起こってしまったのです。今度は一言も発せなくなりました。脳の充血による症状と診断されてアルコールを禁止され、脳の負担を軽くするために、読み書きや考えること、作曲するなどの行為を一切禁じられました。

『こうなることはプラハにいた時から気付いていた。
わたしは自分の新作(オペラ<悪魔の壁>)が不快なものに変って私を苛立たせ、また最初から作り直さねばならなかった。
この夏中、寒気が身体から抜けなかった。
私の陽気さは日に日に失われてゆく』 


引用文献:前掲書, p.204
1882/12/9 スルブ・デルブノフへの手紙 

そのような状況でも少しずつ書き進めたベドルジハは、ついに1883年3月12日、弦楽四重奏曲を完成させました。その頃、幻覚を見るようになり、集まりに出かけても、他人の話を遮り、自分の幻覚の内容を話すようになりました。手紙を自分では読めなくなっていましたが、家族にゆっくり大声で読み上げてもらい、その唇の動きでスメタナは内容を把握するようにしました。ぎこちない歩行ではありましたが、ようやく出掛けた先で知り合いに出会っても、顔の見分けがつかなくなってしまいました。それでもベドルジハはオーケストラ組曲「プラハのカーニバル」の作曲を始め、九作目オペラ「ヴィオラ」の作曲も計画していました。

そしてついにベドルジハは1884年5月12日、前月から入院していた病院で息を引き取りました。その入院とは、錯乱状態になったベドルジハを、もう家族が自宅でお世話しきれないということで、至ったものでした。彼は自分が自分ではなくなっていくような恐怖に怯えていましたが、恐怖に打ち勝っていた彼のそばには、いつも原点に返ることのできる「作曲活動」があったと、改めて感じることができます。

 
限界の線を引くのはきっと自分。その線を引かずに努力を続ける時、きっと苦境の中を生きる強さが生まれるのだと思います。    
長原恵子