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シンプルでかわいいうさぎのイラスト、と言えばきっと多くの人々が「ミッフィー」を思い浮かべることでしょう。

ミッフィーの生みの親であるディック・ブルーナ氏は2017年、89歳で他界されましたが、公式サイトの動画では、ブルーナさんがミッフィーを描く様子を見ることができます。

絵筆の先に丁寧に塗料をつけ、短い線であっても何度も細かく筆を動かしながら、慎重に描いているその姿からは、一つ一つの作品を大事に描いていることが伝わってきます。

動画の前半では木々の緑の葉っぱが風にそよぐ中、軽快に自転車をこぎ、歩き、仕事場へ通う様子も登場します。その姿からは誰も、彼が生まれて間もなく足の病気で治療を受けていたとは、まったく想像し得ないかもしれません。彼は本の中で幼い頃の自分について振り返り、当時の母親の気持ちに思いを寄せています。そこには生まれた時から何らかの病気がある赤ちゃんのご両親に、ぜひ知っていただきたいなと思う言葉がありましたので、今日はそれを取り上げたいと思います。

1927年8月23日、ディック・ブルーナ氏はオランダでA・Wブルーナ&ズーン社という出版社を経営していた父アルバート・ウィレム・ブルーナ氏と母ヨハナ・クララ・シャーロッテ・エルトブリンク氏の長男として生を受けました。

ぼくは生まれたとき、脚が内側に曲がっていたのだそうです。すぐに手術をして矯正をしたので、幸いにも後遺症は残りませんでしたが、母はそのことでずいぶんたいへんな思いをしたのかもしれません。


引用文献:
ディック・ブルーナ(2015)『ミッフィーからの贈り物 ブルーナさんがはじめて語る人生と作品のひみつ』講談社, p.26

赤ちゃんは2歳くらいまではO脚であることが普通であり、それは生理的O脚と呼ばれます。病気ではありませんし、治療の対象になるわけでもありません。しかしブルーナさんはすぐに手術して矯正する治療を受けたということは、足が病的に強く内側に曲がり、足先も爪先立ちするような形で、更に足先が内側に向かうような形をとる、先天性内反足(ないはんそく)と呼ばれる状態だったのかもしれません。1920年代後半の治療ですから、現代とは治療の内容、進め方には異なる部分はあるだろうと思います。しかし我が子の心配をする親御さんの気持ちは、決して今と変わらないことでしょう。

なにしろ、生まれてまもないわが子が手術をするのです。親としてはいたたまれなかったはずです。しばらくのあいだ、ギプスが必要だったことも、母の精神的な負担だったのではないかと想像しています。

引用文献:前掲書, p.26

ギプスを巻いた赤ちゃんのお世話は大変だったことでしょう。赤ちゃんは新陳代謝が激しく汗っかきですから、いくらオランダの夏は日本より気温も湿度も低いと言われても、皮膚のお手入れには注意が必要です。当時はまだ便利な紙おむつが普及する前の時代です。ギプスをしたまま布おむつの赤ちゃんに清潔を保つことは、私たちが想像する以上にお世話の手間が増えただろうと思います。無事にギプスが外れた後も、決してそれで終わりではありません。良い足の形を保つように、足に装具をつける時間が長くあったことでしょう。その装具も動きによって痛みを伴ったり、皮膚が傷つく場合もありますから、気を配らなければいけません。そして足の動きを良好にするためにリハビリに取り組むなど、親御さんがやらなければいけないことは、様々に渡って多かっただろうと推測します。

でも、母はそれをなげいたり、態度で示すことは一切ありませんでした。いつも明るく、ぼくや家族に接し、陽気にてきぱきと家の中のことをこなし、どんなときもおだやかでした。

そのおかげで、ぼく自身、脚のことで不自由な思いをしたり、劣等感をもったりすることはありませんでした。

引用文献:前掲書, pp.26-27

彼の母親は気さくでユーモアがある人でした。ブルーナさんのたくさんの友人が家に遊びに来ても、快く迎え入れてくれました。、また彼女は自分の価値観や意見をしっかり持ちながらも、どんな年齢の人の話にも耳を傾ける心の広い人でした。こどもの頃の病院通いが不安だったことをブルーナさんは語っていました(※1)が、息子の気持ちがあまり沈まないように、彼女はきっと心を砕いていて接していたことでしょう。

たしかに小さなころは、友だちとホッケーやサッカーをして遊んだりはできませんでした。でも、どちらかというとスポーツをするよりも、見ているほうが好きな、おとなしいタイプだったので、それほど苦になることがなかったのです。

よく窓辺にすわって、友だちがかけまわっているようすをながめて楽しんでいました。小さなころから観察するのが好きだったのです。友だちが遊んでいるところだけでなく、いろいろなものをながめては、見たことや、そこからイメージしたものを絵に描きました。動物の絵もそうですが、乗り物や人、花、風景……。ほんとうにたくさん描きました。

家に友だちがよく遊びにきていましたが、みんなが帰ってしまうと、今度は自分の部屋に入って絵を描くのです。

引用文献:前掲書, p.27

幼い頃のブルーナさん、彼は決して友人に向ける視線の先に、悔しさや妬ましさを絡ませていたわけではないのです。それでもやっぱり、同じ年頃のこどもが活発に駆け回る様子を窓辺から眺める我が子の後ろ姿、それは母親の心を絞めつけたことでしょう。息子を不憫に思い、切ない気持ちが行ったり来たりだったかもしれませんね。

彼の成長の過程において、足の問題は決してマイナスをもたらしたわけではありません。母親が彼に本の読み聞かせをしてくれたことをきっかけに、彼は本好きのこどもに育ちました。そして父親の書棚からお気に入りの本を見つけては、読みふけるようになりました。幼い頃からピアノを習っていたブルーナさんは、中学生になると憧れのシャンソン歌手のように、アコーディオンを弾きながら歌うようにもなりました。更に音楽好きは昂じて学校の友人とバンドを結成し、アコーディオンを担当しつつリーダーも務め、一時期は音楽家としての将来を考えるほどでした。
彼が6歳から中学生になるまで過ごしたオランダのユトレヒト州中部のザイストの自宅周辺には、野生のうさぎがたくさんいました。うさぎと共に遊ぶ彼の写真も残されているそうです。こどもの心に焼きついた原風景は、後に愛らしい素朴なミッフィーを生み出す元になったのかもしれません。やがて彼はレンブラントの光と影の画法やゴッホの色彩にも影響を受けるようになっていったのでした。我が子のいくつもの興味の矛先が自由に伸びて、才能が開花していく様子を母親は嬉しく見守っていたことでしょうね。

ぼくの子ども時代が楽しいものであったのも母の力が大きかったのだと思っています。母は、かけがえのない宝物をたくさんあたえてくれた、ぼくの人生にとって重要な人でした。

引用文献:前掲書, p.34

社会人になって絵本を手掛けるようになった彼の作品は、最初の頃、特にメッセージ性を持つものではなかったそうです。自分が描きたいものを描く、気に入ったものを描く。そのスタイルはやがて変わっていきました。「こどもたちのために」という意識が出て来た(※2)のです。1975年に描いた『うさこちゃんのにゅういん』、そのきっかけはある母親からのお手紙がきっかけとなりました。これから入院する我が子が強い不安を抱いていることを心配し、絵本で励ましてもらえないか?とブルーナさん宛に綴られたお手紙。ブルーナさんにとっても、幼い頃の思いが蘇ったことでしょうね。彼の病気にまつわる経験や思い出は、他の誰か同じような思いをするこどもたちのために活かされたわけです。やがて車椅子の少女のお話を描いた『ちいさなロッテ』や、自分と外見上違う特徴を持つこどもへの偏見やいじめの根本を問う『うさこちゃんとたれみみくん』も生み出されていきました。

幼い頃はその他大勢のこどもたちと同じように過ごすことで、安心感を強く持つこともあります。そこで自分と他のこどもたちを比較して「できない自分」に囚われてしまうと、とてもみじめな気持になったり、卑屈な思いが強く出て自己否定につながっていくかもしれません。だからこそ思うのです。きっとブルーナさんの母親は「できない自分」に囚われず、「自分は自分」といった意識を持つように、ブルーナさんに接していただろうと。そして得意なこと、好きなことへ熱中する環境を与えたことによって、得意なことはますます得意になって新たな自信が生まれ、彼の「なりたい自分」へと進むエネルギーに変わっていったのだろうと。

それは彼の歩んだ道につながっています。曽祖父の代から出版社を営む家に生まれたブルーナさんは、当然家を継ぐものと期待されていました。しかし経営よりもアーティストとしての活動に力を注ぎたかったブルーナさんは高校を中退し、イギリスやフランスの出版社で修行を積みつつ、自身の絵の勉強を続けていきました。そしてアムステルダムの国立芸術アカデミーのヨス・ローヴァース氏に師事し、更に絵の道を追求していくことになるのです。

どんな境遇におかれでも、自分の夢をそう簡単にあきらめることはできません。前向きに努力をつづけてさえいれば、たとえ時間がかかったとしても、道が開ける可能性は大きいのです。ぼくがそうでした。(略)父が敷いたレールに乗った形になってしまいましたが、この二年の研修期間が逆にアーティストになる夢をふくらませ、作品のスタイルを模索していく絶好の機会になったのです。

引用文献:前掲書, p.53

窓辺で友人を眺めていた幼いブルーナさんは、夢を諦めずに前向きな努力を継続する大人になっていったのでした。それは母のくれた「かげがえのない宝物」、すなわち彼の母の関わりのおかげだったのです。

 
引用文献:
※1 ディック・ブルーナ(2005)『ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと』講談社, p.111
※2 前掲書1, p.112
 
引用イラスト・写真:
図1 ディック・ブルーナ(2005)『ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと』講談社, p.113
写真1 ディック・ブルーナ(2005)『ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと』講談社, p.18
 
参考文献
ディック・ブルーナ(2015)『夢を描き続ける力』KADOKAWA

 

お子さんが病気によって不得意なことがあったとしても、得意なことや夢中になれることはきっとあるはず。それを育む環境づくりは、親のできる大事なことの一つなのだと思います。

2019/1/26  長原恵子