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常識を飛び越える勇気と努力がもたらした成長

耳の不自由な少年がスキージャンプに取り組み、やがて長野オリンピック(1998年)でテストジャンパーとして参加するまでに成長したという話を知りました。それは「風の音は聞こえない 少年竜二…空を飛べ」(札幌テレビ放送)というドキュメンタリーとしてテレビ放映されたそうです。長野オリンピック開催時に私はその話を知らなかったので、どうしても見たいと探しましたが、今から20年前のテレビ番組、どうしよう…と思っていたところ「放送ライブラリー」(横浜市中区)で視聴できることが判明。先日ようやく行くことができました。番組は幼少期の頃に取材・制作された別のドキュメンタリー番組「緑色の詩」(札幌テレビ放送)も交えられ、槇大輔氏の落ち着いたナレーションと共に彼の軌跡を伝えてくれます。障害の有無に関わらず一人の人間として理不尽な状況や悔しさに直面した時、人はそこにどう立ち向かうのか…学ぶことがとても多いものでした。今日はぜひともご紹介したいと思います。

さて本題に入る前に、少しだけ…。耳の不自由なこどもがバランス感覚を要するスポーツを極めていくことの大変さを知るために、耳の聞こえと平衡感覚について取り上げておきたいと思います。
右の図は耳の断面図を表したものです。空気の振動(音)は外耳で集められ、中耳で増幅されて内耳へと伝わります(図1)
内耳(図2)にはかたつむりのようなものがあって、殻に相当する蝸牛(かぎゅう)では、音の振動を電気信号に変えます。かたつむりの角の部分にあたる部分は三半規管で、身体のバランスを感じ取ります。また角の下方には2つの袋(前庭:卵形嚢・球形嚢)があり、進む速さの変化や頭の傾きなどを感知し、これらも電気信号になって脳へと伝わります。
専門家の先生が「高度難聴児に平衡機能障害を伴うものが多いことは古くより知られている。蝸牛および前庭半規管が発生学的にいずれも耳胞より発達し, 完成後も相隣接して存在することからすると, 両者が同時に障害されることは納得できる」(※1)と書かれているように、生まれつき耳が不自由なこどもにとって、身体のバランスを整えることは得意な分野ではないのですね。
 

そんなハンディを持ちながら耳の不自由な赤ちゃんは、力強く成長していきます。「乳幼児では平衡機能が健常児と比較して劣るものの,それ以降9歳前後までには代償によって健常児と変わらない平衡機能を身につけると考えられる.」(※2)ということですが、やはり平衡機能の中でも不得意な分野はあるようです。聾学校生徒75名、普通小学校生徒243名(各学校とも1-6年生)が参加した平衡機能に関する調査研究(※3)によると、数種類行われた平衡機能調査の内、目を開いて両手を飛行機の翼のように広げて片足立ちし、上半身と片足を一直線になるように45度の前傾にして、その姿勢を30秒間保てるか測定したところ、15秒未満以内であった生徒は聾学校75名中、右足は19名(25.7%)、左足は18名(24.3%)でした。一方、普通小学校243名中、右足は7名(3.1%)、左足は8名(3.6%)という結果となりました。こうした数字を見ると、風や雪の影響を受けながら飛行し、安全に着地することが求められるスキージャンプ競技は、耳の不自由な小学生にとってハンディが大きいと容易に想像できるでしょう。風圧に負けないで身体の軸をしっかり保ち、地上に着地する時の衝撃から身体のバランスをとることは私たちの予想を遥かに超えた困難さを伴うことでしょう。それでも耳の不自由な少年は、なんとオリンピックテストジャンパーになるまでに成長したのです。

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1974年2月、北海道札幌市に高橋竜二さんは生まれました。両親、兄、姉に囲まれた賑やかな生活。元気に育った竜二さんですが、なかなか言葉を覚えないことに両親は不安を感じるようになりました。そして4歳の春、生まれつき耳が不自由であるとわかったのです。

その日を契機に母タズ子は必死になって竜二さんに言葉を教え込もうとしました。

「泣く、泣くなんて、私も怒るし、覚えさせようと思ったらね、
 愛の鞭って言うのかさあ…一つでも言葉覚えてほしいし、
 日本人でありながら日本語もね、話せなくて……」


引用映像 1:
札幌テレビ放送(STV)『スーパーテレビ情報最前線 風の音は聞こえない 少年竜二…空を飛べ』1998/3/2放送

言葉、それは自分の気持ちを詳細に外に伝えるために大切なもの。10代の終わりに自分自身突発性難聴になったタズ子さんにとって、言葉がどれほど大切であるか、誰よりも身に沁みていたからでしょう。番組の映像の中でタズ子さんは両耳に補聴器をつけていましたが、明瞭に言葉を発音され、周りとスムーズに会話が成り立っていました。言葉に囲まれた生活、言葉を発する生活、その大切さを息子にもわかってほしかったのだろうと思います。
しかしその特訓は傍目で見ていても、随分厳しかったようです。父知秋さんは当時を振り返り、次のようにお話されています。

「竜二もストレスが溜まって、俺もストレスが溜まって、
 じゃあ一緒に表、出てスキーでもね、滑るかって調子。」

引用映像:前掲映像1

言葉の溢れる場所で周囲の子らと同じ経験をさせることは、我が子に言葉を与え、世界を広げることに役立つと考えた父は、4歳の竜二さんにアルペンスキーを始めさせました。しかしそこに立ちはだかった音の壁…それはスタートの合図が聞こえないことでした。しかし父は諦めませんでした。スキージャンプだったら振り下ろされる旗さえ見ることができれば、スタートがわかるからです。

補聴器をつけてもほとんど言葉を聞き取ることのできなかった竜二さんは、相手の唇の形を読み、それを真似て音を発することを習得していきました。聾学校での授業風景の一場面、イソップ寓話の『アリとキリギリス』を音読している様子が登場します。教室の中で机を挟んで先生と一対一、竜二さんは一生懸命言葉を発します。「おちばが、ちらちら、まいおちて…」先生は指導の手を緩めることはありません。「もう一度」。まいおちて…まの音、いの音…、響きのおかしいところを先生は一つずつやり直しさせるのです。幼いこどもにとってそれは随分骨の折れる時間だったことでしょう。
また音の出る物に触れ、振動の違いも実感するようになりました。たとえばクラリネットの先端のベルに指先を当てたり、自分の顎先と肩でバイオリンをしっかりはさみ、弦をゆっくり引いてみたり。両手に握ったマレットで木琴の音盤を叩いて鳴らす竜二さんの口元は、音盤の放つ音にあわせて楽しそうにドレミファ…と口ずさんでいるように見えます。
人気者の竜二さんは明るく、快活な少年に育っていきました。

竜二さんは雪のない時期もスキージャンプの練習に励むようになりました。家庭用寝具のマットレスを3枚重ねて、そこに向かって全身で飛んだり、手造りのハードルを両足を揃えて跳躍する練習も重ねました。

「飛んでいる時はどんな気持ち…?」
そう尋ねられた竜二さんは、次のように答えています。

「まるで、自分が、鳥みたいに飛んでいるような……
 気持ちです。」

引用映像:前掲映像1

嬉しそうな表情の竜二さん、しっかり相手の目を見て答えています。

札幌ジャンプスポーツ少年団で練習するようになった竜二さんは、だんだん飛距離を伸ばしていきました。仲間たちとも楽しく過ごしていました。ジャンプ会場へ向かうのか、貸切バスの中で同じ年頃の子らと楽しく過ごしている竜二さんの笑顔がとても印象的です。ジャンケンに負けておでこをピンッと指ではじかれる様子も、じゃれ合っている感じです。そしてバスの曇り窓に竜二さんが指で線描していたのは、ジャンプする人の姿。

ある日のこと。40m級のトライアルジャンプをみんな飛ぶようにと、コーチから指示が出た時、竜二さんは父からその話を知らされました。思わず左手を振って「ああ、飛べないよ。」と笑う竜二さん。父が励ましても「いやいや……。」と手を振って竜二さんは断ります。
尻込みする息子に飛ぶことを勧めようとする父。若かりし頃スポーツマンだったけれども、20代の頃に事故にあい、歩く時に右足を引きずるような感じになってしまった父だからこそ、息子にはのびのびと夢を叶えてほしかったのかもしれません。竜二さんと父は二人で荒井山ジャンプ場に何度も足を運び、練習に励む日々が続きました。工場勤務を終えて通う冬の山は、父の身体には随分堪えたことでしょう。

竜二さんに転機が訪れたのは10歳の時、スキー博物館を見学した時でした。金・銀・銅メダルを見た竜二さんは「どれか1つでもいいから欲しいなあ。」そう日記に綴りました。しっかりした字でびっしりと書き込まれた日記。その中には飛ぶことへの思いが何度も何度も登場します。

1985年、竜二さん札幌聾学校6年生の夏、高校生が競う70m級のジャンプが行われる札幌市長杯サマージャンプ大会を父と見に行きました。小さい頃からジャンプをしてきた子らは皆、中学に進む頃には70m級のジャンプを目指すのだそうです。竜二さんの父は竜二さんにも同じようにその機会を与えたいと思っていました。竜二さんと父の目の前で繰り広げられる高校生のジャンプ。その中には後にオリンピックに出場した原田雅彦選手もいました。原田選手は後にリレハンメルオリンピック ラージヒル団体で銀、長野オリンピックラージヒル団体で金、ラージヒル個人で銅メダルを獲得した選手です。原田選手の飛ぶ姿の背後に、竜二さんの声が聞こえます。「怖いもん。」「だってアプローチ(滑走路)が長いよ。」 「怖いもん…。」と首を振り続ける竜二さん。

せっかくここまで積み上げてきたジャンプ。父は竜二さんに恐怖を乗り越えてほしかったのでしょう。ここで恐怖心に負けてやめてしまったら、これからの息子の人生で実現できる可能性がわずかにあっても、自らその可能性の道を閉ざしてしまう…そんな風に思ったのかもしれません。父は少年団で指導に当たっていた石高博敏コーチに、竜二さんの指導を託しました。なぜなら石高コーチはかねてから障害者の指導に心を砕いてきた方だったからです。

指導を引き受けた石高コーチは、竜二さんの顔にまっすぐ向き合ってしゃべるようにしました。相手の唇を読むことができれば、ジャンプの時ヘルメットをつけても補聴器の助けはいらないと思ったからです。コーチの口をまっすぐ見上げる竜二さんの顔は真剣そのものです。石高コーチは自ら8ミリカメラを手にジャンプを撮影して、竜二さんに視覚から理解を促す指導を始めました。そして平衡感覚を養うため、夏はスケートボードに乗るように指導しました。雪のない季節も大事な特訓の期間です。竜二さんを我が子のように熱心に指導した石高コーチの情熱は、竜二さんの才能を更に開花させることになりました。

いよいよ札幌聾学校中学部1年の冬、竜二さんは70m級ジャンプに挑むことになりました。「難しくないよ。毎日練習を積み重ねてきたの。今日いっぺんにビューンと飛んでおいで。」と励ます母に竜二さんは「荒井山と宮の森は別…」と答えます。石高コーチも不安でした。一生懸命特訓し、それに応えてきた竜二さんではありましたが、転倒して、大けがを負ってしまったら…コーチとして不安が尽きないことは当然だったことでしょう。そんな中、竜二さんはしっかりと飛んだのです。石高コーチは次のように語っています。

「今までジャンプやって本当良かったなあって自分、思います。
 竜二も良かったんじゃないかな。
 僕もはじめだったら教えていけるのかなあ、
 できるのかなあってすごい心配だったけども、
 僕も楽しかったし、
 竜二もきっと楽しかったんじゃないかなと思う。」

引用映像:前掲映像1

飛び終えた竜二さんは次の目標を定めていました。それは90m級ジャンプです。
中等部を卒業した竜二さんは北海道高等聾学校に進学しました。「僕には言葉がある」と手話を嫌った竜二さんは、学校で「おしゃべりカラス」とあだ名がつきました。クラスで学友とわいわい楽しく過ごしている風景はまさに青春、という感じです。竜二さんの世界は広がっていきました。
高等聾学校は小樽にあるため親元を離れて寮生活をしていた竜二さんですが、荒井山に雪が降ると毎週自宅に戻って練習するようになりました。そこにはもう石高コーチの姿はありません。また父と二人三脚で練習の日々です。当時耳に障害を抱えながらも90mを飛んだ人は1人もいませんでしたが、かつて70m級のジャンプを見て「怖いもん」と尻込みした竜二さんは心もすっかり大きく成長していました。
「苦しい勉強やスポーツを何が何でも乗り越える」
それは竜二さんの個人目標。一字一字しっかりした筆跡で書かれていました。これまで何度も自分で感じてきた壁を乗り越えてきた自信、その積み重ねからきた 決意なのかもしれません。

そして迎えた大倉山。16歳の竜二さんは傾斜角35度の90m級ジャンプ台を見事に飛びました。後に笠谷幸生(かさや ゆきお)氏が次のようにコメントされています。

「風の音が頼りのジャンプを耳が聞こえない竜二が飛ぶ、
 私はその姿に驚嘆した」

引用映像:前掲映像1

笠谷氏は1972年札幌オリンピック70m級ジャンプの金メダリスト。ジャンプの世界に深く身を置いて競ってきた経験者が、驚嘆したと表現するその言葉は本当に重みのあるものです。一身に風を受けて90mを飛んだ後、竜二さんはゴーグルをおでこに上げて小さく首をかしげました。もっと飛べる、そう思ったのでしょうか。
いくつもの壁を乗り越えていった竜二さん、自分にとってジャンプはどういう意味があったのか、次のように語っています。

「少年時代は耳が聞こえないということに、他の人たちがあまり
 理解してくれなかったんですよね。
 そうしたら自分、ますますみじめっていうか、孤独感、
 強くなってきますよね。
 でもジャンプを始めてから周りの人も理解してくれますよね。
 そうしたら心も何か開いていくような感じで、耳が聞こえない
 ということを恐れないで自分が他の人と同じだと思ってね、
 行動すれば周りの人も認めてくれるっていうか、
 わかってくれますよね」

引用映像:前掲映像1

1995年春、竜二さんは北海道高等聾学校専攻科歯科技工士科を卒業しました。卒業証書を授与される時、両耳に補聴器をつけた竜二さんは「はい ありがとうございます」と明瞭な発音で挨拶し、明るい表情でお辞儀をしました。そしてオルガンの伴奏の調子にずれることもなく「仰げば尊し」を歌いました。

卒業後の竜二さんは、歯科医院で歯科技工士として働く道を選びました。練習に好条件の実業団とは違い、あくまでも社会人として働きながら続けるジャンプ選手生活です。荒井山で練習を週1回続けていた竜二さんは、当時出場した大会の表彰台で船木和喜選手が1位、その横に2位として肩を並べている姿も登場します。 船木選手は後に長野オリンピック・団体ラージヒル金メダル、個人ラージヒル金メダル、個人ノーマルヒル銀メダルを獲得した選手です。

竜二さんが社会人となった翌年、大倉山ジャンプ台は長野オリンピックのために改装されました。竜二さんにとってもオリンピックの国内開催が一層身近に感じられたことでしょう。
やがて迎えた1998年1月18日、STVカップ国際スキージャンプ競技大会兼オリンピック代表選手選考会が開催されました。1か月後に長野オリンピックが迫っていたのです。
竜二さんはその大会で実に見事な成績を収めました。大倉山ジャンプ競技場ラージヒル、1回目は116m、飛び終えた竜二さんは笑顔です。そして2回目は130m、右手でガッツポーズをした竜二さんはゴーグルを上げ、ラージヒルの方を見上げると、思わず両手で顔を覆っていました。この試合で竜二さんは見事、優勝を勝ち取ったのです。

札幌聾学校小学部3年から始めたジャンプ人生。父はインタビューで「何か夢みたいですね」と語りました。風の音が聞こえず、平衡感覚を保つことも難しい竜二さんが、万全とは言えない練習環境の中、こつこつ続けて闘い抜いた優勝なのですから。優勝インタビューで竜二さんはにこやかな表情で、一言一言噛みしめるように次のように語っています。

「無名の私が、ここまでこうやって勝てたのは、
 皆さんも信じられないと思いますけど、寒い中わざわざ
 応援に来てくださいまして、ありがとうございました。」

引用映像:前掲映像1

自宅で息子の帰りを待っていた母が箱を開けると、そこには優勝カップが滴に溶け変わった雪と共に光っていました。それを大事に仏壇の前にお供えした母は竜二さんに「今のこの姿あるのは石高コーチのおかげだよ。忘れないでね。これからも一生懸命頑張っていこう。」そう励ましました。

オリンピック代表選考会で優勝を収め、世界ランキング60位の竜二さんでしたが、長野オリンピックの代表には選ばれませんでした。国際大会のキャリアがほとんどなかったことから、竜二さんにオリンピックの道が閉ざされてしまたのです。竜二さんにスキー連盟から届いた連絡は「長野オリンピックでテストジャンパーをしてほしい」というものでした。

テストジャンパーはジャンプ台の安全性を確かめたり、競技続行の可否を決める上でのいわゆるテストジャンプをする役割があります。たとえテストジャンパーとしてでも息子が選出されたことを喜ぶ母、一方、息子の心情を測りかねていた父。竜二さんは3年前の春、高等聾学校卒業時に担任の先生に、長野オリンピックを目指していると心の内を話していました。ずっと二人三脚で練習に取り組んできた父は、竜二さんの悔しい胸の内が痛いほど伝わってきたことでしょう。やがて竜二さんは心の中でしっかりと区切りを決めたのです。ランニング嫌いだったはずなのに、走り始めました。 リフトの上では移動の時間も惜しんで、右手を使ってジャンプのイメージトレーニングをしています。

「もしもお父さんがいなければ、ジャンプの基本が全然なって
 なくて、宮の森や大倉を飛べなかったと思う。
 みんなが耳が聞こえないからすごいと騒いでいるんだけれど、
 自分としては耳が聞こえないことは別にして、ジャンプを
 やっているのは、他の選手と同じだと思っているから。」

引用映像:前掲映像1

そう言い終えると笑顔で「うん、うん」と2回首を振りました。

1998年2月17日、長野オリンピック ラージヒル団体決勝の当日を迎えました。団体戦では各国チームの1本目と2本目によって決まります。1本目4位だった日本は2本目へと進むはずだったのですが、吹雪強く、ジャンプ競技を続行するべきかどうかの判断に追い込まれました。そこで競技委員4人の内3人が競技中止を主張する中、テストジャンパーによる飛行が行われることになりました。悪天候の中のジャンプ。竜二さんはどんなに大きなプレッシャーと恐怖を抱えていたことでしょう。雪の降りしきるジャンプ台から飛ぶ竜二さんの美しい姿、その飛距離は131mでした。25名のテストジャンパーの中でも最長距離です。飛び終えた竜二さんは右手を挙げ、左手を挙げ、何人かハイタッチして白馬のジャンプ台を見上げたのでした。竜二さんの胸にはどんな思いがよぎったのでしょうか。4名のラージヒル日本代表の記録とも肩を並べる素晴らしい記録。それでも竜二さんの名前と飛距離がオリンピック選手の公式記録として残るわけではありません。F20のゼッケンをつけた竜二さんは自分の名前ではなく「test jumper twenty」と呼ばれる立場…。

竜二さんはなぜパラリンピックに出場できなかったのだろうか、私はそう思いましたが、調べてみたところパラリンピックにはスキージャンプは競技種目としてありません。そしてそもそも聴覚障害のある方はパラリンピックに選手として参加することができないのです。両耳のうち聴力が優れた方の耳の聴力レベルが最低でも55デシベル以上の聴覚障害の方を対象とした「デフリンピック」が別にありますが、こちらでもスキージャンプは競技種目にはありません。それらを考えると健康な人に混じってオリンピックのテストジャンパーを務めた竜二さんは、まさに超人的な偉業だと思うのです。そしてその背景には、大けがをするリスクを自分で引き受けながら続けた強さもあるのです。

このジャンプの10日前、竜二さんに励ましの手紙を送った長野市立加茂小学校の生徒たちへ、竜二さんから返事のFAXが送られていました。クラスの壁に貼られたその返事には「確かに私は耳が聞こえません。風の音もわからないし…」そう書かれていましたが、びっしり文字で埋め尽くされたFAXの最後は次の一行で締めくくられていました。

挑戦なくして成し遂げられた偉業は未だかつて一つもない!!

引用映像:前掲映像1
 
引用映像:
※v1 札幌テレビ放送(STV)『スーパーテレビ情報最前線 風の音は聞こえない 少年竜二…空を飛べ』1998/3/2放送
 
引用文献:
※1 田中 美郷, 加我 君孝(1981)「難聴乳幼児にみられる運動機能の発達の遅れについて」『AUDIOLOGY JAPAN』24巻, 3 号, pp.140-146
※2 中島幸則, 桜庭景植, 笠井美里, 竹腰英樹(2010)「成人の先天性聴覚障害者の平衡機能と視機能の評価」日本臨床スポーツ医学会誌, 18号, pp. 297-304
※3 亀井民雄, 牧 清人, 吉見 富夫, 三浦 一男, 村上 三郎, 矢部 寛(1984)「聾児およびふつう児童の平衡機能について」『耳鼻咽喉科臨床』7 巻, special2号, pp. 686-694
 
引用図:
図1 竹内修二(2012)『カラー図解 人体解剖の基本がわかる事典』西東社, p.206
図2 同上
 
恐怖を乗り越え、夢に向かって努力し続けた少年は、悔しさや理不尽さの中でもプレッシャーをはねのける力を身につけた大人へと成長していきました。苦労の実る場所は一つだけではないのかもしれません。
2018/3/31  長原恵子