親鸞が生きていた当時、人が亡くなる時には、愛情深くつながっていた家族をそばに近づけず、引き離す習慣があったようです。その背景には、これからまさに亡くなっていく方が、後ろ髪ひかれる思いでこの世を旅立つと、悪道に落ちるという考えが当時広まっていたからです。そのために浄土への往生を望む者はこの世への執着を断ち切り、ひたすら念仏するようにという教えがありました。ですから、周りの者が嘆き悲しむということは、亡くなろうとする者のこの世への思いや執着を強く引き止めることになり、かえって本人のために良くないことだと考えられたのでしょう。
親鸞はそうした考え方とは、一線を画していました。そもそも人間というものは皆、たくさんの欲望や思いを抱えて生きているものだという立場をとっていたのです。そのような愚かな存在であったとしても、阿弥陀様の深大な慈悲によって、人々は浄土へと救われるのだという考えを持っていました。したがって苦行を重ねたり、厳しく心を律することができた者だけが浄土へと救われるのではなく、阿弥陀様に帰依することを心に決め、誓った者ならば、何かのやり方にそって行動をとらなくても、阿弥陀様の慈悲のお力によって救われ、浄土へ往きて生まれることが身に定まると考えていました。
つまり周りの者が亡くなろうとする者にすがりつき、泣いたとしても、それは浄土へ往生することの支障にはならないのですよ、なぜなら阿弥陀様の慈悲のお力が護り、導いてくださるのですから、という考えから上記のような言葉が伝え遺されているのです。
親鸞の言葉は、嘆き悲しむことをいさめようとする者へ向けられた戒めでした。でも親鸞の向けられた眼差しの先にあるものは、互いに揺れ動く心を持つ人間(亡くなる本人と遺される者)であることがわかります。
大きなダメージを受けた人の心を包み込むような思想は、信仰の有無の垣根を越えて、心の中にやさしさがもたらされるような気がいたします。 |