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アート・歴史から考えるこどもの生 |
二度の大火に耐えて枝を伸ばす玉楠
(神奈川 横浜開港資料館) |
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撮影場所: |
神奈川 横浜開港資料館中庭 |
撮影時期: |
2018/3 |
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2018年3月に横浜を訪れた際、横浜開港資料館中庭にとても大きな木がありました。こちら「玉楠(たまぐす)」です。玉楠は「タブノキ」とも言われ、開港する前の横浜沿岸や丘陵に植生していたのだそうです。 訪れた当日は、こんなに勢いよく若い葉っぱが生い茂っていました。 |
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この玉楠は歴史的な場面にも立ち会っています。それは今から遡ること164年前、長く続いた鎖国が解かれた安政元(1854)年のことです。日本に開国を求めてやってきたマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊一行は横浜の小柴沖に停泊しました。そしてついに横浜村に上陸した時の様子が、艦隊の随行画家ヴィルヘルム・ハイネのリトグラフに残されています。『ペリー横浜上陸図』(横浜開港資料館蔵)の向かって右側に描かれているとても大きな玉楠が、現在の玉楠の祖先にあたります。ペリー一行を迎える多くの日本人の頭上高くから、その場面をまるで見守っているかのような背の高い玉楠が目を引きます。この玉楠の近くに応接所が設けられ、日米和親条約が締結されたのでした。 |
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写真2:玉楠の前にあった解説板を撮影したもの |
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玉楠の手前には水神の祠がありますが、このあたりは元治元(1864)年、横浜居留地覚書によって領事館用地として指定されたため、玉楠は残されたまま水神社は別の場所へと遷宮されたのでした。
その2年後、玉楠は大きな災難に見舞われました。慶応2(1866)年11月26日、午前8時、横浜 末広町の豚肉料理店から火の手が上がり、火はまたたくまに広がっていったのです。日本人の居住するエリアは火の海と一変し、更に火の勢いは外国人居留地の北側へと広がり、火はようやく14時間後に鎮火したのでした。
それほど大きな火災の被害に遭っても、当時の横浜の人々は非常に力強く、素晴らしかった様子がデンマーク人の綴った見聞記に残されています。エドゥアルド・スエンソン(Edouard Suenson 1842-1921)の『日本素描(Skitser fra Japan)』です。彼はデンマーク海軍からフランス海軍の士官となり、極東の戦略地点を巡行するフランス艦隊の一士官として、日本を訪れていました。しかし彼は慶応の大火の時に直接横浜で被災したわけではありません。その頃、フランスは李氏朝鮮との戦いを起こしていました。フランス人宣教師への弾圧と宣教師9名処刑に対する報復「丙寅洋擾(へいいんようじょう)」のためです。横浜港に駐屯していたフランス部隊もその戦いに参戦することとなり、スエンソンもその中の一人として朝鮮半島に向けて出発しました。そして江華島を攻撃、占領したものの撃破されて横浜へ帰還する、ちょうどその間に、慶応の大火が起こっていたのです。そのため彼の記録には大火の後、復興中の横浜の様子を自分が見たり、また人から大火の折の人々の様子を聞いたことが登場します。彼は駐日フランス帝国行使であるレオン・ロッシュの近くで過ごしたことからも、より多くの情報を得ることができたのでしょう。 |
日本人自身、西洋人よりはるかにひどい火災の被害を受けていて、それにもかかわらず、あっぱれな勇気と称賛すべき犠牲心と沈着さを発揮して、西洋人の貴重品を無事に運び出す手伝いをしたのだった。(A)
われわれが到着したときには大部分の人はもう落ち着きをとりもどしていて、災難の最中にあわてふためいてした滑稽な行為の数々のことばかりを、思い出すままに語り合っていた。
われわれの横浜到着から私が傷が治って初めて上陸したときまで、たかだか五、六週間しか経っていなかったが、火事の痕跡はほとんど拭い去られてしまっていた。
西洋区の焼跡は整理され、まだ空き地のままだった所がたくさんあったとはいえ、ぽつぽつ家が建てられつつあった。(B)
町の半分が建て直され、一、二ヵ月の後に横浜は、形は昔のままだがすっかり若返った姿を見せてくれた。(略)日本人はいつに変わらぬ陽気さ暢気さを保っていた。不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしたりしなかった。持ち物すべてを失ったにもかかわらずにである。被った損害を取りもどすために全精力が集中された。父親を先頭に、どの家族も新しい家を早く建てようと奮闘した。屋根を葺き、戸や窓に紙を張ったり畳を敷いたりして、部屋のひとつが使えるようになるかならないかのうちにもう荷物を解き、少しでも早く収入を得ようとして売り物を並べていた。日本人の性格中、異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である。ふたたび水の上に浮かび上がろうと必死の努力をするそのやり方は、無分別にことにあたる習癖をまざまざと証明したようなもので、日本人を宿命論者と呼んでさしつかえないだろう。(C)
引用文献:
エドゥアルド・スエンソン著, 長島要一訳(2003)『江戸幕末滞在記 若き海軍士官の見た日本』講談社,
A: pp.136-137
B: pp.137-138
C: p.139 |
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この慶応の大火によって日本人街の2/3、外国人居留地の1/5が焼失しましたが、当時の玉楠に関する明確な記録は見当たりません。ただしハイネの描いた玉楠と、その後に起こった関東大震災(詳細は後述)直後の玉楠の樹形が明らかに異なることから、70年ほどの間に何か変化を来す大きな外力を受けたことが考えられ、その要因として慶応の大火が挙げられています。開港資料館 館報73号の中では、かつて巨木だった玉楠は慶応の大火によって焼失した、あるいは輻射熱によって立ち枯れしたけれども、後に根元からひこばえが生じて株立となり、明治期の絵には若木のように描かれている (※1)と考えられています。
さて、この慶応の大火から更に50年ほど過ぎる間に、玉楠は立派に大きく成長していきました。大正4(1915)年、横浜市認定の保存木となり、翌年には「名勝史跡ニ関スル臨時委員会」の定めた横浜の6つの名木の中の1つとして選定されました。更に大正6(1917)年には玉楠の保存費として年額50円の支出が決定されたのです。他の5つの木よりも4倍以上の金額であったことからも、いかに玉楠が名木中の名木であったかがわかります。
しかし玉楠はまたもや大きな試練に晒されました。大正12(1923)年の関東大震災です。開港資料館 館報34号には震災時の玉楠の写真(※2)が掲載されていました。神奈川県庁舎を背後に玉楠はしっかり健気に樹形を保っているように見えますが、こちら炭化しているのです。
被災後、黒焦げになった玉楠から作られた壁掛け「ペルリの黒船」が、開港資料館2階に展示されていました。こちらは黒く焼けた玉楠の一部を利用して、黒船に見立てて壁掛けとして形を変えて残されたものです。 |
被災した年の冬、玉楠の木の根元から小さな双葉が出て来ました。そして英国領事館再建にあたり、玉楠は10mほど海側に移されて大事に植え直され、今に至ります。
訪れた時の玉楠の根元を見ると、若い枝が空に向かって勢いよく伸びていました。そして活き活きとしたエネルギーに満ち溢れた濃い緑色の葉っぱが、根元を覆うかのように生えていました。過去の大変さを微塵も引きずっていないようでした。 |
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2度の大火を経て、こうして生命力を発揮する玉楠は素晴らしいですね。そして慶応の大火の時に、デンマーク人の目に映った横浜の人々の力強さは失いたくないものです。病気で何度大変な危機に直面して、それでも頑張っていく病気のこどもたちの姿にどこか重なる様な思いがしました。 |
2018/8/8 長原恵子 |
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参考・引用資料 |
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