デーケン先生のキリスト教入門講座(前期)で、この章が取り上げられたのですが、先生のお話を聞きながら、人間にとっての信仰とはどのような意味があるのだろうかと考えていたところ、ふと、こんな考えが頭に浮かびました。
「ぶどうの木(=特定の宗教の教祖を指すのではなくて、自分にとって信仰の対象となる何か偉大なもの)につながることにより、人はそこで心を預けて一休みすることができて、一歩進めていけるのではないだろうか。」(私の勝手な私論ですが...)
お子さんが病気になった時、何かの信仰に助けを求めようとしたり、神や仏にお子さんの回復を祈りたくなった方は、たくさんいらっしゃると思います。それは時に第三者からは「宗教に<はまった>」というような言い方をされてしまうかもしれませんが、決して現実から逃げたり、目をそらしたりするわけではないと私は思います。
お子さんが病気で入院した時、医師から「お話があります」と声をかけられるたび、毎回良くない話でずいぶん落ち込んでしまうかもしれません。そういう時はご両親の心の大きさが、うんと小さくなっているはずです。普通だったら難なく理解できることなのに、とても理解できなかったり、いくつもたくさんのことを言われると、パニックになって頭に入らなかったり。時には「今日何を食べるか」さえも考えられなくなったり。
小さくなった心でも十分やっていけるようにするには、物事といっぺんに向き合うのではなく、少しずつ…ということが望ましいのですが、実際はそんなことは言ってられないかもしれません。
だからこそ、ご両親には心を一休みさせる時間をとってほしいのです。
少しの間、心を預ける時間を持つことは、疲弊した心にとても大切だと思います。 |