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1万数千年前に生きた赤ちゃんのお骨
(国立科学博物館所蔵)
 
 

(撮影許可あり)
出土場所
沖縄県島尻郡久米島町 下地原洞穴遺跡
時代
後期更新世
所蔵先:
国立科学博物館(東京)
出展先・年:
国立科学博物館 日本館(東京), 常設展示, 2018/6
 

昭和58(1983)年、沖縄県 久米島の下地原洞穴(しもじばるどうけつ)遺跡から、乳幼児の人骨が出土しました。その後、昭和61(1986)年にも同一人物のものと思われる人骨が出土しました。それはヒトの右下顎骨、脊椎骨、肩甲骨、肋骨、右上腕骨、右大腿骨だと判明し、2018年6月に訪れた国立科学博物館(東京・上野)の日本館に展示されていました。展示会場では「1歳前後の乳児の骨」と表示がありましたが、実際に会場で見ると1歳前後というよりはもっと小さい月齢の印象を受けたことから、この骨のことを調べてみました。骨の認定をされた国立科学博物館の佐倉 朔氏の論文を探してみましたが、残念ながら入手することができませんでしたが、下地原遺跡に関して小田静夫氏の論文「下地原洞穴と沖縄の旧石器遺跡について」(※1)の中で、この人骨について佐倉氏の論文等を元に詳しく取り上げられていたので、そちらを参照してみることにしました。

下地原洞穴遺跡は久米島空港北側の標高約40m段丘面下に位置します。洞穴入口の写真が久米島役場のウェブサイト(※2)のPDF資料にありました。それが右の写真です。この洞穴内部には幅が20m、天井高6m、奥行30mの広間があり、赤ちゃんの人骨は開口部に近い広間床下の粘土層から出土したのでした。
下地原洞穴遺跡入口(久米島役場HPより)

科学博物館の人骨展示のそばには「下地原洞穴出土遺物(1万7000年前)」と札が置かれていましたが、その年代についてはいくつかの可能性があるようです。前述の小田氏の論文を参照すると、この洞穴の粘土層からはカニの化石も出土しており、東京大学のC-14年代測定によってその年代が15,200±100yr.B.P.と出されたそうです。また国立科学博物館の松浦秀治氏によって行われたこの赤ちゃんの人骨のアミノ酸ラセミ化分析では、約 1万6,000年〜1万5,000年前と出され、フッ素分析では、後期更新世の後期と推定されたそうです。
鑑定方法によっていくらか年数の差はありますが、そのどれであったとしても、1万数千年前にこの赤ちゃんが生きていた、という事実は揺るぎないものです。

さて、この赤ちゃんの年齢(月齢)の認定は、佐倉 朔氏によって行われました。右下顎骨の内面にあった第2乳臼歯(乳歯の一番奥側の歯)の歯胚洞の大きさから、年齢を割り出すという方法です。そしてこの赤ちゃんは生後8カ月から10カ月の乳児だったということがわかりました。また、この赤ちゃんの骨の特徴として、現代人の赤ちゃんと異なる点があることも明らかになりました。それは下顎骨の形状の他、大腿骨がその長さの割に細いといった点です。

当日展示会場では人骨の隣りに同遺跡から出土したリュウキュウジカの骨(沖縄県立博物館・美術館所蔵)がありました。小田氏の論文によると出土した動物・鳥類はこの他にも、リュウキュウムカシキョン、ケナガネズミ、ハブ、カルガモが確認されたのだそうです。

それにしてもやはり、8〜10カ月の月齢であったとしても、この赤ちゃんが随分小さいなあと思っていたら、自分が基本的な点を見誤っていたと気付きました。展示会場では出土した骨を顔面から足にかけて、その姿にあわせて並べているけれども、実際は顔の位置にあるのは下顎骨だけであり、足は大腿骨だけ。腕も上腕骨だけ。そして脊椎も6個だけ。脊椎や大腿骨などの配置間隔も、本来の大きさよりぎゅっと縮小して展示されていたわけです。それは骨の数も少ないし、展示スペースも限られているといった事情があるからでしょう。ですから本当はこの赤ちゃん、頭の方はもっと上の位置まであるし、足先も手の先も、もっと下まであるのです。それを空想しながら見るべきだったというわけです。これで疑問解決。

さて、1万数千年の時を経て、なぜ小さな赤ちゃんの骨がきれいに残っていたのか……?そこは大きな謎になりますが、この場所の土壌の特性が影響していると言えるでしょう。人骨が出土した粘土層のすぐ上は50cmもの厚みの堆積によって覆われていました。その上部がトラバーチンでした。トラバーチンとは大理石の一種で、炭酸カルシウムが沈殿してできたもの。つまり赤ちゃんの骨の辺りは天然の炭酸カルシウムの蓋がされていた、ということになります。

沖縄から化石人骨が発見されやすい理由については、石垣市立八重山博物館の資料(※3)に詳しいので、ここで紹介したいと思います。そちらによると、沖縄の土壌は石灰岩が発達していることが大きなポイントです。海の中でつくられたサンゴ礁が岩石になった石灰岩、その主成分は炭酸カルシウムです。本来、人骨の主成分であるリン酸カルシウムは、土の中では酸を含んだ地下水によって少しずつ溶かされていきます。しかし石灰岩地帯では地下水に含まれる酸が、土壌の石灰岩の炭酸カルシウムを溶かし、土壌が中和されることから、土の中にあった人骨が溶けてしまう作用が弱まり、人骨が後世まで残りやすいというわけだそうです。

現世では1歳のお誕生日を迎えることなく亡くなってしまった赤ちゃん。それでも、こうして1万数千年の時を経て、今の時代まで骨が残っていたとは、なんと偉大な力を持つ赤ちゃんだったのでしょう。もちろん土壌のペーハーによって残りやすかったとか、その場所が土地開発によって破壊されることがなかったといった環境因子もありますが、それを差し引いてもこの赤ちゃんはすごい。
小さな赤ちゃんの秘めていた壮大な力を感じずにはいられません。

 

参考資料・ウェブサイト:

※1 小田静夫(2011)「下地原洞穴と沖縄の旧石器遺跡について」『南島考古』第30号, pp.1-18
※2 下地原遺跡資料(久米島町役場)
※3 「平成22年度石垣市立八重山博物館特別展 偉大な旅 新人の拡散と八重山白保竿根田原の人骨は何を語るか」資料
2018/6/15  長原恵子