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お子さんを亡くした古今東西の人々 |
夢で会えた我が子 |
お子さんを亡くされた後「夢でいいから、一目会いたい…」そのような気持ちにかられるご両親は、とても多いことと思います。
夢の中でお子さんを抱きしめたり、ミルクを飲ませたり、あたたかい食事を作って食べさせたり、お散歩したり、一緒に遊んだり、話したり…そんなふうにもう一度、かつての日常を取り戻すチャンスがあったら、どれほど嬉しいことでしょう。
今日ご紹介したい俳人、小西来山(こにし らいざん)は17世紀後半から18世紀初頭にかけて活躍された方ですが、この「夢」について句に残されています。
来山は五十を過ぎて家庭を築かれたと伝わっていますが、残念なことに3年ほどしか続かず、宝永4(1707)年8月、お子さんと奥様を亡くされました。その理由はわかりませんが、家族の中で一人だけ、ぽつんと取り残されてしまった来山は、とてもショックだったと思います。
その後、来山は別の女性とご縁があって、後妻として迎えられました。
そして正徳元(1711)年、男の子が誕生しました。
「直松くん」と名付けられましたが、来山は「どうか無事に大きくなりますように…」と、心の底から願っていたことでしょう。
しかしながら正徳2(1712)年1月、直松くんは亡くなってしまいました。 |
※参考年表:来山を読む会編(2005)『来山百句 上方文庫 30』和泉書院, pp.196-197 |
浄しゆん童子、早春世をさりしに
春の夢気の違はぬがうらめしい
引用文献:
勝峰晋風編(1995)『日本俳書大系 6 元禄名家句選』
日本図書センター,『続いま宮草』より, p.148 |
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このような意味だと思います。 |
長原私訳:
息子の直松に会った。目を覚ますと、そこに息子はいなくて、「あぁ夢だったのか…」とがっかりした。いっそのこと今、自分が正気を失っていれば、こんなに辛く悲しい思いは起こらないだろうに。正気を保ったままの自分のことが、今は何だか恨めしい。 |
来山の消沈した姿が、その句に表れていますね。
さて来山にとって「夢」とは、単に会うための場ではなかったようです。
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過し頃、三千風が行脚をうら山しくはなむけして、身のほどをいふとて、
幾秋かなぐさめかねつ母ひとり
母に別れて後、大醉に及ばぬ時は、一日も夢に見ぬ事なし。機嫌よき時は其朝こゝろよし。さもなきときは其朝こゝろよからずして、せめてこよひのゆめはと、まちかぬるぞかし。
引用文献:
勝峰晋風編(1995)『日本俳書大系 6 元禄名家句選』
日本図書センター,『続いま宮草』より, p.147 |
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これはこのような意味だと思います。 |
長原私訳:
過ぎた話ではあるが、行脚に向かう俳人 大淀三千風が訪れた。一緒に行こうと誘われ、羨ましいと思ったものの、そうもいかないと思い直し、三千風への旅のはなむけとして、自分の事情を表す次の句を詠んだ。
幾秋かなぐさめかねつ母ひとり
(私は母にもう何年も親孝行をしていなかったのです。そんな母を一人残して行脚に出向くことはできません。)
母に先立たれた後、酒に深く酔っていなかった日はいつでも、私の夢に母が出てきた。母の機嫌の良い時、目覚めた朝は私も気分が良く、母の機嫌が悪かった時は、私の気分も落ち込んだ。だから、せめて今晩こそは、機嫌の良い母の夢を見たいものだ…と、待ちきれない心地なのですよ。
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来山は8歳の時に父を亡くしてから、母親が一人身で育ててくれたことを恩に感じていたのでした。生前、十分親孝行ができなかったから、せめて夢の中では親孝行をして、母親の喜ぶ姿が見たいという思いがあったのだと思います。
来山にとって夢とは眠っている間の、かりそめの出来事なのではなく、亡くなった人とのコミュニケーションの場であったのでしょう。
そうした背景を考えると
直松くんが夢に出てきたことを詠んだ来山の句は、もっともっと子どもをかわいがってあげたかったという、父心に溢れた句だと言えると思います。 |
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夢の中で会えても、会えなくても、先立ったお子さんは今、平安なところにいながら、あなたのことをしっかりと、見守っているはず。 |
2013/12/15 長原恵子 |
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