お子さんを亡くされた後、ご家族はとても大変な日々を過ごされて
きたと思います。
寂しさ、悲しさ、苦しみ、後悔、くやしさ、
もっと何かしてあげられたんじゃないかという思い、
あれで本当に良かったのだろうかという思い、
一人で先にいかせてしまったという思い、
お子さんの命に起こったことが、自分の責任だという思い、
心の中で湧き上がってくる感情や思いによって
ご自分がつぶれてしまいそうな気持ちになっている方も
いらっしゃるかもしれません。
少し私自身のことをお話したいと思います。
私は卵巣がん治療のために、44歳の時に卵巣と子宮を摘出しました。術前、医師からの説明で理解していたつもりでしたが、術後、言葉にし尽くせない罪悪感にとらわれてしまいました。
女性は将来の生命の元となる卵母細胞を持って、生まれてきます。その卵母細胞がある卵巣をとってしまうということは、すなわち、生命の元をすべて犠牲にする、ということだからです。
私が生まれた時から、ずっと、卵巣の中にいた一つ一つの生命の可能性に
生きるチャンスさえあげられなかったことを思うと、申し訳なさと、亡くした悲しみでいっぱいになりました。
いつの段階から命と考えるのか?
学問として、医学、サイエンスとしての定義はあるのでしょう。
でもそういう枠組みと個人の感情は別物です。
他人からみたら「もう出産を考えるような年じゃないでしょ」と言われそうですが、簡単に割り切れるようなものではありません。
当時、芸能界では自分よりも10歳近く年上の53歳の方が命を育み、無事に出産された、という話が盛んに報道されていました。ちょうど入院前の準備の時期です。他人との比較をするべきではないことは、十分わかっています。しかし、そのニュースを目にするたびに、何とも形容し難い気持ちになりました。
手術が決まってから入院中までは、とにかく早く手術を終えて退院したい一心でした。自分の命と引き換えの卵巣切除、その部分を考えるよりも毎日の流れに乗っていくだけで精一杯だったように思います。そして無事、手術も終わり、退院してから数日後、私は自分が取り返しのつかない、とんでもない選択をしてしまった気がしてきたのです。
私の心の中では、一台の乳母車に入っているたくさんの赤ちゃんが、寂しげな表情をこちらに向け、やがてブラックホールのような暗闇の中心に向かって遠ざかっていく…というイメージが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していました。ベビーカーではなく何人も座れるようなレトロな乳母車、という感じです。暗闇に吸い込まれる赤ちゃんと乳母車のイメージが浮かぶたび、私はたくさんの生命の可能性を犠牲にしてまで、自分の命を成り立たせる必要が、一体どれほどあったのだろうか、と思うようになりました。
その後、随分悩みました。しかし時間が経つと共に「誰かの役に立つようなことをしなくては、一つ一つの生命の可能性が私をこの世で生かしてくれた意味がなくなってしまう。」と思うようになっていったのです。
そこで病気のお子さんとそのご家族、そして先立ったお子さんとそのご家族の力になりたいと思ってこのサイトをはじめました。
お子さんを亡くしたご家族のお気持ちは「悲しい」という同じ言葉を用いて表しても、様々な要因が重なり合い、複雑な意味を持っています。誰一人として同じ感情ではありません。そして、他者が容易に理解できるようなものでもありません。
だからこそ、お一人お一人の気持ちを尊重し、理解する努力をしたいと思っています。そうした心構えを基本にしています。
現在、ご家族にとって、図書館や書店で本を手に取るような気分ではないかもしれません。じっくり本を読む気力もないかもしれません。
しかし、これまで私が大学や大学院で得た学びの中で、ご家族の心に届くのではないか?と思えるような思想や言葉がいくつもありました。
また、子どもを亡くした方がその後、どのように日々を過ごされてきたのか、古今東西の様子を知るきっかけも得ました。
そして、それらを私の頭の中で閉じ込めて、独り占めするのは良くないと思うようになりました。
このサイトではそうした言葉や例を、少しずつお届けしています。
そして、あなたがお子さんのことを考える時に、心の中に冷たい雨が吹き込むのではなく、温かい気持ちが伴えるようになりますように…と思って作っていきます。
どんなに時がたっても、寂しさは消えることはありません。しかしながら、
先立ったお子さんを思う時の気持ちが苦悩にみちたものではなく、
いとおしい気持ちであふれたものでありますように・・・。
それはきっと、亡くなったお子さんをかわいがる、ということにつながるのだと思っています。
宮沢賢治の詩に「雨ニモマケズ」という詩があります。
その途中で、次のように記されています。
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負イ
引用文献:
「雨ニモマケズ手帳」より
宮沢賢治(1984)『雨ニモマケズ』ポプラ社, p.177 |
宮沢賢治は、疲れた母の稲の束を背負おうという気持ちがありました。
そういう気持ちは見習いたいです。
Lana-Peaceの活動を通して、あなたの様々な気持ちの束を「背負っていける重さ」に変えられるお手伝いをしていきたいと思っています。
Lana-Peace(ラナ ピース)代表 長原恵子 |