悲しみはお子さんの形見、そして生きた証 |
先日、小さなお子さんを亡くされた親よりも、何十年も連れ添った妻を亡くされた男性の方が、悲しみがうんと深いはずだといった意見があった話を耳にしました。
悲しみの深さは、人の一生の長短に比例するような、短絡的なものではありません。また悲しみは単純なものではなくて、随分いろいろな要素が複雑に絡まりあってできあがった思いなのです。
「この世で関わった時間が短いから、それほど悲しくない」などと切り捨ててしまうのは、論外です。お子さんを亡くしたご両親が、どうか、そのような言葉で傷つけられませんように…と心の中で祈りながら、その話を聞いていました。
その時、思い出した和歌がありました。
『土佐日記』に出てくるものです。『土佐日記』とは紀貫之(きのつらゆき)によって、10世紀の前半に綴られた日記文学として知られています。地方の行政を司る国司の役目を終えた方が、土佐国(現在の高知県)から京(現在の京都市)に戻る際、その旅路の出来事が記されたものです。
私が思い出した和歌とは、国司と共に旅をした一行の中にいた方が詠んだものでした。 |
世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな
校注・訳 菊地靖彦(1995)「土佐日記」
『新編日本古典文学全集13 土佐日記/蜻蛉日記』小学館, p.28 |
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このような内容です。 |
長原私訳:
世の中のことをいろいろと考えてみても、子どものことを恋しく思う親の心を上回るほど、強い思いはないことでしょう。 |
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1000年以上昔の世の中であっても、やはり子どもを亡くされたご両親の辛さは今と変わりはなく、深いものだったのだと思います。
たとえ10歳でこの世を去ったお子さんであっても、あるいは生まれる前に、母親のお腹の中で亡くなったお子さんであったとしても。
さて国司の一行は2月の初めに大阪のある港に立ち寄りました。そこは美しい貝や石が多いところとして知られていた場所でした。一行の中のある人は、海に向かって「思い人を忘れることのできる忘れ貝を、打ち寄せてほしい」と詠んだのだそうです。
それを聞いた一行の別の人は、次のように和歌を詠みました。
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忘れ貝拾ひしもせじ白玉を恋ふるをだにもかたみと思はむ
校注・訳 菊地靖彦(1995)「土佐日記」
『新編日本古典文学全集13 土佐日記/蜻蛉日記』小学館, p.44 |
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このような内容です。 |
長原私訳:
恋しく思う人を忘れることができるような忘れ貝を、私は拾いたいとは思いません。
真珠のように尊く大切な子どもに先立たれた後、忘れることなく、恋しく思い続けることは本当に辛いことです。
でもそれは私にとって、あの子が確かに遺してくれた、形見のようなものなのです。
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悲しい気持ちは、そのお子さんが生きていた証だということなのですね。
その後、大阪市住吉区のあたりを船が進んでいた時、土佐でお嬢さんを亡くされていた女性が、次の和歌を詠んだのだそうです。 |
住江に船さし寄せよ忘草しるしありやと摘みて行くべく
校注・訳 菊地靖彦(1995)「土佐日記」
『新編日本古典文学全集13 土佐日記/蜻蛉日記』小学館, p.46
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このような内容です。 |
長原私訳:
住江に船をどうか寄せてください。忘れ草によって本当に悲しい思い出を忘れることができるのであれば、摘みに行きたいのです。
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一見、この歌からは「悲しさから逃避したい」という気持ちが見えるかもしれません。
でも、『土佐日記』筆者の紀貫之は、この和歌の後に、大変、粋な解釈を添えています。
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うつたへに忘れなむとにはあらで、恋しき心地、しばしやすめて、またも恋ふる力にせむ、となるべし。
校注・訳 菊地靖彦(1995)「土佐日記」
『新編日本古典文学全集13 土佐日記/蜻蛉日記』小学館, p.46 |
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このような内容です。 |
長原私訳:
この和歌を詠んだ気持ちは、ただ「子どもを忘れたい」というものではありません。
子どもへの恋慕の情が募る心をしばらくの間休ませて、また恋しく思う力を養おうという思いから起こっているものなのです。
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亡くなったお子さんのことを「忘れたい」と口にしたならば、何も知らない人からは「現実逃避しようとしている」と、あなたは非難されるかもしれません。
でもお子さんを亡くした衝撃があまりにも強く、それを背負い続けることがあなたに極めて重大なダメージをもたらす場合には、いったんその問題から心を遠ざけるのは、決して逃げではないのです。
紀貫之が示しているように、一休みすることは、あなたがお子さんを深く愛しく思い続けるための、道の途中に過ぎないのですから。 |
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お子さんを亡くされた悲しみが、あなたの生活を脅かすほどであれば、どうか心を一休みをさせてあげてください。
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