身体の境界を認識する働きは、脳の「方向定位連合野」という場所で司られています。テイラー先生は脳出血によってそこが機能しなくなったわけですが、健康な方も健全な方法で、そうした状態に至ることができるそうです。それは病的に機能しなくなる、というわけではなく、一時的にその働きをある程度抑制する、という表現に近いと思いますが…。
アメリカのアンドリュー・ニューバーグ先生らの研究によると、左脳の言語中枢の活動が減少し、次第に左脳の頭のてっぺんの後ろ寄りにある方向定位連合野の活動も減少すると、大いなるものとの一体感を得られるのだとか。それらはニューバーグ先生の本(※)に詳しいので、後ほど取り上げようと思いますが、その部位の血流が低下することによってそうした感覚が得られるのだそうです。そしてそのような生理的な変化のきっかけは、何と祈りや瞑想によってもたらされるもの。
心を掻き乱す心配事をひとまずどこかにおいて、心の動きを一休みさせること、或いは心を預けて祈ることにより、左脳の言語中枢や方向定位連合野への血流低下が起こり、周りと一体化したような深い安心感が引き起こされるのでしょう。
※アンドリュー・ニューバーグ他著,茂木健一郎監訳, 木村俊雄訳(2003)『脳はいかにして<神>を見るか』PHP研究所
もちろん、車の運転中など、周囲の状況をしっかり把握すべき時にお勧めできる方法ではありません。しかしながら、自分がひどく孤独を感じる時、おうちのお部屋の中で静かに座ったり、横になっている時には、試してみる価値があると思います。
様々な心配事は心の隅に追いやって、ただひたすらこうあってほしいと願うことを心の真ん中で思い描き、祈るだけ。
祈りや瞑想をしたからといって何が変わるのか、という声もあるでしょう。確かにあなたが孤独を感じる根本の問題(お子さんの死という事実)を解決してくれるわけではありません。でも、純粋に何か一心不乱に祈る時には、他の感覚を感じるような心の余裕はでてきません。それだけに集中する時間を持つことができます。
そして、別の見方をすれば祈りの間だけは、孤独や怒りや憤りといった感情を心の真ん中に持ってくることができないのです。
そういう状態を心に覚えさせていくことは、必要なことでしょう。なぜなら休みなく働き続けた心は、本来の心地良さの状態を忘れてしまっているのですから…。
孤独の闇への落下は加速度を増して、あなたを追い詰めることになってしまいますが、祈りや瞑想の行為は、孤独の渦の深みにはまっていこうとするあなたの手をつかみ、あなたがそれ以上落ちていかないように引き留める時間を与えてくれることになるのだと思います。
それは、あなたの心に静かな滋養をもたらします。
もうさんざん傷つき、苦しみ、孤独だったのですから、あなたはそれを時間をかけて癒す必要があるのです。
いろいろな思いに惑わされる心はひとまず預けてください。
ただひたすら、あなたがお子さんに向ける祈りは、きっとお子さんに届きます。そしてあなたの心を大いなるものへとつなげます。それを人は神、仏、天使そんな風に表現するかもしれませんが、きっと人次第。
あなたをがんじがらめにしていた孤独から解き放たれ、何かに見守られているような、つながっているような感覚を得ることによって、段々と心のギアを切り替えるチャンスがやってきます。 |