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病気と一緒に生きていくこと
水滴の音と共に耐え、近づいた夢

幼い頃から病気だと、親御さんはお子さんを不憫に思うことが多いかもしれません。でも、人はたとえ逆境にあっても、強く成長していけるのだと信じられるお話を今日はご紹介したいと思います。将棋の世界で生きた棋士の村山聖(むらやま さとし)氏のお話です。

聖さんは昭和44(1969)年6月、広島県で生まれました。少し年の離れたお兄ちゃんの仲間に入って一緒に山登りに行ったり、池の鯉を捕まえるために1時間以上も池の中で鯉を探すような元気いっぱい、腕白なところもあれば、寝る前にお母さんが読み聞かせてくれた童話が悲しいと、泣き出してしまうような感受性豊かなところもありました。そして年下のこどもを皆が感心するほどいたわる優しいお子さんでもありました。

聖さんは3歳の夏、激しい高熱を出しました。風邪と診断され、いったん熱はさがったものの、それから何度も発熱を繰り返すようになりました。そして5歳の夏の高熱では、顔の様子が変わるほどのむくみを伴ったのです。聖さんはネフローゼと診断され、入院することになりました。
ネフローゼとは腎臓の病気です。腎臓は血液の中からタンパク質を逃さないようにキャッチしてくれる働きがありますが、それがうまくいかない時、お小水の中にタンパクがたくさん出てしまいます。腎臓で濾過された後の血液中からはタンパクが減ってしまうことになります。タンパクが適性なバランスであると、血中のタンパクは血管の外の水分を引き寄せ、血管の中にうまく水を引き留めておけますが、タンパクが少ないと血管の外の組織に余分な水分が溜まったままになり、むくみとして現われてきます。これがネフローゼ症候群と呼ばれる病気です。

聖さんは5か月の入院後、退院しましたが、6歳の夏、再び病状が悪化し、入院となりました。聖さんのためにお母様は、たくさんの本を買って病室に届けました。読書が大好きな聖さんは、ものすごい勢いでその本を読破していきました。またお父様は、聖さんが病室でも気分が晴れるようにとトランプ、花札、五目並べなどを教えてあげたそうです。その中でも将棋は、聖さんにとって人生を変えるような大きな出会いになりました。聖さんは「また一緒に将棋をやりたい!」と、お父様の来る日を心待ちにしていたそうです。聖さんはどんどん、将棋にのめりこんでいくようになったのです。自分と相手との駒の進め方によって、展開がどんどん変わっていく将棋の世界は、聖さんの心を入院中の閉塞的な環境から連れ出してくれたのかもしれません。

やがて聖さんは小学2年の秋には、専門誌「将棋世界」を読み始め、懸賞問題にも応募するようになりました。広島将棋センターで腕を上げた聖さんは、プロになりたいと夢を語るようになっていきました。

プロ棋士に進む道の最初の登竜門は「奨励会」に入会することです。そこで昭和57(1982)年、聖さんは奨励会試験に挑みました。好成績を上げましたが、諸事情により入会することはできませんでした。ダメだと知った翌日から聖さんは寝込み、ネフローゼは再発、入院となってしまい傷心の日々だったでしたが、聖さんの才能を見込んだ森信雄氏(当時四段)は、森氏の大阪の住まいから、将棋会館へ通うことを聖さんに提案したのです。

翌年4月、聖さんは大阪の病院に入院し、8月には退院。森氏の家から学校と将棋会館へ通う日々が始まったのです。森氏は3歳の時に麻疹にかかり、高熱が出て、生死の境をさまようほどの重篤な状態になり、その後、片目が閉じなくなってしまったのだそうです。閉じない目からは悲しくなくても、涙がぼろぼろとこぼれて困ったこともあったそうですが、小学5年になって覚えた将棋に夢中になり、中学卒業時には初段、高校卒業時には二段にまで進歩した方です。そうした生い立ちの方だったので、余計、病身の聖さんが、夢を叶えたいと頑張る姿を応援したいと思ったのでしょう。遠い中学までの通学が聖さんの負担になっては…と心配し、自転車に乗ったことのない聖さんのために、夕暮れ時の公園で自転車に乗る練習を手伝ったのも、そうした森氏の思いの現われだと思います。

昭和59(1984)年4月、広島へ戻ってきた聖さんは、実家から月に2度大阪へ通うようになりました。聖さんは昭和59年度関西奨励会の最多連勝賞と最高勝率賞を受賞されたそうですから、もっと、自分の力を伸ばしたい思いに駆られたことでしょう。昭和60(1985)年暮れ、ついに大阪で一人暮らしをしたいと決心し、師匠の森氏の家から徒歩5分のところに、アパートを借りたのです。それは電話もテレビもない部屋で、将棋と読書三昧の日々でした。聖さんは奨励会の前日の夜や例会が近づくと眠れなくなり、奨励会当日、必ず激しい下痢、腹痛、嘔吐に悩まされました。また奨励会で敗戦すると、必ずといっていいほど発熱、倦怠感が起こり、部屋でじっと安静にする日々となりました。聖さんは体力回復のために、布団のそばに排泄用のペットボトルを置き、将棋もせず、読書もせず、音楽も聞かず、安静を続けて横になっていたそうです。

そのような日々は1週間も続くことがあったそうです。思春期の青年にとって、それは想像を絶するほど大変だったことでしょう。切実さは次のように現われています。

水道の栓をゆるめて、洗面器に張った水に水滴がポタポタとしたたるようにしておく。
ポタッ、ポタツと閣の中に響くかすかな音、それがなければ自分が生きているかどうかさえわからなくなってしまうからだ。
その音だけを頼りに、村山は生き延びるために体を休めるのである。水がしたたり落ちるその残響が村山にとって生きていることの唯一の証のようなものであった。

浅くて長い眠りから覚めると、窓からカーテン越しに柔らかな光が差しこんでいる。すぐ前の浦江公園からは、野球をして遊ぶ子供たちの無邪気な歓声が聞こえてくる。

村山は息を潜め耳をすまし、あの音を探る。
ポタッ、ポタッ、ポタッ。
そうやって自分が生きていることを確認する。
そして、また眠る。
次に目を覚ましたときはおそらくは真夜中。街は静まりかえり、まるで漆黒の聞に臨かれているように何も見えない。体は鉛のように重く、頭に霞がかかったように何もかもが漠然としている。

しかし、しばらくするとあの音が特いてくる。ポタッ、ポタッ、ポタッ。そして、村山は自分が生きていることを確認してまたひたすら眠る。

生と死の中間にいるような不思議な感覚の中でただひたすら眠るのだ。


引用文献:
大崎善生(2000)『聖の青春』講談社, p.113

外の世界を遮断し、一人、部屋で身体を横たえている時、病状悪化の恐怖、孤独、そして将来への不安が心の中にどっと押し寄せていたことでしょう。それでも、自分の回復力を信じてじっと布団の中で待ち続けることができたのは、将棋の世界で強くなりたい、プロになりたいと明確な目標が掲げられていたからだと思います。高みに向かって人は歩む時、思わぬ強さを引き出すのかもしれません。
昭和61(1986)年11月、17歳の聖さんは、棋士番号180として、ついにプロ棋士の道へと進まれたのです。

 
本人が打ち込める「何か」を見つけると、励みや支えになっていきます。あなたのお子さんもいつかそれがみつかりますように。   
長原恵子
 
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