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病気と一緒に生きていくこと
自分の可能性を広げ続けた80年

お子さんが病気や、あるいは治療の結果、外見上、健康な人との違いが明らかになる時、親御さんはいろいろと思い悩むことは多いだろうと思います。病気が軽快したとしても、どこか心の片隅には、払拭しきれないものが残っている…でも、お子さんは親が思っている以上に強く、その心はのびやかで、大きな飛躍をするかもしれません。
今日は、そう思えるお話をご紹介したいと思います。
アメリカのテレビドラマ『刑事コロンボ』で「うちのカミさんがね…」と話す主人公のコロンボ警部と言えば、思い出す方もいらっしゃるかもしれません。俳優ピーター・フォーク氏(1927/9/16-2011/6/23)のお話です。

ピーターさんの病気は3歳の頃、発見されました。ピーターさんが物を見る時に、頭を何度も傾ける様子がどうも不自然で、気になった幼稚園の先生が、母親に知らせたのです。母親はピーターさんを連れて、病院に向かいました。そこでピーターさんの右目の網膜に、悪性腫瘍があると指摘されたのです。「網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)」という病気でした。母親はその事実を、とても信じ難かったのでしょう。ピーターさんを連れてその日のうちに、もう2軒、病院を巡りました。そして病名が確かにそうであると、知ったのです。ピーターさんは2日後、手術となり、右眼球は摘出され、代わりに義眼を入れることになりました。

こどもたちは自分との違いに敏感です。そしてその気持ちを、そのまま言葉にして表現することは多々あります。たとえその背景に悪気がなかったとしても、言われた方はそれを「いじめ」と感じるかもしれません。ストレートにぶつけられる言葉に傷つくこともあるでしょう。
ピーターさんの周りもそうでしたが、ピーターさんは決してそれに屈することはなかったのです。

学校に行くようになると、イヤな気分を味わうこともしばしばだった。

「ねえ、きみの目ってなんだかヘンじゃない? 
どうして片方の目しか動かないんだい?」

幼い子どもたちってのは容赦がないからね。10代になっても周りはあまり変わらなかったけど、こっちはそんな反応にもだんだん慣れてきて、高校時代にはまったく気にならなくなった。

そのころのわたしはみんなと一緒にスポーツをしたり、友だちと玉突きに出かけちゃジョークを飛ばしたりするのが大好きだった。生徒会長に選ばれたりもした。
そうしたなかで自分が笑いをとれることに気がついたんだ。


引用文献:
ピーター・フォーク著, 田中雅子訳(2010)『ピーターフォーク自伝 「刑事コロンボ」の素顔』東邦出版、p.36

笑いをとる、そう聞くと怪訝に思う方も多いでしょう。しかしピーターさんは自分の身体的特徴を、自虐的な笑いに変えて、自分を貶め、卑屈になっていたというわけではありません。
たとえば、高校生だった時、こんなエピソードがありました。母校オニシング高校で行われた野球の試合での出来事です。

ある日の試合で、3塁ベースにすべり込んだわたしに審判がアウトを宣告した。誤審もいいとこだった。タイミングは明らかにセーフだったし、間近で観てたスタンドの誰もがそう思ったはずだ。そこで、わたしはいきなり右目の義眼をはずすなり、審判に手渡してやったのさ。

「こいつが要るのはあんたのほうじゃないかい?」

みんな大爆笑、相手チームの選手まで笑いころげてた。


引用文献:前掲書, p.38

随分大胆な行動に出たピーターさんですが、それは他人とは違う「義眼」であることを、自分の人生の一部として受け入れていたことの証しとも言えるかもしれません。本には野球チームのメンバーの集合写真が掲載されていましたが、ピーターさんは決して後ろに隠れるように写ってはいませんでした。最前列にいるピーターさん。そこには、青春を謳歌している一人の活き活きした男子の姿がありました。

やがて迎えた高校卒業、当時は戦時中だったことから、多くの男子学生が軍へ入隊していました。しかしピーターさんは目が理由で徴兵の対象外となったため、ハミルトン大学へ進学したのです。男子校だった大学は徴兵制の影響で学生数が少なく、活気に乏しく、ピーターさんが思い描くような大学生活ではありませんでした。将来の目標もなかったピーターさんは大学を3か月で退学し、船乗りになったのです。

軍の船での配属先は調理場。その船は2,000人もの兵士が乗っている大きな規模です。ピーターさんはポークチョップの調理を任されましたが、4か月しないうちに食堂の給仕を任されるようになりました。

船での仕事を1年で十分、と考えたピーターさんは大学生活に戻りました。何かしたくてたまらなかったけれども、それが何かわからなかったピーターさん。そこで今度はイスラエルへ向かい、エジプトとの戦争に加わろうと考えたのです。
マンハッタンのホテルに出向いて、イスラエル軍の入軍申請手続きを行い、配属も決まりました。しかし戦争が終わり、行き先をなくしたピーターさんは、アメリカにとどまることにしたのです。

またしても無風状態に陥ったものの、それでも就職する気は起きなかったから、本を読んで過ごすことにした。親父は学費ならまだしも、単なる読書のために支援してくれることはなかっただろうから、船乗り時代の稼ぎで、グリニッジ・ヴィレッジに部屋を借りて、4か月間はひたすらヘミングウェイやドス・パソス、コンラッド、チェーホフなんかの小説を読みあさった。

そんなふうにして過ごすうちに、もう1度学校に通ってみようかって気分になった。その先の人生を早く決めなきゃならんと急いでいたわけじゃなかったけど、そうすれば世間のこともわかるだろうし、今度こそ自分自身がどこに向かおうとしてるのかわかるような気がしたんだ。


引用文献:前掲書, p.50

そこでピーターさんは政治学と文学を学ぼうと、自宅から近いニュー・スクール・オブ・ソーシャル・リサーチに行くことにしました。そこで演劇学を専攻し、学校併設の演劇ワークショップに参加したのです。

役をもらえるのは上級科の学生であり、基礎科のピーターさんは台本さえも見せてもらえなかったのですが、演出家に頼み込んだ結果、なんとサローヤンの『君が人生の時』という演劇で、主役のチャンスを与えられたのです。そのガッツに期待をかけられたのか、粘り強く頼むピーターさんに何か見出されたのでしょうか。そして初日の晩、ピーターさんに校長先生から、奨学金の話を持ちかけられました。きっと光る才能の片鱗をいくつも見出されたのでしょう。

しかし、ピーターさんはそれを断りました。これまでブロードウェイで本格的な芝居を見たのは、13歳の時のたった1度。そんな自分に演劇の才能があるわけではないと思っていたからです。生来の資質が備わったすごい人が、本物の役者だとピーターさんは思っていたのです。

その後「学び続けること」その言葉の響きを何となく気に入ったということで、ピーターさんはシラキュース大学の演劇学部に籍を移し、更に大学に新設されたワシントン官僚育成カリキュラムをとることにしました。特別プログラム終了後、コネチカット州ハートフォードの予算管理局で、効率考査官として働き始めたのです。そして同じくハートフォードのアマチュア劇団、マーク・トウェイン・マスカーズに参加することにしました。仕事を終えた夕方から劇場へ向かい、午後8時から舞台に立つ…そういう生活を1年半続けるうちに、ピーターさんの気持ちは、次第に変わっていきました。役者としての天賦の才はないと思っていた自分でも、いつしか、役者になれるかもしれないと。
また、ハートフォードから通うため、授業に遅刻することも続いた3度目のある日、演劇の先生から、あなたは役者になるべきと言われた言葉も、きっと自分の背中を押してくれることになったのでしょう。

ピーターさんがオフブロードウェイの世界に飛び込んで、2年経ったある日のこと、ピーターさんが出演したテレビドラマを見たコロムビア・ピクチャーズのスカウト担当の方が、やってきました。ピーターさんにぜひ
映画出演してほしいと、契約交渉を始めるためでした。ピーターさんはコロムビア・ピクチャーズの社長に会うことになりましたが、そこで冷や水を浴びせられるような経験をしたのです。それはピーターさんの右目に関わることでした。

「わしが気がかりなのは、きみに”欠乏しとるもの”のことだ」

わたしはなんのことやらわからず当惑した。ビタミン欠乏ならなにかで補えばいいだろうし、第一どうしてこの人がそんなことを見抜けるんだろう。わたしは尋ねた。

「おっしゃることがよくわからないんですが」

すると、コーン社長はきまり悪そうな顔になった。おそらくストレートに口にするのははばかられる事柄だったからだろう。

「きみはそのことを、ちゃんとわかっとるはずだが」
「いいえ、わかりません」

社長はもどかしそうに返した。

「きみのその目のことだよ」
「ああ、目ですか。こんなのちっとも問題じゃありませんから、ご心配には及びません」

わたしはそれまで自分の片方の目が義眼だなんてことを、これっぽっちも意識したことはなかった。
右左どっちが本物かと聞かれたなら、自分でも「はて、どっちだっけ?」と考え込むほどにね。そういったことを説明し、さらにこう付け加えた。

「そちらのスカウトさんにだって、問題だなんていわれませんでしたよ」

すると、コーン社長は切り返した。

「テレビと映画じゃ画面の大きさがくらべものにならん。きみはスクリーン・テストを受けるんだな」

テストを受けろだ? 冗談じゃない! 
カチンときたわたしは言い返した。

「お言葉ですけど、あなたのおっしゃることは、ちょっと筋違いじゃありませんか? 取るに足りないことにケチをつけて…」


引用文献:前掲書, pp. 76-77

ピーターさんはスクリーンテストを受けましたが、残念ながら不合格となってしまいました。
思わぬ言葉をかけられても、義眼であることを自ら「取るに足りない」そう潔く言い切ったピーターさん。それは普段から、義眼が自分のすべてを表すのではなく、あくまでも自分を構成する一部が、たまたま「義眼」だと考えていたからだろうと思います。
ピーターさんはこれで映画の道が閉ざされたわけではありません。数々の映画に何本も出ることになりました。

さて、ピーターさんは表現者として、演技とは別の才能もありました。絵を描くことです。自分の絵についてピーターさんは「どこか本筋からはずれて、決してまともな絵とは言えない」と思っていました。自分は目の前に物がないと描けないタイプで、想像で何かを描くことはできないと思っていました。そのため、もう学生時代以降、25年ほど絵を描いてはいませんでした。しかし、転機が訪れたのです。
1967年、ユーゴスラビアのセルビアで映画『大反撃』のロケに参加していた、ある夜のことでした。部屋に戻って愛用の旅行カバンを眺めていたところ、いつのまにか鉛筆を手に取り、描いていたのです。数日後、部屋を尋ねてきた共演者の一人がその絵を見て、とても褒めてくれました。

「これ、誰が描いたんだ?」
自分で描いたと答えると、彼はすごくいいじゃないかと褒めてくれた。わたしは礼を言ったけど、こうも付け加えた。

「カバンが目の前にあったから、描けただけだよ。」

彼はなかなか返事をしなかった。随分おかしなことを言うヤツだと思ったんだろうね。そして不思議そうな顔をして言った。

「写生って、昔からそういうもんじゃないのかい?」

そのとき、わたしは気がついた。芸術家には目の前に置かれた物を見ながら描く人もいれば、そうでない人もいる。心の目で見て想像で描く物も、そうでない物も無数にある。つまりルールなんてないんだってことをね。いまじゃ、わたしの絵もひとつの芸術だと思ってる。


引用文献:前掲書, p. 230

やがてピーターさんは、絵に没頭するようになっていきました。芝居が終わった後も絵を描き、それは真夜中に及ぶこともしばしばでした。『刑事コロンボ』の新シリーズの撮影が始まってからは、なかなか絵を描く時間もとれなくなりましたが、それでも絵に対する情熱は変わらず持ち続けていたのです。

絵を描く時、ピーターさんにとって、たとえ片目しかなくても、そんなことは何もハンディにはなっていません。本には「秋の散歩道」という水彩画が掲載されていました。一人歩く躍動感あふれる女性の姿、それは美しい線描と微妙な色合いの彩色が組み合わさり、実に見事な絵でした。

以前こちらで「人には目がある、但し目があるから見えるといふものでなし」という白眼禅師(中川一政画伯)の言葉をご紹介しました。見る、ということは実に奥深いものですね。両目であろうと、片目であろうと、その可能性を広げていくのは、自分次第なのかもしれません。

3歳で網膜芽胞腫と診断され、眼球を摘出されたピーター少年が、その後続いた80年の生涯の中で、活き活きとした時間を過ごすことができたのは、きっと、病気を受け容れながらも、自分の可能性を閉ざすことなく、いろいろなことにチャレンジしたからだろうと思います。1度きりの人生ですものね。自分が望むような人生になってほしいですものね。

私は20代の頃に勤めていた病院で、網膜芽細胞腫のお子さんのお世話を担当したことがありました。どのお子さんも、皆愛らしく、一人一人が心に残っています。あれから長い時間が経ったけれど、それぞれが、それぞれの人生を幸せに生きていてほしいなあ…と切に思います。

 
周りがハンディと思うことは、周りの価値観を押し付けているだけかもしれません。お子さんが自分で切り開く人生なのですから…。
長原恵子