ただ言えるのは、粗野な信条の汚れやしみからまぬがれた“神の聖言”が、とりもなおさず私の生活に歓びを与え、うまく作用してきたということです。
つまり、サリヴアン先生のお仕事に対する深い感謝の念と、奉仕に対する自分の責任感とがうまく結びつき、奮闘や孤独の日々と、歓喜にきわまった日々とがうまく結びつき、眼前に立ちはだかった厳しい真実と、気やすめやお世辞といったおいしい餌よりもっとその気にさせる高尚な夢とがうまく結びついたということです。
光、色、音楽がおのずと眼や耳から入ってくるのと同じように、こうした真理はおのずと私の心的機能に浸透してくるのです。
そして、充実した感覚的生活に対する私のせつない憧れを高みにまで引きあげ、私の内なる完全な存在を生き生きと自覚させてくれます。
毎日毎日が、両手に余るほどの可能性を引きつれて私のもとを訪れます。そしてその毎日の短い時間経過のうちにも、自分が生きているということの真実性や実感、成長の喜び、活動の輝き、そしてまた美の本質といったものを認めることができたのでした。
引用文献:
へレン・ケラー著, 鳥田恵訳(1992)『へレン・ケラ一 光の中へ』めるくまーる, p.54-55
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