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病気と一緒に生きていくこと
辛さから思慮深さへの醸成

こちらで村山聖(さとし)さんのお話をご紹介いたしましたが、今日は思春期の青年聖さんが、直面した難題に対してどう道を切り開いていったのかについて取り上げたいと思います。それは病気であるかどうかを通り越して、一人の人として、見習うべきところが大きいと思うのです。

聖さんは将棋のプロを目指すため、親元を離れて、大阪で一人暮らしを始め、研鑽を積んでいきました。聖さんは順調に昇段していきましたが、根を詰めた日々は、聖さんの身体に負担を強いることになったのでしょう。起き上がれなくなるほど聖さんは体調を崩し、奨励会も休会し、入院することになってしまったのです。そして同時に聖さんの心の内には、どうしても打ち消すことのできない、勝負の意義への疑念があったのです。

病院のベッドの上で村山は考えた。
人を助けること、弱い者に自分にできる限りの救済をすること、それはいつからか村山の心の奥底からふつふつと湧き上がってきた思いであった。そのことでトミコと激論を交わした。大人の一見合理的なように思えて、実は弱者をどこかで切り捨てているような考えかたが村山には納得がいかなかった。

しかし、村山はこうも思った。
では自分がやっていることは何なのだろう。
奨励会員と競い合い、勝負で負かして自分は勝ち上がっていくしかない。より具体的にそして直接的に弱者を痛めつけているのは自分ではないのか。

生まれてはじめて、村山の心の中に将棋に対する小さな疑問が生まれた。

勝負としての将棋。それはまるで、若者を淘汰する道具のようではないか。それよりも何よりも自分自身が弱者である奨励会員を淘汰する役割を演じているのではないだろうか。
薄暗い病室で村山は黙々と考えつづけた。

しかし、それは容易に結論の出る問題ではなかった。
村山は少年から青年へと脱皮しようとしていた。成長していくときに、そっと皮を脱ぎ捨てていく動物のように、村山も一人病院のベッドの上で音もなく皮を脱ぎ捨て、そしてそうすることによって自分の中に新しく芽生えてくる疑問と悶々と対峙しているのであった。

とにかく、いまは考えるのをやめよう。村山はそう思った。何も考えずに、谷川を倒すことに全力を傾けよう。それが自分の人生の最大の目的であり、夢なのだから。数々の疑問や矛盾についてはその後に考えればいい。そう結論するしかなかった。

しかし、と村山は病院のベッドの上で思った。答えを出さないのではなく、それはいずれ自分の中で明確にしよう。そのときがきたら、いまあるあらゆる疑問に自分なりのしっかりとした結論を出そう。

引用文献:
大崎善生(2000)『聖の青春』講談社, pp.126-127

なかなか結論の出ないままの聖さんでしたが、昭和61(1986)年11月、聖さんはついにプロ棋士の道へと進まれたのです。
「東に天才羽生がいれば、西には怪童村山がいる」と評されるようになっても、聖さんの心の中には解決しきれない思いを抱えたままでした。自分が勝つことは誰かの負けの上に成り立つことであり、自分が勝てば自分は淘汰する側になっていることに、納得がいかなかったのです。
聖さんはお母様にその思いを吐露しました。

プロになって思うことは、勝負の世界というのは何もない真っ白な世界だということ。将棋盤を目の前にして、よいも悪いもなくただ自分はいつも真っ白になっている。そこは神も入りこめぬ神聖そのものの世界である。

しかし、勝負には決着が着く。僕が勝つということは相手を殺すということだ、目には見えないかもしれないがどこかで確実に殺している。人を殺さなければ生きていけないのがプロの世界である。自分はそのことに時々耐えられなくなる、

人を傷つけながら勝ち抜いていくことにいったい何の意味があるんだろう。

そして、早く将棋をやめたい。名人になって、将棋をやめたいと何度も呟くのだった。


引用文献:前掲書, pp.152-153

やがて18歳になった聖さんは、日本フォスター・プラン協会(現在のプラン・ジャパン)を通して、ストリートチルドレンのために毎月寄付をするようになりました。

弱者を助けたい、特に子供を。その思いは、長い間療養所での生活を余儀なくされてきた村山の願いであり、自分自身が生きていく原動力でもあった。将棋を勝つことによって生まれてくるお金を恵まれない子供たちのために寄付する、そうすることで人を倒し勝ち上がっていく勝負の世界に生きることの苦しみや自分自身に対する矛盾を少しでも緩和できればとの思いもあった。

その寄付はつづいた。それによって村山は自分自身の中に芽生えた、勝負としての将棋への小さな嫌悪感を封じこめようとしていたのかもしれない。

引用文献:前掲書, p.153

勝負に対する葛藤を抱えながら得た対局料を、人道的な意味あるものへと使うことにより、聖さんは心の折り合いをつけようとしたのですね。
対局で相手に勝つことは、また1人新たな弱者を生み出すこと。でもそのお金は、誰か他の、もっと手助けを必要としている弱者を救う手段へと、確かに変わっていくのですから…。

聖さんは幼い頃から病気を経験していたことにより、悔しさや我慢の数は健康なこどもたちよりもきっと多かったはず。でもそこからいろいろなことを学び、考え、心に留めていったのですね。そしてそれは、時間を経て他人に向けるまなざしの優しさへと、昇華されていったのです。

 
あなたのお子さんの辛い経験、それは時を経て、お子さん自身の思慮深さや優しさへと、醸成されると良いですね。        
2016/3/8  長原恵子
 
関連のあるページ(村山 聖さん)
「水滴の音と共に耐え、近づいた夢」
「辛さから思慮深さへの醸成」※本ページ