病気と一緒に 生きていくこと
家族の気持ちが 行き詰まった時
アート・歴史から考えるこどもの生
生まれた時から何かの病気であった場合、病気のために生活に不自由さがあっても、お子さんはそれが当たり前のこととして過ごしています。しかしながら、だんだん大きくなっていくと、他のお子さんとの違いに気付くようになっていきます。 「どうして、○○ちゃんと違うの?」そう理由を問われた時、ご両親は説明しながらも、心の中で言葉に詰まる場面があるかもしれません。 そうした時に思い出してほしい詩があります。 金子みすゞ女史の「私と小鳥と鈴と」です。
私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても、 お空はちつとも飛べないが、 飛べる小鳥は私のやうに、 地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、 きれいな音はでないけど、 あの鳴る鈴は私のやうに、 たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがつて、みんないい。 引用文献: 金子みすゞ(1984)『金子みすゞ全集 V さみしい王女』, JULA出版局, p.145
お子さんは病気が良くなることを目指して、治療を受けているはず。でもその病気が根治を見込めない病気であれば、ずっとその病気と一緒に生きていくことを学ばなければいけません。そして、それはお子さんにとって特別な試練なのではなく、これからも続いていく日常になのです。 病気であることを否定し続けていれば、それはお子さんの人生の一部を否定することになってしまいます。 「病気であっても、病気でなくても、みんな違って、みんないい。」 そんな風に思えるようになると、心のつかえがとれるようになります。 お子さんは大人が思うよりは、そうした言葉を素直に受け止められるような気がいたします。 私が小児外科病棟に勤めていた時、大部屋にはいろいろな診療科のお子さんが入院していました。手術を受けた後、しばらく子どもたちは大きな外見の変化を伴います。もしかしたら、保育園や幼稚園などでは、それが理由でからかわれることもあるかもしれません。でも入院していた子どもたちは、誰も周囲の子どもたちを揶揄するような言葉は言いませんでした。誰かを貶めることによって、自分の優位性を保とうとする、そんな発想は心の中にみじんも生まれなかったのだと思います。 自分と同じお部屋の他の子どもたちが、皆それぞれいろいろな違いを持って、同じ時間を過ごしている…。そうした経験を通して「みんな違って、みんないい」そのような気持ちが湧き出るのだと思います。 そうした違いを受け入れる目は他人へ向けられるだけでなく、自分にも向かうような気がいたします。他人と違う自分を否定するのではなく、自分自身を受け入れられるような方向に、心が進むと思うのです。