これは法然上人の作られた歌として伝わり、浄土宗の宗歌にもなっている歌です。
この句をそのまま現代の言葉にすれば
「(私訳)月の光が届かない所はないけれども、月の光を眺める人の心の中に月は住んでいる」ということになります。
でもそのような直訳では味気ないものです。
いろいろな解釈があると思いますが、私は法然上人が阿弥陀様を「月」として表し、阿弥陀様の慈悲のお力を「月の光」だと考えて、作られたのだと思います。
「(私訳)阿弥陀様の慈悲のお力が届かない場所はなく、この世界のあらゆるすべての場所は、阿弥陀様の慈悲によって守られているのですよ。
<本当に阿弥陀様がいるのだろうか>と不信感でいっぱいの人の心には、その慈悲のお力は感じられないけれども
<きっといらっしゃるのだろう><いらっしゃるはずだ>と思っている人の心の中には、阿弥陀様が住んでいらっしゃって、いつもいつも、あなたの心の内側からあなたを守っていらっしゃるのですよ」
ということを伝えたかったのではないかなぁと思っています。
朝や昼間には、月の光のありがたさは感じることができないもの。
元気いっぱいで、悩み事もなくて体中に活力が漲っている時、頼りにする存在をそれほど気に留めないことと同じかもしれません。
でも自分の心が闇のようになった時には、月の光がどれだけありがたいかようやく気付くことができます。
私は尼僧ではありませんし、仏教を研究している学者でもないので、本当のところは違うのかもしれませんが…。
さて、ひらがなで表記されている「すむ」ですが漢字で「住む」と表すと、更に奥深さが出てくるように思います。
「住」はにんべんに「主」という字を書きますよね。
学研の『改訂新版 漢字源』を見てみますと「主」は「丶」と「王」に分けることができます。
そしてそれぞれ、次のような意味があるのだそうです。
「丶」… 一か所にじっと立つ灯火
「王」… 灯火の下の燭台
人の傍らに火の灯された燭台がある様子を思い描いてみてください。
あなたのそばに阿弥陀様が灯火としてずっといらっしゃり、あなたの足元やこれから行く先を照らしてくれている…
「ながむる人の心にぞすむ(住む)」とは、そういう状態を表しているのかもしれませんね。 |