されどそれがただ恋しきなり |
「此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思へは」
(この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば)
藤原実資『小右記』寛仁2年10月16日条より
この和歌をどこかで耳にしたことがある、という方、いらっしゃると思います。これは長女、次女に続き、四女が天皇の中宮となった喜びを藤原道長が祝宴で詠んだものとして、伝わるものです。
欠けたところのない満月と、充実した自分の人生を重ね合わせて詠まれた歌です。そんな栄華を極めていた道長ですが、生年が伝わる13人のお子さんのうち、道長の晩年3年間の間に、相次いで4人のお子さんを亡くされました。
歴史文学である『栄花物語』には、六女嬉子(きし)の死を嘆き悲しんだ道長の様子がとてもよく記されています。
嬉子は万寿2年(1025)8月3日、敦良親王との間に親王を出産しましたが、
その2日後、薨去したのです。嬉子は7月20日過ぎ、暑い盛りに赤裳瘡/赤斑瘡(あかもがさ:現在の麻疹のこと)にかかり、堪え難い様子であったけれども、月末に治ったばかりの出産でしたから、何か身体に大きな負担がかかっていたのでしょう。
道長の衝撃は大変深いものでした。あまりに嘆き、放心状態であった道長を慰めようと、僧侶が仏の道にそってお話をしたところ、道長は次のように答えたと記されています。 |
「いかがは。さ思ひとりてはべりや。されどそれがただ恋しきなり」とのたまはするままにも、御目より水精を貫きたるやうに続きたる御涙いみじうて、山の座主も泣きたまひぬ。御念仏のをりごとに、殿の御前度ごとに申させたまふに、御涙やがて続きたちたり。
引用文献:
『栄花物語』巻第26「楚王のゆめ」:新編日本古典文学全集32, 小学館, pp.529-530 |
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このような内容のお話です。 |
長原私訳:
「今、教え説いてくださった仏の道の生死の道理を、私は十分頭では理解しているのです。そうは言っても、心の中ではただひたすら、亡くなった娘のことが恋しいのですよ。」と涙ながらに道長は言いました。
道長の目からはらはらと流れ落ちる水晶のような涙を見て、天台座主(天台宗の最高者)の院源も、思わずもらい泣きをしてしまいました。
その後しばらく道長は、娘の念仏を唱えるたび、涙を抑えることができませんでした。 |
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どんなに、頭で理解していても、あふれ出てくる自然の情は抑えられるものではありません。
そうした気持ちの高まりを解放することは、とても大切なことです。
そして、気持ちの行方を見守ってくれた院源がいたからこそ、道長は虚勢をはることなく、気持ちを言葉にすることができたのでしょう。
釈尊の言葉の中には、人間の生死を誰も覆すことができない、と自然の摂理の中で捉え、説かれたものが多くあります。
しかしながら、つながりを深く持っていた人を亡くすことに、寂しさを禁じ得ないのはどなたも同じと思います。
そうした気持ちの表れを、そのまま表現して良いと示した言葉を、親鸞と日蓮に関する書物の中から、ご紹介しようと思います。 |
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今まで、ご自分の気持ちを閉じ込めてきた方、
本当に辛かったことでしょう。でも、いつまでも閉じ込めないでください。あなたのために。そして、お子さんのためにも。 |
2013/5/2 長原恵子 |