さてバキリタ先生が再び歩けるようになるためには、まず「這い這い」が必要だと考えたジョージさんは、床に小石やコインを転がし、父が這い這いをしてそこまでたどり着き、不自由な右手で拾う練習をしたそうです。それは家の庭の芝生の上でも行なわれました。その光景を目にした周囲の方からは、否定的な見方をされることもあったようです。
這い這いするまでには発症後12週間から16週間かかったそうですが、息子のジョージさんは父が膝を痛めないよう、膝当てを用意したそうです。
そして力の入りにくい右の肩と腕を壁に寄り掛からせて、何カ月も壁伝いに這う練習をしたのだそうです。バキリタ先生の家のあたりは高い塀で囲まれている家が多いそうで、散歩できるようになってからも、塀伝いに歩き、麻痺のない左手でバランスを保っていたのだそうです。
手や指の力を取り戻すためには、比較的力の入る左手で壺を抑えて、力の弱い右手で壺を回しながら洗う、という方法もとったそうです。バキリタ先生の奥様は、バキリタ先生が脳卒中に倒れられる前に、既に他界されていたのですが、奥様亡き後はバキリタ先生は家事を引き受け、自ら買い物に行き、息子のために料理を作り、共に食卓を囲んで楽しむ生活をしていたそうです。ですからジョージさんは、父が脳卒中の前にかつてやっていたことで、危険ではないことをリハビリとして取り入れてみようと考えられたのです。また、たとえ壺の洗い残しがあったとしても、その仕上げは自分やメイドさんがやれば済む話だと、ジョージさんは考えました。ということは単に練習としてやっていたのではなく、実用的な家事の一部だったということですね。生産的な何かに自分が関われることは、きっと大きな自信につながっていったと思います。
バキリタ先生は倒れて3か月後、話す力が戻ってきました。そしてその数カ月後には腕全体を使ってタイプライターで文字入力できるようになり、段々進んで、以前のようにタイプライターが打てるようになりました。バキリタ先生は脳卒中になってからも、とても前向きに時間を過ごすことができたのです。
バキリタ先生は、自分の心の内側から沸き起こる意欲に溢れていました。それを息子のジョージさんは、ただひたすら支持する。例えば、父がやろうとしていることが、何につながっていくのかわかるように、言葉にしたのだそうです。確かに単調な地味なリハビリの繰り返しだったとしても、それが具体的に、自分の望む明るい未来の何かにつながっていると気付けば、リハビリはそこに至る道の途中にすぎないと知ることができます。毎日劇的な変化が起こるわけではありませんから、長く続くリハビリ中、自らの力で自分の心の中に新しい風を吹き起こすことは難しくなってきます。ですから周囲の人から吹き込まれる風は、淀みそうな心を鼓舞してくれることになるのだと思うのです。そこからきっとまた、希望が湧き、力が生まれてくるのです。
「父のためには、できることを何でもしたかった」と話すジョージさんは、自宅で共に暮らす道を選びました。しかしそれは何もかも手助けすると言う意味ではありません。父の介護に始終追われる暮らしではなく、当時、忙しい学生生活を送っていたジョージさんは、ジョージさんなりの関わり方を築き、自分の人生の時間と息子としての時間を区別していたこと、その決断は吉に出たと思います。必死に介護に明け暮れて、自分のための時間が消失し、介護をする立場の方が追い詰められ、共倒れになってしまうことも十分ありますから。
ジョージさんにとっての関わりは、どうやったら父に残された機能を最大限に活かせ、引き出せるか、という点がポイントだったようです。例えばバキリタ先生の苦手だったことは、ボタンやベルトの着脱でした。それはトイレに行って用を足すときに、大変困ったそうです。そこでサスペンダーや留め具を使ったそうです。
着替えが楽なウエストゴムのスウェットパンツを着るのではなく、あえてそうした服装をとっていたことは、驚きですね。
また、テレビの前で一日過ごすという方も多いでしょうが、当時バキリタ先生のお宅では当時テレビはなかったので「テレビの前で、椅子に座って過ごすなんてできない。何かしなくちゃ」ということで、動き回ったのだそうです。
バキリタ先生は大きい筋肉が最初に使われる動作、例えば立ちあがったり、足をスイングさせて歩くことは苦手だったそうですが、地道な積み重ねで変わって行ったそうです。そしてハイキングできるようになっていったのですから…。 |