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初めての子育て。昼間、たえずこどもが走り回り、夜は寝つきが悪く、何度も目を覚まして泣くこども…でも「元気なお子さんね」「こどもってそういうものよ…」そう周囲から言われてしまうと、そういうものかと思いがちです。そして疲労困憊し、気持ちが滅入る自分に、もっと頑張らなくちゃだめだ…と思い込んでしまうかもしれません。そして頑張った果てに3歳になって受けた病名の告知。
大きなショックと抑うつをもたらしたけれども、そこから立ち上がっていったお母様のお話を読みました。
そのお母様は一つの物事のもたらす意味を2倍、3倍も深く読み取っていました。それはお子さんを理解し、生活をより良くしていくためにとても大切なことだと思いましたので、ご紹介したいと思います。

振り返ってみれば、お母様は息子さんの発達や行動の中で、不安を感じることはあったそうです。しかし、それを息子さんの個性や個人差の範疇だと考えて、頑張っていました。走り回る息子さんがどこかに行ってしまわないかと、いつもいつも、心のアンテナをピリピリ張っていたことでしょう。新生児の頃ならまだしも、大きくなっても夜、何度も起きては泣くことを繰り返す日々に、へとへとになったことと思います。お父様は外で働いているため、育児や家事はほとんどの時間が、お母様一人の肩にかかっていました。ベビーシッターさんもお願いするようになったそうです。しかしそれは焼け石に水だったようであり、疲弊は増して、睡眠障害になってしまいました。そうした娘を助けようと、お母様の母親が上京しながら、子育てを手伝ってくれていたものの、突然事故で急逝されました。そして、ついにお母様はうつ病になってしまったのです。

息子さんが3歳になった頃、病院で広汎性発達障害と告知され、その後、別の病院で、中度の知的障害を伴う自閉症と診断されました。

告知の際には、自分の育て方のせいではなかったという安堵感をかすかに感じたものの、「障害」と言う言葉に打ちのめされ、涙が出ないほどのショックを受けました。それからしばらくは、なぜ自分の子が、なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのかと苦悩し、子育てへの夢や希望が打ち砕かれたとの思いが抑うつ状態をさらに悪化させました。

しかし息子は毎日、笑顔を見せてくれます。
毎日、毎日、笑顔を見せてくれるのです。その笑顔に、障害があってもなくても、この子にはこの子なりの楽しみがあり、幸せがあるのかもしれない、あるに違いないと思うようになっていきました。障害を告知されて動揺しているのは親だけで、息子は以前と何も変わっていないのです。

そこで、自分がそれまで思い描いてきた「こんな子になってほしい」「こんな子育てをしたい」といった思い入れをすっぱりあきらめて、あるがままのわが子を受け入れ、この子に合った育て方を積極的に、前向きに模索していこうと思うようになりました。それが息子の自尊心を育て、息子なりの生き方を見つけることにつながることになるのではないかと考えるようになったのです。

ほどなく、息子が夫に向かって「パパ」と発語し、その翌日には私に「おかあさん すき」と言って抱きついてきてくれました。息子が私に大きな勇気と幸せをもたらしてくれた、忘れられない瞬間です。


引用文献:
美浦幸子「前向きにあきらめる子育て」内山登紀夫ほか編(2014)『わが子は発達障害』ミネルヴァ書房, pp.219-220

こどもへの夢や期待、それはどのご両親も持つもの。でもそれは親の願いに沿うもの。そこからお子さんそれぞれが抱える事情を基に、本来どうあるべきかを原点に立ち返られたって、すごいことですね。
なかなか容易にできることではありません。
きっと多くの方が「でも、そうは言ってもやっぱり…」と、自分のかつて描いた未来像に向かって敷いた路線を、ずっと歩み続けていきたいと思うものですから。

その後、家事、育児を夫婦で助け合うようになり、療育を通り一遍のやり方ではなく、息子さんの興味や嗜好に沿ったエッセンスを取り入れて行うようになったのです。また、普段の声かけも、息子さんが状況を認識し、そこから理解しやすいように、二語文や三語文で実況中継するようにしたのだそうです。
確かにそうですね。たとえば日本人は高校生まで英語教育を受けたとしても、ちっともそれが会話につながらないことは、よく知られたこと。何気ない生活の場面で「これってなんと言えばいいんだろう?」とわからなくても、ネイティブスピーカーから、それをわかりやすい単語で2、3つなげた文で教えてもらえば「あっそうだったのか」とわかることがいくらでもありますものね。そう考えたら、自閉症のお子さんは、何も事情を知らない海外の土地に、一人ぼっちで海外留学している状況に等しいのかもしれません。自分の中でわかることとわからないことが混在して、そのわかることさえもどう表現していいかわからない状態…。

こうして家庭でも療育に取り組むようになると、療育が単なるスキルアップのためのトレーニングではないことに気がつきました。療育をすることで息子の得意・不得意がわかり、その理由・原因を考えることで障害特性への理解が深まり、必要な支援に結び付けることができるのです。


引用文献:前掲書, p.222

療育の過程は、実はご家族がお子さんをより深く理解する情報の宝庫なのですね。そしてもちろん、お子さんのためにもなります。
できる喜びは自信と楽しさを連れてくるとともに、生きる世界の広がりをもたらしてくれるのですから…

「わかる」「できる」ことがうれしいようで、一つひとつの取り組みに「できた!」「正解!」と声にだし、「学ぶ楽しさ」を表現するようになりました。(略)学び方が違っても、学ぶ力はあるのです。自閉症の息子の能力・可能性は私にとって未知のもの。それを息子と一緒に追い求めることに、私は喜びとやりがいを感じはじめました。


引用文献:前掲書, p.222

でも、現実は毎日そんなにうまくいくことばかりではないのよ…そう思うご家族も多いことでしょう。お母様はこのように書かれています。

あるがままの息子を受け入れたつもりでいても、日に日に大きくなる息子が強いこだわりや不安感から激しいパニックを起こすと、抑えることも連れ出すこともできなくなり、つい声を荒げてしまうことや、心身ともに消耗して心が折れそうになることもあります。

そんなときは「家族三人一生なら、何とかなるさ」というわが家の合言葉を思い出し、「親の都合」や「思い入れ」を押し付けていないか再点検。思い当たるところがあれば、息子の明日のためにあきらめます。

そして息子が将来支援を必要としながらも可能な限り自立して、社会との接点を持ちながら、楽しみを見つけて人生を送れるように、これからも「前向きにあきらめる子育て」をしていこうと思いを新たにするのです。


引用文献:前掲書, pp.223-224

あきらめるとは、漢字では「諦める」と書きます。
日本語の日常会話の中では、何かを「もう、しょうがないなあ」と思って途中で辞めてしまう時に使う言葉ですが、「諦」とは本来、物事を明らかにすることを示し、仏教用語では真理を意味するものです。
そう考えると私は、このお母様が表した「息子の明日のためにあきらめる」とはきっと、「息子にとってより良い明日とは何かを考え抜き、その真髄に基づき積極的に選び取る」ことを意味するのだと思うのです。そこには決して失望や落胆を伴うのではなく、小さな希望がたくさんちりばめられて…。

 
物事の真髄に基づいた選択は、お子さんとあなたにハッピーな明日を引き寄せてくれるはず。それが幸せの近道になるのだと思います。
2015/4/21  長原恵子