病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
病気のお子さんと
ご家族のために…
 
ご案内
Lana-Peaceとは?
プロフィール連絡先
ヒーリング・カウンセリングワーク
エッセイ集
サイト更新情報
リンク
日々徒然(ブログへ)
 
エッセイ集

病気と一緒に
生きていくこと

家族の気持ちが
行き詰まった時

アート・歴史から考えるこどもの生

病気の子どもたちが楽しい気分になれるといいな!「けいこかふぇ」のページへ
 
人間の生きる力を
引き出す暮らし
自分で作ろう!
元気な生活
充電できる 癒しの
場所
病気と一緒に生きていくこと
苦境から見出す生きがいと喜び

どんなに苦難の状況であっても、それを支える何かに気付き、見つけ出し、それをはっきりと自覚することによって、人は変わっていけるのかもしれません。
音楽家ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)について、こちら「目標が支える情熱」で取り上げましたが、今日は晩年にいたるまでの彼の心の強さについて考えてみたいと思います。


4つの文献から引用するので、紛らわしくならないように、ここで文献をA, B, C, Dと割り振っておきます。

引用文献
小松雄一郎(1982)『新編 ベートーヴェンの手紙(上)』岩波書店
小松雄一郎(1982)『新編 ベートーヴェンの手紙(下)』岩波書店
青木やよひ(2009)『ベートーヴェンの生涯』平凡社
ロマン・ロラン著, 新庄嘉章訳(1995)『苦悩の英雄 ベートーヴェンの生涯』角川書店

ベートーヴェンの耳の不調は20代後半で始まり、悪化をたどって迎えた30代。彼にとって音が聞こえない苦しみは、生活上の不便さや、人付き合いがままならないことから生まれる孤立感だけではありませんでした。彼の脳裏には、自らの人生を閉ざす選択肢さえ浮かぶほど、気持ちは追い込まれていたのです。

しかし、僕の側に立っている誰かに遠くから響いてくる横笛の音が聞こえているのに、僕には何も聞こえなかった時、また、誰かが牧人の歌っているのを聞いているのに、それも僕に聞こえなかった時、それは何たる屈辱だったろう。

たびたびのこうしたことで、僕はほとんど絶望し、もう少しのことで自殺するところだった。


引用文献A, p.98 1802年10月6日
「ハイリゲンシュタットの遺書」

これはもうすぐ32歳になるという秋の日に、弟と甥に宛てて書かれた手紙「ハイリゲンシュタットの遺書」の中の一文です。絶望の淵に立たされてもなお、現実世界に踏みとどまることができたのは、ベートーヴェンの心の中に、ある思いがあったからでした。

――ただ彼女が――芸術が――僕をひきとめてくれた。
ああ、僕には自分に課せられていると感ぜられる創造を、全部やり遂げずにこの世を去ることはできないと考えた。

だからこそこの惨めな生命を――実に惨めな――何か急激な変化でもあれば、もっとも良い状態から、最悪に変わるこの感じやすい体で、持ちこたえてきたのだ。 

――忍耐せよ――と人は言う。僕も今やそれをわが導き手に選ばなければならない。僕は耐え忍ぶ力をもっている。

――願わくは、この決心を、無慈悲な運命の女神が生命の糸を断ち切ろうとするまで、持ちこたえさせたまえ。今よりは良くなることがあるやも知れず、またその反対かもしれぬ。
覚悟はできている。


引用文献A, p.98 
ハイリゲンシュタットの遺書 1802年10月6日

ベートーヴェンを支えたものは使命感だけではありません。生きる中で「徳」を大切にしていました。それは遺書の中に綴られた弟へのメッセージに、現われています。

僕の望むことは、おまえたちが僕よりももっと幸福な、煩いのない生涯を送ることだ。おまえたちの子供には徳を教えよ。徳のみが幸福を齎(もたら)すことができるのだ。
決して金ではない。自分の経験からこう言うのだ。

逆境の中にあって僕を励ましたもの、それは徳であった。僕が自殺によって生涯を終わらなかったことは、わが芸術とならんでこの徳のお陰だ。

――-ではさようなら、愛し合ってくれ
――-すべての友に感謝する


引用文献A, p.98 
ハイリゲンシュタットの遺書 1802年10月6日

それからもベートーヴェンの聴力は決して良くなることはなかったのですが、彼はずっと鬱々とした時間を過ごしていたわけではありません。「ハイリゲンシュタットの遺書」から13年後、ベートーヴェンがある伯爵夫人に送った手紙には、喜びについて記されていました。

無限の霊魂をもちながら有限の存在であるわれわれは、ひたすら悩みのために、そしてまた歓喜のために生まれてきているのです。また、優れた人々は苦悩を突き抜けて歓喜をかち得るのだ、と言っても間違いないでしょう。


引用文献B, p.85
アンナ・マリー ・エルデッディ伯爵夫人(クロアティアのパウコヴィツ城) 宛ての手紙 1815年10月19日

「有限の存在」でありながらも、「無限の霊魂」を持つ……。そうした彼の考えは、難聴の他にもいくつもあった身体の不調に負けない礎になったのだろうと思います。
しかし1826年の暮れから、ベートーヴェンの身体には、肝硬変の症状が出始めていました。黄疸と両下肢のむくみが現われ、それは大変壮絶なものだったようです。

痛みを緩和するための麻酔薬の投与は、回復後に仕事に支障があってはならないと、断わっていた。 
腹部にたまった大量の水を抜く手術が行われたが、切開された場所に挿入された管から液体がほとばしり出ると、彼はユーモアを込めてこう言った

――「モーゼが杖で岩を打ったときのことを思い出しますね」。

それに対してアンドレアス・ヴァヴルフ博士が『会話帳』で答えている

――「あなたは騎士のように我慢されました」。

引用文献C, p.253

肝硬変に対して行われた治療は、一時の緩和に過ぎず、ベートーヴェンの生活は、経済的にも苦しくなっていきました。周囲からは、資産の銀行株券を売却するアドバイスもありましたが、甥のために資産を遺したかったベートーヴェンはそれを断り、ロンドン・フィルハーモニック協会に、自分を支援するための音楽会を開催するよう、依頼を出しました。
ますます悪化する体調と困窮する生活……そうした状況の中でも光の側面を見つけ出そうとする能力は、彼が亡くなる間際まで、尽きることはなかったようです。

次の言葉はベートーヴェンが死の1カ月ほど前に、友人に送った手紙に綴られたものです。

ぼくの病気の回復は――それを回復と呼ぶことができればだが――まだまだゆっくりだ。
四度目の手術を受けることを覚悟しなければならないらしい。

医者たちはそれについては何も言わないが、
ぼくはじっと我慢し、こう考える。

すべての不幸は何かしらいいものをもたらすものだ、と。


引用文献D, pp.118-119
フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー宛の手紙 1827年2月17日

そして死の12日前、ベートーヴェンは神との関係性を考えるような言葉を遺しています。自分の苦境が神の意志によるものだとしても、その苦境に耐え得る力をきっと自分に与えてくれる、と考えていたのです。

……2月27日に、私は四度目の手術を受けました。そして今また新しく、まもなく五度目の手術を覚悟しなければならぬ確実な徴候が現われています。こんなことがなおもしばらく続いたら、いったいどんな結果になるのでしょう?私はいったいどうなるのでしょう?

実際、私の宿命は苛酷な宿命です。でも私は、運命の意志に自分を任せています。そして、神さまに、ただ、私が生きながら死の苦しみを堪え忍ばねばならぬ間、その聖なる意思によって、私を窮乏から守ってくださるようにお祈りするだけです。

このことは、私の宿命がいかに苛酷で恐ろしいものであっても、至高の神の意志に忍従することによって、私が自分の宿命に堪えうる力を与えてくれるでしょう。


引用文献D, pp.119-120
モーシェレス宛の手紙 1827年3月14日 

1927年3月26日、56歳の生涯を閉じたベートーヴェン。音楽をこよなく愛し、音楽を生み出すことを使命のように感じていた彼にとって、難聴がもたらした日々は、自分が前向きに生きていく理由さえも、危うく脅かされる恐怖の連続だったのだろうと思います。約30年もの間、そうした状況に晒されながらも、彼は生きる強さを持っていました。それは彼にもたらされた、というよりも、彼が自分で獲得していったものですね。きっと。

ベートーヴェンが神に選ばれし者だったから成し得た、という見方もあるかもしれません。ただ、たとえそうであったとしても、生き方は自分で選んでいくもの。
日々、不平不満で一生を終えていくのも一つの生き方。
しかし「かわいそう」「気の毒」そういった形容を通り越すほどの強さを身に付けていくのも、一つの生き方。

人それぞれだけど、自分が人生を終える時に、釈然としない思いばかりが走馬灯のようによぎるのは、なんだかとても寂しいですものね。

 
回復しない病状にどれだけ落胆しても、時は皆等しく流れていくもの。どう過ごすかが、人生の色合いを大きく変えるのだと思います。
長原恵子
 
関連のあるページ(ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン)
「目標が支える情熱」 
「苦境から見出した生きがいと喜び」 ※本ページ