病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
病気のお子さんと
ご家族のために…
 
ご案内
Lana-Peaceとは?
プロフィール連絡先
ヒーリング・カウンセリングワーク
エッセイ集
サイト更新情報
リンク
日々徒然(ブログへ)
 
エッセイ集

病気と一緒に
生きていくこと

家族の気持ちが
行き詰まった時

アート・歴史から考えるこどもの生

病気の子どもたちが楽しい気分になれるといいな!「けいこかふぇ」のページへ
 
人間の生きる力を
引き出す暮らし
自分で作ろう!
元気な生活
充電できる 癒しの
場所
病気と一緒に生きていくこと
自分を導く言葉との出会い「あきらめない」

2018年5月、函館で開催される小田和正さんのコンサートへ行くため、羽田発函館行の機内から、晴れ渡った青い空に時折浮かぶ白い雲を眺めていました。そもそも私が小田さんのことを知ったのは、いつのことだったのだろうか……と記憶をたどっていたら、小学校6年生の冬休みだったと思い出しました。フォークデュオの「あのねのね」が司会をしていた新春お正月番組で、江戸の町を場面とした寸劇があったのですが、そこに西城秀樹さんが登場していたのです。秀樹さんは江戸町民の格好で現れて、初めて耳にする歌を歌っていました。キーボードの和音が連なるイントロはとても格好良く、秀樹さんのハスキーボイスの歌声が甘く切ない大人の雰囲気で、強烈な印象を持ちました。その歌が「眠れぬ夜」というタイトルだと知り、当時のアイドル雑誌の付録の歌本の中に「眠れぬ夜」を見つけました。そして作詞・作曲が小田和正さんだと知り、そこから小田さんの歌(当時オフコース)を聴くようになっていったのでした。あれから38年ほど経ってしまいましたが、小田さんを知るきっかけは秀樹さんがくれたものだったなあと、東北上空の雲の合間から見えた美しい山並みを見ながら、しみじみ考えていました。その2日後です。ネットニュースで秀樹さんの訃報を知ったのは。とても驚きました…。

脳梗塞を患った秀樹さんが闘病記を出されていたことは知っており、何年か前に読んでいましたが、改めてその本を読み返してみました。そこには病気と共に生きていくことの葛藤、気持ちの変遷など、実に学ぶべきものが多くありました。秀樹さんの発症は四十代、そして再梗塞は五十代になってからですが、夢半ばで突然重い病気になった幼いこどもたちにも、ぜひ知ってほしいと思うことが多々ありました。そこで数回に分けて、ご紹介したいと思います。

---*---*---*---

今のこども世代はリアルタイムで西城秀樹さんの活躍を知らないと思うので、初めにここで秀樹さんの紹介です。1970年代、秀樹さんは歌手の野口五郎さん、郷ひろみさんと「新御三家」と呼ばれ、アイドル歌手として活躍、やがて「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が大ヒットして世代を超えた国民的スターになっていかれました。当時は今よりも歌番組がとても多かったこともあり、テレビで秀樹さんを見ることがよくありました。また「ヒデキ、感激!!」はハウス食品のバーモントカレーのCMのキャッチコピーですが、私が小学生の頃の我が家の食卓では、カレーと言えばずっとバーモントカレーの甘口。あのCMはなんと12年も出続けられていたそうです。

さて、秀樹さんは2003年6月21日、韓国の済州島で行われるディナーショーに出演されるため、現地を訪れました。済州島に到着後、少々けだるさを感じていた秀樹さんは汗をかけばすっきりするだろうと、ホテルにチェックインした後、サウナに向かいました。これまでにもそうした時にはサウナに入ると調子が戻った経験があったからです。サウナの室温が随分暑いと感じた秀樹さんでしたが、少々無理をして30分ほど入り、身体を洗ってもう一度30分サウナに入りました。喉は乾いていたものの、サウナに用意されていたアルミのコップは共用だったので、秀樹さんはそのコップで水を飲むのをためらい、飲む気にはなれなかったのでした。
部屋に戻って着替えをしても、どこか気分がもどかしく、眠気も強かった秀樹さんはその夜早く休みました。

翌朝、洗面台の鏡に映った自分の顔に、秀樹さんは違和感を覚えました。左の頬が少し垂れ下がり、歪んでいるように見えたからです。付き人にマネージャーを呼ぶよう頼みましたが、その時も言葉がひっかかるような言い方になっていました。20年間秀樹さんのそばでずっと支えていたマネージャーは異変に気付き、すぐに日本の知人の医師へ電話をしたのです。医師は電話越しに伝えられる症状から、秀樹さんに脳梗塞の疑いがあると指摘し、秀樹さんは直ちに現地の大学病院を受診したのでした。

そこでは一時間以上待ち、ようやく診察を受けることができました。CTをとったところ異常なし。診察にあたった医師は脳外科の専門ではなかったことから、秀樹さん側は脳外科医に診てもらいたいと頼みました。しかし何時間かかるかわからないと言われ、困った秀樹さんはその医師に、日本の医師と国際電話で直接話をしてほしいと頼んだのでした。異国の地で自分に脳梗塞が起きたかもしれないと不安におびえ、病院に来たにもかかわらず、検査であっさり異常なしと言われたのですから、本当に大丈夫なのかと不安になるのは当然です。日本の医師と電話で話した現地医師は、ようやく脳梗塞の疑いがあるとわかったのでしょう、秀樹さんにすぐ入院するよう言いました。しかし秀樹さんはそれに従うことはできませんでした。なぜか? それは入院するということは、ディナーショーが当日、急遽中止になることを意味するからです。秀樹さんの頭の中に、今回のディナーショーに参加する250名の日本人客のことがよぎりました。20名を越すスタッフを動員し、多くの時間と費用をかけて準備されてきたディナーショーです。秀樹さんは「死んでもやり通さなければならない」と覚悟したそうです。それはスター歌手としての強い責任感の現われでしょう。このまま病院を出ることは一切自己責任、と明記された書類に秀樹さんはサインし、病院を後にしました。

結局、現地の病院では何の治療も受けられなかったことから、日本の医師に電話で相談したところ、ある薬の内服を勧められました。その薬が持ついくつの作用の中で、脳の血流改善を手助けする作用があると期待されたからです。たまたまその薬を常備薬として持っていたディナーショースタッフがいたことから、秀樹さんは貰い受け、それを飲んでショーに臨みました。そして秀樹さんの身体的負担をとにかく軽減させるために、熱唱系の歌を外すよう曲目の変更が行われました。秀樹さんの代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を除いた他のすべての曲が入れ替えられ、スイング系、バラード系を歌い、MCもこなして一時間のショーを終えたのです。

その夜、秀樹さんは翌朝目覚めなかったどうしよう……と恐れと不安の中で床につき、翌日は予定より早い便で帰国し、都内の病院を受診しました。そこで受けた脳のMRIには7mmの白く丸いものが映っていました。それは構音を司るエリアに起きた梗塞を示したものだったのです。

医師からは秀樹さんの血管が元々細かったと指摘されました。また人前に立つ仕事柄、水分を極端に減らして減量に努めた生活などが病気の引き金になったことも指摘されたのでした。確かにディナーショーの一カ月後には新曲発売を控えており、ちょうどプロモーション活動の真っ只中の時期でもありました。そのため秀樹さんは激しい運動とサウナを組み合わせて、プロボクサー級の減量を行って、四十代の秀樹さんが二十代の頃のような身体にまで絞っていたのです。秀樹さんは「ラクナ梗塞」と診断され、それから入院と治療の日々が始まったのでした。

「日本一汗が似合う男」と言われるほどエネルギッシュな歌唱で活躍していた秀樹さんにとって、脳梗塞治療のための入院と治療生活はどれほど落差が大きかったことでしょう。その二年前に結婚し、奥様と長女との幸せなプライベートな時間は、更に二カ月半後に生まれてくる新しい命によって、一層賑やかな時間を迎えるのです。仕事、家庭両面でこんなにも充実した時間を過ごしていた時に起こった突然の病気。秀樹さんが自身の病気を受け容れ難く、困惑するのは自然な気持ちの流れですね。

ぼくにとって栄光の第二章がこれから始まると思えたそのときに、これほどの大病が待っていた。

「この試練はなんなんだ」

とてつもなく大きくてどす黒い力が、自分に振りかかってきたと思った。これまでの人生はすべて御破算にして、挑んでいくしか道はない、そう思った。正直言って、並大抵の覚悟ではなかった。


引用文献:
西城秀樹(2004)『あきらめない ー脳梗塞からの挑戦ー』二見書房, pp.120-121

脳梗塞の回復は本当に気が遠くなるような道程です。たとえ0からスタート、そう覚悟して治療やリハビリに取り組んでも、自分の努力と意気込みがすぐに回復へと直結するわけではありません。麻痺した機能を改善させるためには、地道なリハビリの積み重ねと時間が必要になります。怒りや焦り、苛立ち、こんなに頑張っているのにどうして? それらの気持ちが秀樹さんの胸の内を駆け巡っていました。

そのような時、奥様は実に気丈に振る舞っていました。いや、本当は秀樹さん以上に心細かったかもしれません。年子の出産、まさにそういう時期に夫が大きな病気になったのですから……。それでも彼女は人前で一切泣くことはなく、明るい話を心掛けて、秀樹さんを看病しました。病院食は味気ないだろうと思った彼女は、野菜たっぷりで脂質控えめ、でもおいしい食事を工夫して作り、病室に通ってくれました。そのような妻の姿を見て秀樹さんは申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。やがて、ある気付きを得たのです。

「死ぬかもしれなかった自分が生かされた」
そう思うと、無駄なことは一瞬たりともしたくなくなった。ダラダラと流されて生きてお金のためだけに生きてもいけない。折々をきっちりホッチキスで止めながら、一歩一歩、足跡をとどめて生きていかなければならない、そういうふうに考えるようにもなった。

もし、病気をしなかったら、もっと薄っぺらな人生になったかもしれない。病気をして代償も大きかったが、それ以上に大きいあれこれが、ぼくの体験として残った。

「今回のイエローカードというのは、感謝すべきことかもね」

妻にそう言ったことがある。七十歳まで何もなくて、バタッと倒れたとしたら、そう思うとゾッとする。
五十歳ちょっと前に病いになったことが、ぼくにとっては大きかった。まだ体力もあり気力もあるこの年に、試練と立ち向かえたことがありがたかった。この年できちんとリセッ卜して、次の人生を迎えられることを感謝しなければならない。

引用文献:前掲書, p. 149

そうした心のリセットを経て、秀樹さんは気持ちを奮い立たせ、懸命にリハビリに取り組みました。自分のため、家族のため、自分を応援してくれるファンのため……。前向きな気持ちになれる日もあれば、人間ですから、そうではない時だってあります。こんなに頑張っているのに、うまくいかない……とひどく落ち込み、心の中では右往左往していたそうです。

病気になって落ち込んだり、頑張らなければと盛り返したり、日々恥ずかしながらも、ぼくの気持ちは揺れている。晴れの日もあれば雨の日もある。ときには厳しい嵐の日もあった。入院中は自信が持てないでいたが、退院してしばらくたってからは、
「とりあえず、何があっても前に向かって進もう」
心のなかでそう決めていた。その気持ちが揺らいだこともあったが、何とかがんばれた。
それがここまできた誇りでもあった。

引用文献:前掲書, p.119

病気という試練と格闘しながら、自然に口から出てきたのが、
「あきらめない」 だった。大病という重くて苦しい体験のなかで、逆境に立ち向かっていたぼくには、この言葉が、落ち込んでいく自分の気持ちの、歯止めになってくれていた。
梗塞と闘いながら、やられたりやり返したりしながら、
「なんて、力強い言葉なんだろう」
繰り返し、そう感じた。簡単な言葉なのに、こんなに重くて、深い響きをもっている。ぼくはこの言葉に出会えたことで、立ち向かう魂を宿らせることができたと、思っている。

人はもがき苦しみながら、自分を励ます言葉を探さずにはいられない。

引用文献:前掲書, p. 121

秀樹さんにとって「あきらめない」は時に自分自身への励ましでもあり、戒めでもあり、喝を入れる言葉にもなり、希望をつなぐ役割もあったのですね。

いつのころからだろうか、
「あきらめない」
ぼくはこの言葉を心のなかで何回も何回も反復していた。リハビリが進まないときも、
落ち込んだときも、もどかしい気分のときも、
「あきらめない」
心にそうつぶやいてみると、
「いまはダメだけど、必ず、好転できる!」
そう思えるから不思議だった。人は病気になったから不幸なのではなくて、あきらめたから不幸になるのだと、自分に言い聞かせてもいた。

「あきらめない」
この言葉ほど、ぼくを励ましてくれ、つき動かしてくれた言葉はなかった。この本のタイトルにしたいと思ったのは、そういう理由からだった。
ぼくの場合は、「あきらめない」だったが、人によって、自分を励ます言葉はいろいろだろう。しかし、自分の心に響く言葉を見つけられた人は幸せだと思う。

引用文献:前掲書, pp. 246-247

「病気になったから不幸なのではなくて、あきらめたから不幸になる」その言葉はとても重いと思います。幸せであるか、不幸であるか、それは事実によって決まることではなくて、事実に対する自分の認識が決めることなのですから……。そして、病気という事実に対して自分が後ろ向きになって、良くなろうとする努力さえも放棄してしまう、それはすなわち良くなる可能性を自らの手で放棄してしまうことでもあります。そういう状態を秀樹さんは不幸だと感じたのだと思います。

またそれは秀樹さんのこれまでの生き方から出て来た言葉でもあるでしょう。秀樹さんが取り組んだ数々のコンサート、野外ライブは当時「初めて」のことが多く、そのたび大きな話題を呼びました。誰もやっていないからやめておこう、ではなく、やってみよう、という生き方。だからこそ秀樹さんは「あきらめたから不幸になる」と言えたのだと思います。

あきらめないで努力する生活、それはやがて、病気後の自分自身を支えてくれる矜持にもつながっていきました。

どんなにがんばっても大して好転しなかったこともある。いや、そのほうが多かったかもしれない。しかし、あきらめなかった。あきらめないでなんとかやってこれた。
逃げないで試練に向き合ってこれた。一つの苦しみに耐え、乗り越えられた、そのことは間違いなく、ぼくの人生の思い出の一ページになった。

引用文献:前掲書, pp. 119-120

やがて秀樹さんが自分自身に向ける視線も変わっていきました。

三歩すすんで二歩さがる、というこの病気独特のテンポはいまも同じなのだ。でも、三歩すすんで二歩さがろうが、確実に一歩すすんでいるのではないか、そういうふうに考えるようになった。

引用文献:前掲書, p. 268

症状の回復に一喜一憂してしまうことは、誰しも同じ。ただ、日々の出来事、回復状態に翻弄されるのは、実は想像以上に感情のエネルギーを消耗するものです。
小さな変化を見逃さず、そこに心動かす自分もいれば、物事を俯瞰して大局を見る自分もいる。それは、とても大切なことだと思います。なぜなら、そのどちらもが存在することにより「確実に一歩」進んでいることに気付くことができるからです。

苦悩から逃れることはできないが、苦悩をバネにすることはできる。そういう強さを持ちたいと思う。
病気だけではなくて、この世には人間関係や仕事の悩みなと、誰もが何らかの苦しみを抱えて生きている。大切なことはその苦悩から逃げないこと、逃げ出さないことだ。苦しいが、そこに留まって、踏ん張っていれば必ず、光明が射し込んでくる。ぼくがそうだった。人は苦悩を味わうことで、幸せの感度を磨くことができる。どんな形であれ、目の前の苦悩と対峠している人たちに、ぼくは贈りたい言葉がある。

「あきらめない」

ぼくの気持ちを受け取ってほしい。

2004年9月10日  西城秀樹


引用文献:前掲書, p. 269

 

参考文献:
西城秀樹(2004)『あきらめない ー脳梗塞からの挑戦ー』二見書房
西城秀樹(2012)『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』廣済堂出版
 
困難に直面して途方に暮れた時、それまでの自分の生き方、信念が形を変えて自分を助けてくれることがあります。新しい視点、境地が自分を救ってくれることもあります。どういう時でも道は見つかるのだと思います。
2018/8/29  長原恵子
 
関連のあるページ(西城秀樹さん)
「自分を導く言葉との出会い「あきらめない」」※本ページ
「気持ち、心持ちの秘めた力」
「弱さと対峙し、動き出した進行形の人生」
「ありのままの自分を生きること」
「塞ぎこんだ心の底にあるもの」