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2018年4月、訪れた東京国立博物館では今年、国宝・重要文化財として新指定されたものが展示されていました。そこでとても印象的だった掛け軸がありました。「京都盲唖院唖生図画成績品」です。


品名:
京都盲唖院唖生図画成績品(重要文化財)
員数:
一幅
技法:
紙本着色
時代:
明治31年(1878)頃
所蔵先:
京都府
出展先・年:
東京国立博物館(東京)・2018年4月

掛け軸の一番上に横書きで「京都盲唖院唖生図画成績品」と記され、その下に四枚の絵が上から順に並んでいました。
一番上の花の絵は図画科1年生 三輪治三郎氏(京都16歳)の作品。次の桜の絵は図画科2年生 上枝寛平氏(香川17歳)の作品。三番目は枝にとまる鳥の絵、こちらは図画科3年生 魚住全二氏(福井17歳)の作品、そして一番下に幾何学模様と蝶の図柄の模様パターン、これは図画科4年生 吉原千代氏(三重17歳)の作品です。

作品名冒頭の「盲唖院(もうあいん)」とは目や耳が不自由なこどものための教育施設で、唖生(あせい)とは耳の不自由な生徒のことです。京都盲唖院は我が国で初めて本格的な特別支援教育に取り組んだ学校で、現在の京都府立盲学校、府立聾学校の前身にあたります。明治11(1878)年に仮の盲唖院が開設され、翌年正式に京都盲唖院が開校したのでした。基礎教養から始まりましたが、やがて各領域に特化した職業教育によって自立生活が営めるようにと、専修科が開始されるようになりました。唖生(耳の不自由な生徒)専修科には10科設けられ、その中で絵画を学ぶ課程が置かれたのです。

今回取り上げたこの図画成績品は、図画科の各学年の生徒の作品の中でも最も秀でたものが一幅の掛け軸として仕立てらたものでした。見事な秀作揃いで、各人の豊かな若い才能が作品に溢れていました。明治時代、全国で学制が敷かれたのは明治5(1973)、この掛け軸の作られたのはそこから既に二十数年が経ってはいましたが、まだすべてのこどもたちが学校に通えていた時代ではありません。明治31(1898)年の全国の小学校就学率を調べてみると、70%を切っていました(※1)。未就学のこどもは様々な事情を抱えていたのだろうと思いますが、そのような時代に身体に障害があっても学びたい意欲を強く持ち、なかには京都よりも遥か遠くの地から親元を離れて学びにきていた生徒がいた、という事実がとても強く心に残りました。そして京都盲唖院について調べ始めてみると、そこには非常に気骨溢れる明治の人々の姿がありました。目や耳の不自由なこどもたちが初等教育及び職業訓練を本格的に受けることができる機会を作ろうと、情熱を燃やして奔走した人々。今日はその中心となった古河 太四郎(ふるかわ たしろう)の軌跡について、ここでご紹介したいと思います。太四郎は本人の自筆の中で「古河」「古川」の両方を用いたようですが、ここでは数多くの文書の中で確認できる「古河」の表記を用います。

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1. 古河太四郎の生い立ち
2. 熊谷伝兵衛との出会い
3. いん唖教場
4. 仮盲唖院の開設
5. 京都盲唖院の開校
6. 工夫された支援教育
7. 太四郎 京都盲唖院を去る
8. グラハム・ベルとの出会い
9. 五代五兵衛との出会い
10. 太四郎と大阪盲唖院

1. 古河太四郎の生い立ち
弘化2年(1845)年、古河 太四郎は京都最大の寺子屋「白景堂」の四男として誕生しました。大変聡明だった太四郎は、既に12歳で寺子屋の師匠となりました。そして明治2(1869)年、24歳の時には全国に先駆けて京都の町衆の自治組織(番組)によって立ち上げられた小学校の一つ、上京第十七番組小学校(※2)に筆道師として採用されました。

その翌年、太四郎の人生に大きな転機が訪れました。明治3(1870)年の夏から2年に渡り、千本牢獄で獄中生活を送ることになったのです。罪状は許可証の偽造と平常帯刀の罪でした。許可証の偽造、それは彼が私利私欲を肥やすためではありません。洛北、大門村の人々を助けるためでした。古くから村人は鷹ケ峰の釈迦谷、尺八池から流れる若狭川を水源として利用していましたが、尺八池を寺領用水としていた大徳寺と水を巡る争いが絶えませんでした。慶応2(1866)年から4年にかけて台風、大水害、旱魃のために大きな被害を受けた村人は、水源を確保しようと尺八池より一つ下、長く埋もれていた新池の工事を行いたいと欲しました。その池の工事に必要な許可証を太四郎が偽造した、という罪に問われたのです。太四郎がその事案に関わった詳細ないきさつは不明ですが、明治維新当時、太四郎は岩倉具視や三条実光らと共に寝食を忘れて国事に奔走し、その中で図らずとも国禁に触れたことから、大物に及ぶ罪を太四郎が一身に受けて罪に服した(※3)たと記されたものが残っていますので、恐らくこの服役のことを指しているのだろうと思います。

この頃、太四郎は目や耳が不自由な人が障害を理由に差別的な扱いを受けている事実を知り、心を痛めることがありました。投獄前夜、酒に酔った人が盲目の按摩師を侮辱する様子を太四郎は目にしました。そして収監された千本牢獄の窓からは牢獄の外で、耳の不自由な二人の子がいじめられている様子を見てしまったのです。殴られて泣くこども、そしてそれを嘲笑されるという残酷な場面。でも囚われの身の自分はその子らを助けることはできないのです。太四郎のそうした経験は、獄中の彼の心に意味のある大きな一石を投じることになったのでした。

2. 熊谷伝兵衛との出会い
2年の獄中生活を経て晴れて自由の身になった太四郎は、明治6(1873)年1月20日、上京十九区小学校の算術五等権教師を命じられて復帰しました。五等権教師とは新任者の見習い期間の資格を表すものです。そこで太四郎の人生を定める大きな出会いがありました。その人の名は熊谷伝兵衛。伝兵衛は京都上京西堀川通りで、砂糖問屋沈香屋の四代目当主を務めていました。同時に上京第十九区の区長でもありました。当時の区長とは小学校の管理、学校会計、区内の自治、地域事務などを担っていたそうです。伝兵衛は蚊帳の中にランプを持ち込み、新聞を精読していたというエピソードが伝わります。大きな社会の変革の潮流にあった明治初頭、伝兵衛は商売のためだけでなく、町の人々の暮らしと改善に問題意識の目を向けながら、新聞を読んでいたのかもしれません。

沈香屋の隣りには山口家が店を構えていました。柳屋と称し、傘や提灯を扱うだけでなく、借家も百数十件有する非常に裕福な商家でした。山口家には耳の不自由なこどもが二人いました。当時小学校では耳の不自由なこどもたちの教育を受け入れていなかったことから、学童期に差し掛かった弟の善四郎と五歳年上の姉いとは家の辺りで遊んでいました。そこに善四郎と同い年で耳の不自由なこども、山川為次郎(為吉とも呼ばれています)も遊びに来ていたのでした。3人のこどもたちが学校に通えず遊ぶ様子を見た伝兵衛は、様々な思いが去来したのでしょう。自分で工夫しながら、彼らに勉強を教えるようになりました。しかしなにせ伝兵衛は教育の専門家ではありません。そこでこの子たちが学校で教育を受けることはできないものかと思い立った伝兵衛は、自分が区長を務める学区の上京十九区小学校に相談に出向いたのです。伝兵衛が何度もお願いに通ううち、ついに太四郎がその子らの教育を引き受けることになったのでした。

3. いん唖教場
太四郎にとっても初めての取り組み。特別支援教育の指導を学んできたわけではありません。耳の不自由なこどもたちにどうやって教育すれば良いだろうかと太四郎は始終頭を巡らし、枕許や風呂場、家中のいたるところに筆と紙を置いてメモしたと言われます。伝兵衛も太四郎を応援するために教材となり得るものを持って来たり、地域の人々と資金を出し合いました。そしてついに明治8(1875)年、小学校の中に「いん唖教場」が作られたのです。この年、小学校は待賢小学校と名前が変わりました。いん唖教場で初めて学ぶこどもたち。だんだん世界が広がっていく喜びを感じていただろうと思います。いん唖教場での教育の成果は着々と上がっていきました。それはなんと明治天皇にも知られることになったのです。時は明治10(1877)年6月28日、京都に行幸していた明治天皇が京都内で選抜された小学生の授業を見学した時のことです。「唖生別課」として善四郎と為次郎も参加しました。太四郎が「愛生」と板書すると、明治天皇の前で二人はそれをはっきりと発音をしたのです。耳の聞こえないこどもが言葉を読み、それを正しく発音すること……明治天皇は非常に心動かされました。そしてこの天覧授業にはもう一つエピソードがあります。それは授業の15日前、下見として文部省大書記官 九鬼隆一氏が善四郎と為次郎の学習の様子を見学した時のことです。彼等に感銘を受けた九鬼は、太四郎に教育方法を報告提出するように命じました。それが現在も残る「京都府下大黒町待賢校いん唖生教授手順概略」(文部省『教育雑誌』第64号附録, 1878)(※4)です。(「いん」はやまいだれに音、と書きますが、常用漢字ではないので、ここではひらがな表記しておきます)。 これは聴覚障害者用の国内初の教科書と言われています。

その教授手順概略の例言の中に次の言葉が出てきます。

一 唖人ヲ教フルノ要点ハ恕ノ一字ニアリ顧フニ彼モ亦人子ナリ而シテ言聴ノ二用全ク廃ス他人之ヲ見ルモ猶忍ビズ況ヤ其身其父母兄弟ニ於テヲヤ吾輩教師タルモ者宜シク茲ニ注意シテ満腔惻隠ノ心ヲ発シ、以テ教示セズンバアルベカラズ


引用文献:
盲聾教育開学百周年記念事業実行委員会編集部会編(1978)『京都府盲聾教育百年史』京都府教育委員会, p.22「京都府下大黒町待賢校いん唖生教授手順概略」例言より
※旧字体・異体字は当方で修正しています。

昔の文書のため難しい言い回しですが、これは太四郎が耳の不自由なこどもたちの教育の原点は恕(思いやり)が大切だと説いたものです。耳が聞こえなくても同じ人間。耳の聞こえない様子は、たとえ他人の子であっても見るに忍びないほど切ないのに、もしそれが我が子やきょうだいのことであれば、どれほど辛いだろうか。教師である自分はそれを十分肝に銘じ、なんとかこの子らを助けたいという志を胸に、教育に携わらなければいけないのだ、ということです。

ここに出てくる「惻隠(そくいん)の情」とは耳慣れない言葉ですが、『孟子』卷之二 公孫丑章句上六 不忍人之心に登場する言葉です。井戸の中に今まさにこどもが落ちそうになっている時、そこでなんとか助けたいと心動かすこと、それが惻隠の情だと説かれています。また惻隠の情は四端(仁・義・礼・智)のうち、仁の糸口であると言われます。道なき所に道を築くような人は、心構えが全く違うものですね。時は移り変わり平成の時代になっても、そうした教師の心意気は変わってほしくないものです。

4. 仮盲唖院の開設
いん唖教場で学んだ善四郎と為次郎は当時進級に必要だった大試験にも合格しました。それは地元京都だけでなく東京の新聞にも載ることとなりました。やがて太四郎は明治10(1877)年、耳の不自由なこどもだけでなく、目の不自由なこどもたちも受け入れるようになったのです。その運営資金を確保するため、太四郎は様々な方面へ寄付を募って奔走しました。

そして明治11(1878)年1月9日、盲唖生募集御願を京都府知事に提出しました。翌月京都府から聾唖盲学校設置の許可が降りると、同年5月24日、ついに仮盲唖院が開校したのです。 
その場所は現在の烏丸御池駅近く、東洞院通御池上ル船屋町。旧生糸改会所を府が借り上げました。開校式直前には待賢小学校地域から144点もの教具類が寄付されたのだそうです。府から一般人の式参観許可が高札で出され、式当日は朝から豪雨だったにもかかわらず、なんと3,000人もの人々が開校式を祝おうと集まりました。12歳になった為次郎と善四郎の当日の様子が、大坂日報で伝えられています。太四郎が「動物ノ中何故ニ人ヲ貴シトスルヤ」と板書すると、彼らは次のように答えました。

山口善四郎は手勢で「人ハ万物ノ霊トテ体躯ノ結構、精神ノ感覚等他物ニ卓越スルガ故ナリ」
山川為次郎は手勢で「人間ノ智恵ハ何ニヨリ増長スルヤ。」
山口「必学ナリ。」山口答えた
山川「然レバ言語ヲナス能ザルモノモ教育ヲ受ケレバ智力ヲ発達シ、万物ニ耻スルナキモノナリ。故ニ開業アル本月本日ハ我等ノ大幸福ト云フベシ」


引用文献:
渡邊祐介(2009)「私立大阪盲唖院が松下幸之助に与えた影響―社会起業家・古河太四郎の教育観を中心に」『論叢松下幸之助』 (11) 4, PHP総合研究所経営理念研究本部, pp.71-72

動物の中でなぜ人間は貴いのか、という太四郎の問いかけに、善四郎と為次郎は手勢(しゅせい・しかた)と呼ばれる方法で、自分の意見を伝えたのです。手勢は太四郎の編み出したコミュニケーションの1つです。現在の手話とは異なるものではありますが、指や掌の形を様々に変化させて、五十音や単語などを表現していく方法です。

善四郎と為次郎の考える「人と動物の違うこと」、それは学びによって知恵を得られることでした。そして自分は伝える能力の障害があったとしても、教育を受けて学んでいくことにより知力は発達していくのだから、何も恥じることはない、そう彼らは感じたのです。だからこそ、こうして学びの場がここに開かれることは何より大きな幸福だ、とその思いを発表したのでした。

この後、続いて太四郎が板書した「祝」の文字を見て、善四郎と為次郎はそれぞれ「イハウ」「イハイ」と発音しました。それは二人にとってこれまでの学びの軌跡に対する祝いでもあったことでしょう。

この日盲唖院に目の不自由なこども17名、耳の不自由なこども31人、計48名が入学しました。これだけたくさんの生徒に対する責任を預かることになった盲唖院ですが、通学上の安全性や利便性がしっかり考慮されました。当初、府は通学用の付添人雇用案を検討していましたが、急遽変更され、通学用の人力車が手配されると開業式で発表されました。大人2人乗りの人力車に生徒4人まで乗ることができ、約20台の人力車が京の町中を走り廻ることになりました。当時はまだ便利なスクールバスもありませんし、道に点字ブロックもありません。メロディ付の信号機もない時代です。こどもたちそれぞれの家から盲唖院に通うまでには、安全確保の面でいくつものハードルがあったはず。ですからこの人力車の手配は、どれほど親御さんの心に安堵をもたらしたことでしょう。盲唖院の人力車は四条大橋を渡る通行料も免除となりました。また各学区が月一円の分担金を寄付し、授業料と人力車代金が賄われました。生徒個人の家庭が教育に期待を寄せていたことはもちろん、当時の地域の理解と協力は非常に称賛されるべきものだと思います。

5. 京都盲唖院の開校
こうして仮盲唖院がスタートした後、翌年の明治12(1879)年9月22日、正式に府立学校として上京区の現在の京都第二赤十字病院の地に京都盲唖院が開校しました。宮内省から宮中女官の居住していた恭明宮が下賜され、学校として移築利用されることになりました。そして京都盲唖院の教育は加速され、明治13(1880)年には職業教育が開始され、寄宿舎も備えられ、明治18(1885)年には生徒数147名まで増えていったのです。

6. 工夫された支援教育
こうして仮盲唖院がスタートした後、翌年の明治12(1879)年9月22日、正式に府立学校として上京区の現在の京都第二赤十字病院の地に京都盲唖院が開校しました。宮内省から宮中女官の居住していた恭明宮が下賜され、学校として移築利用されることになりました。そして京都盲唖院の教育は加速され、明治13(1880)年には職業教育が開始され、寄宿舎も備えられ、明治18(1885)年には生徒数147名まで増えていったのです。

太四郎は目の不自由なこどものために開発したものとして「木刻凹凸(もっこくおうとつ)文字」があります。平成30(2018)年5月16日の日本経済新聞の記事「師弟・職人 熱意映す教材 京都盲唖院 資料」(※5)に掲載されている写真がとてもわかりやすいと思います。5cm四方の正方形の板、その表面と裏面に、それぞれ同じ文字が1つ彫り込まれています。一方は凸型でもう一方は凹型の同じ文字。正方形の板ですから、その向きを間違えると、正しい字を覚えることができません。そのため正方形の板の上端の真ん中には、逆三角形の小さな切り込みが入れられました。本当によく考えられたものですね。日本は摺経とか浮世絵の技術がありますが、美しく文字を板に刻み込んでいく技術が、こうして目の不自由なこどもたちのために活かされることになったわけです。平成27(2015)年3月27日、太四郎の170回目の誕生日にあわせて、検索サイト「Google」トップページの画像がなんと木刻凹凸文字や指文字になったそうです。Googleのページで木刻凹凸文字の特別なGoogleロゴを見ることができます」(※6)

また盲唖院ではこどもたちの動きを支援するための教育もありました。例えば「直行練習場」は目の不自由なこどもがまっすぐ歩くための練習場です。幅の異なる4種類のコースに鈴を付けた杭が打たれました。鈴の音によって、自分の歩き方がまっすぐであるかどうかを知ることができるわけですね。渦巻状のコース「方向感覚渦線場」も用意されました。こちらは風の向き、光の向きの変化によって方向感覚を養っていく方法がとられたものです。

更に盲唖院では職業教育も重視しました。太四郎は目や耳の不自由な人々の生活調査を行ったことにより、たとえ障害があっても何らかの技術を持つことによって、自立した生活を築く一歩に近づくと考えたからです。それは「こより細工」「按摩」「琵琶」「和木指物」「刺繍」他、様々な分野に及びました。いん唖教場の頃から学んでいた善四郎と為次郎は盲唖院で金工を学びましたが、彼らはその後京都の島津製作所に勤め、模範工となったそうです。また善四郎は将棋も三段の腕前に達していたそうです。教育が身を助け、そして生活の幅を広げていったのですね。

なお善四郎の姉いとの話は盲唖院での教育の中で、はっきりと名前が記された記事が見当たらなかったのですが、『京都府盲聾教育百年史』に登場する「明治十三年五月唖生職工生名簿」の中に「山口善三郎養男常七妻二十歳、無職」とあります。『聾唖界』第87号昭和14年の口絵写真に「日本最初の聾唖生徒」と写真付きで紹介されていますので、いとも盲唖院で職業訓練を受けることができたのでしょう。20歳の時には既に婿養子をとって結婚し、主婦として幸せに暮らしていたのだろうと思います。

明治29(1896)年頃の太四郎の講演草稿として、次の言葉が伝わっています。

其後、禁錮中、思惟ラク、盲唖モ亦人ナリ、天、性命ヲ下ス。動物イヅレニヨリテモ然リ。仮令、不具ナリト雖モ、天、人トシテ性命ヲ与フル限リハ、必人ノ行ヒナクンバアラズ。行ヒ均シク、業高ケレバ、人ニ軽蔑且凌辱セラルゝノ理ナシ。故ニ其人タルノ効用ナカラシメザルハ(注)、抑々教ヘザルノ罪ニシテ、社会ノ過ナリト思考シ、チリ紙ニ薬金錠モテ、其方法ヲ案ジ記スに濫觴。(注 アラシメザルハ、か、ナカラシメタルハ、か)


引用文献:
岡本稲丸(1997)『近代盲聾教育の成立と発展 : 古河太四郎の生涯から』日本放送出版協会, p.45

太四郎はこのように説きます。目が不自由であっても、耳が不自由であっても同じ人間なのである。障害の有無は関係ない。天から授かった命と役割があるのだ。障害のない者と同じように一生懸命物事に取り組んだならば、他人に軽蔑されたり、辱めをうけるような理由など何一つないのだ。そもそも障害のある人に教育を行ってこなかったこと自体が罪なのであり、社会の過ちと考えるべきなのだ、と。

「罪ニシテ、社会ノ過ナリ」そこまで言い切るのは、太四郎の実家は寺子屋で幼い頃から教育が身近な環境に育ってきたからかもしれません。

7. 太四郎 京都盲唖院を去る
京都盲唖院での教育は拡大していきましたが、不景気のあおりを受け、寄付金頼りの運営は逼迫するようになりました。そこで国からの援助を受け、太四郎自身も私的な借用まで行って学校存続に尽力しましたが、明治22(1899)年11月、運営責任を問われた太四郎は京都盲唖院を辞職することになったのです。地方制度の改正により翌月、盲唖院は府立から市立へ移管されることになりました。

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8. グラハム・ベルとの出会い
文字通り人生をかけて育ててきた盲唖院を去ることになり、太四郎は実に無念だったことでしょう。彼は転々と職を変え、苦労して生計を立てていきました。そして辞職から9年後、ついに転機が訪れたのです。それは聾教育の専門家でもあったグラハム・ベルとの出会いによってもたらされました。彼は電話の発明者として有名な人でもありますが、ヘレン・ケラーにアン・サリヴァンを家庭教師として紹介した人物としても知られています。グラハムの母、そして彼の妻も耳の不自由な女性でした。 
時は明治31(1898)年11月、来日したグラハムは東京で講演を行った後、京都へ向かいました。そして太四郎にぜひ会いたいと京都盲唖院までやって来たのです。グラハムは聾唖者であっても口話によりコミュニケーションをとることを推進していた人であり、一方、太四郎の教育は口話ではなく手勢を主としたものでした。根本的な教育方針に違いはあるものの、グラハムは太四郎の取り組みに大いなる敬意を払っていました。京都盲唖院を去って久しい太四郎。グラハムは太四郎を探し出してもらい、ようやく喜びの対面を果たすことができました。そして太四郎の取り組みを称賛し、アメリカであれば相当の待遇であるはずの太四郎が「久しく閑雲野鶴を友とす」と称すように冷遇されている境遇に大変驚きました。太四郎をアメリカに国賓として迎えたいとまで申し出るほどでした。教育の表舞台からすっかり遠ざかっていた太四郎でしたが、こうして再びグラハムによって光があてられることになったのでした。

9. 五代五兵衛との出会い
この一件を知って、胸躍らせた人物が大阪に居ました。五代五兵衛氏です。五兵衛は太四郎の生まれた3年後、嘉永元(1848)年、大坂 堀川で四代目播磨屋五兵衛の長男として産声をあげました。沼田藩蔵屋敷で米方三方(蔵米の出入りの検査役・仲仕頭・仲買の三役を兼ねる)を務める裕福な五代家でしたが、突如不幸に見舞われます。文久3(1863)年の暮れに五兵衛、そして二人の弟、一人の妹の目に次々と異変が生じたのです。目の疼痛、その原因は急性化膿性結膜炎でした。五兵衛を除く弟・妹は回復しましたが、五兵衛はそれが原因で翌年の夏に失明したのです。今でこそ有効な点眼薬が開発されていますが、その頃はまだ治療法が確立していなかったのでした。10代半ばで視力を失ってしまった五兵衛。やがて父六三郎が47歳で亡くなり、失明した五兵衛が22歳の若さで家を継ぐことになりました。当時蔵屋敷の家禄は明治維新の影響で廃止、あわせて営んでいた青物店も既に廃業されており、五兵衛は家財程度しか引き継げないという非常に厳しい状況を背負うことになったのです。目の不自由な家長 五兵衛の肩にのしかかったのは祖母、母、弟妹あわせて7人家族の生活と責任。最初は按摩の修行を始めた五兵衛でしたが、やがて家財を質に入れ、事業を創めることにしました。按摩で顧客先を回りながら、仕事の情報を得るうちに周旋業、ウサギの飼育、と順調に進み、ついに金融業にも手を広げましたが、資金繰りの悪化により事業が立ち行かなくなり、明治8(1875)年の夏、天満川に入水自殺を試みるまで追い詰められました。ちょうど太四郎がいん唖教場を作った年です。五兵衛はたまたま通りかかった男性に命を救われ「生命冥加といふことがある」と諭されて改心し、その後、湯屋業や土地家屋の売買を手掛けて多くの財を成すようになりました。40代で隠居して末の弟音吉に家督を譲ると、五兵衛は土地買収や投機に狂奔したこれまでの人生、本当にそれで良かったのかと考えるようになったのです。

10. 太四郎と大阪盲唖院
明治32(1899)年、五兵衛は音吉と連れ立って京都盲唖院を見学し、太四郎の講演を聞きました。非常に感銘を受けた五兵衛は寄付金を置いて帰ると共に、自分も盲唖学校を作ろうと意を決したのです。翌年9月13日、私立教育として大阪盲唖院を開校しました。ここで院長として招聘されたのが太四郎です。太四郎に教育を任せた五兵衛は金策に駆け回りました。その大阪盲唖院創立3年目に書記会計として就職したのが松下政楠です。パナソニック創業者である松下幸之助の父です。後に幸之助は五兵衛の弟、音吉が営む五代自転車商会に奉公を始め、五代家との関わりを深く持つようになりました。五兵衛の生き方を知った幸之助は、折に触れ、五兵衛に比べれば自分の苦労など足元にも及ばないと襟を正す気持ちになったそうです。

さて、大阪盲唖院で教育に邁進した太四郎はその後、明治39(1906)年に初めて開かれた聾唖教育関係者の全国大会に参加し、時の文部大臣にも盲・唖教育の義務化と、盲・唖分離を上申しました。しかしその実現を待たずして、明治40(1907)年12月26日、教育に捧げた生涯を閉じたのでした。
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明治時代、我が国で本格的に始まった耳・目の不自由なこどもへの教育。盲唖院へやってきたこどもたちは、たくさんの希望や将来の夢を学校教育の中で育てていったのだろうと思います。最初にご紹介した京都盲唖院の掛け軸は耳の不自由な生徒の作品を集めたもの。目が見えて、絵が得意な子なら絵が描けて当然だ、と思う人もいるかもしれません。しかしこれらの見事な作品を前にすると、とても伝わってくるものが多いのです。題材選び、構図、色、筆遣い…たくさんの様々な指導があったはずです。耳の不自由な生徒一人一人の才能を引き出すために、生徒と教員との間に交わされた数多くのやり取りが、この作品の背景にはあるのです。それは健常者の考える図画の指導の大変さを遥かに越えるものだったことでしょう。師との心の声のやり取り、生徒の絵に向かう真剣な眼差し、そして深まる学びによってより良い作品へと変わっていく生徒の喜びが伝わってきそうな作品でした。

 
<文中引用文献>:
※1 文部科学省発表 小学校の就学率(明治6-昭和24)[推移]
※2 上京第十七番組小学校は明治5年より上京十九区小学校、明治8年より待賢小学校と改名されています。
※3 ※岡本稲丸(1997)『近代盲聾教育の成立と発展 : 古河太四郎の生涯から』日本放送出版協会, pp.23-24
※4 渡邊祐介(2009)「私立大阪盲唖院が松下幸之助に与えた影響ー社会起業家・古河太四郎の教育観を中心に」『論叢松下幸之助』 (11) 4, PHP総合研究所経営理念研究本部, p.71
※5 日本経済新聞2018/5/16「師弟・職人 熱意映す教材 京都盲唖院 資料2018/5/16 」
※6 古川太四郎生誕170周年 Google特別ロゴ
 
<参考文献>
図書
盲聾教育開学百周年記念事業実行委員会編集部会編(1978)『京都府盲聾教育百年史』京都府教育委員会
岡本稲丸(1997)『近代盲聾教育の成立と発展 : 古河太四郎の生涯から』日本放送出版協会
小林昌代(2014)『京都の学校社会史』プランニングR・京都人権環境文庫
佐藤悌二郎(1997)『松下幸之助 成功への軌跡: その経営哲学の源流と形成過程を辿る』PHP研究所
京都の達人倶楽部(2015)『京都の「不思議」を楽しむ本』PHP研究所
 
論文
岡本稲丸(2002)「ショートレクチャー 京都市内盲唖院史跡の案内と古河太四郎先生の実像」『ろう教育科学』43(4), pp.219〜238
木下知威, 大原一興(2010)「京都盲唖院における空間構成と教育プログラムに関する研究」『日本建築学会計画系論文集』75(647), pp.25-34
竹村 佳子(2008)「企画展「『京都盲唖院』発!障害のある子どもたちの教育の源流」」『医学図書館』55(2), pp.169-172
西田美昭(1985)「盲聾教育形成期における就学保障の展開―京都盲唖院の「発展」と「挫折」」『社会科学研究』37(4), pp.205-249
渡邊祐介(2009)「私立大阪盲唖院が松下幸之助に与えた影響ー社会起業家・古河太四郎の教育観を中心に」『論叢松下幸之助』 (11) 4, PHP総合研究所経営理念研究本部, pp.66〜87
渡邊祐介(2008)「社会起業家・五代五兵衛と私立大阪盲唖院―松下幸之助のレファラント・パーソンとして」『論叢松下幸之助』PHP総合研究所経営理念研究本部 (10), pp.67-90
 
ウェブサイト
京都市情報館 日本最初盲唖院開学地
京都府立盲学校 沿革
京都府立盲学校 資料室
視覚障害ナビ・ラジオ テキスト版「盲教育の祖・古河太四郎生誕170年」
2017年7月23日開催手話言語研究センター講話会資料, 関西学院大学手話言語研究センター
 
身体にどこか不自由なところがあったとしても、それを上回るかのような別の才能の芽を人は秘めています。それを伸ばすチャンスをこどもたちは得るべきだと思うのです。
2018/7/29  長原恵子