お子さんを亡くしたご両親が、しっかりと生きていけるよう拠り所にできる思想が、仏教にないものだろうかと2011年、大学院の修士課程で思案していたときのことです。研究を指導してくださった石上和敬先生が、その大学院の学祖の高楠順次郎先生がお子さんを亡くされたことについて教えてくださいました。それがきっかけで、原典となる手記に出会うことができたのです。今日はその高楠先生の手記を、取り上げたいと思います。
明治40(1907)年8月、高楠家に4番目のお子さんとして、男の子が誕生しました。次男であるけれども、母方のおじい様はその男の子に「八十男(やそお)君)」と命名されました。長男は生後まもなく亡くなってしまっていたので、次男は八十歳くらいまで長生きしてほしいという願いがこめられていたのでしょう。
八十男君は愛らしいお子さんで、家族だけでなく周囲からも大変かわいがられて育っていました。翌年2月1日、風邪をひいたようで喉が苦しい様子だったので近くのお医者さに診てもらったところ、ジフテリア疑いということで、大学病院に入院することになりました。気管切開も行いましたが11日の夕方亡くなられました。わずか10日ほどの間に病魔によって八十男君を奪われてしまった衝撃は、計り知れないものだと思います。
今は日本で生まれたお子さんが接種できる4種混合ワクチンの中に、ジフテリアが含まれています。当時はそのような予防接種の制度はありません。(ジフテリアの予防接種がはじまったのは八十男君が亡くなってから40年ほど経ってからのことです。)ジフテリアはとても息が苦しくなるので、そばで見ていたご両親は随分心を痛めたことでしょう。
2月13日、高楠先生は八十男君のお骨とともに自宅に戻られてから、ご夫婦一緒に読経を行ったのだそうです。そのときの気持ちを「読経が愛児の為に寸分の冥助になりはせぬ。されど何故か平生と違つて、読経が唯一の慰安となる。」と記されています。
高楠先生は浄土真宗でしたから、お経を唱えたり、何か儀式をしなければ、亡くなった方が良いところに往けないと考える宗教とは異なります。
「阿弥陀仏に帰依すると心に決めたときから、浄土へ往生することが身に定まる。それは阿弥陀仏の力による」という考えに基づきます。
ですから高楠先生にとってお経を唱えることは「この世界を去った息子の八十男はすでに浄土へ往き、そこで生まれ、心安らかに楽しく過ごしている。それは阿弥陀様のおかげなのだから、阿弥陀様に感謝したい」という意味があるのだろうと思います。ですからお経を唱えるたびに、何度も安心を得ることを繰り返していたのだろうと思います。
母方のおじい様は八十男君が亡くなった知らせを受けて、性空上人の歌を送られてきたそうです。
「假りにきてかりに仇なる身を知れと教へて還る子は智識なり」
その和歌を送られた意味として高楠先生は「無常迅速の世相」と捉えました。それは「人生はあっという間に過ぎるものであること、そして永遠に姿を変えずに続くものはないのだということを、息子が身をもって教えてくれた」ということだと思います。
「智識」とは仏教の言葉「善智識」を指すと思いますが、「善智識」とは仏法、真理を教え導くものや人を表現する言葉として使われます。
短い命をもって両親に命のことを考えさせるきっかけを与えた八十男君はまさに「善智識」だったと言えるでしょう。
さて高楠先生は、八十男君の死によって得られた教訓をずっと長く高楠家の中にとどめて、その教えに導かれて生きていきたいと思っていました。教えが家の中で生き続けるということは、高楠先生にとって八十男君がずっと生き続けることと同じ意味だったからです。それを次のように表現されました。 |