「憾」を超える思い |
今回は明治、大正、昭和に活躍した社会主義者、社会大衆党党首であり、またキリスト教徒でもあった安部磯雄(あべ いそお)氏のお話について取り上げたいと思います。
安部氏には富士子さんというお嬢さんがいらっしゃいました。人の悪口を言ってはいけないという親の教えをしっかりと守る、優しい聡明なお子さんでした。
明治39(1906)年2月、富士子さんは顔色が悪く、学校から帰宅しました。
ただならぬ様子であったことを心配した父安部氏は、医師の診察を受けさせましたが、富士子さんが胃を悪くした時に伴ういつもの頭痛だろうと診断され、特に治療が行われることはありませんでした。
しかしながら日にちが経っても具合が良くならないため、心配になった安部氏は別の医師の診察を受けさせました。
そして3月1日、結核性脳膜炎だと診断されたのです。
当時は治療法がないため、あと一週間ほどでしょうという厳しい宣告をされました。
近所に聞こえる程、娘が叫び、布団を蹴るほど激しい頭痛。
看病するご両親は、胸が締め付けられる思いだったことでしょう。
その時の気持ちを次のように記されています。 |
到底彼を死より救ふこと能はずば、速に彼を苦痛の中より救ひ出したいといふことであった。故に我等は彼が速に昏睡の状態に陥ることを願うて居た。
引用文献:
安部磯雄(1937)「亡児の記念」
村田勤・鈴木龍司編, 『子を喪へる親の心』岩波書店, p.106
(※WEBの表示上、本稿に出てくる旧漢字は当方が改めています) |
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娘を痛みから解放してあげたいという一心で、娘が昏睡状態になることを願ったご両親ですが、いざそうなってしまうとと大きく心は揺れました。 |
我等の胸を裂く様な悲痛の叫声はなくなつたが、其代りに父や母の声も最早彼を呼び起すことは出来なくなつた。彼の苦痛を見ては速に昏睡の時期の来らんことを希うて居た我等も、実際死者に等しき彼を見ては、今一度苦痛の状態に呼び戻したい気がした。
引用文献:前掲書, pp.107-108 |
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そして3月10日、富士子さんを亡くなりました。満9歳と5カ月でした。 |
彼が生れて死するに至るまで、我等は殆ど生命の半分以上を彼の為に捧げたるが如き心を以て、其の養育に任じて居たが、今は突然其の掌中の珠を失うた。
然し過去九年有余の事を想へば、何も憾みる程の事はない。
彼は長女として生れ来た時、先づ我が家庭に大なる光明を与へた。爾来我等両親を慰めたことは果たして幾何であつたらうか。
彼の死は我等をして一層霊魂不滅の妙味を解せしめ、我等と同一の経験を有する人に対して同情の念を深からしむるのである。
我等は謹んで我等の愛児を召し給へる天父の摂理に服従するの外はない。
引用文献:前掲書, p.111 |
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安部氏は「憾みる程の事はない」と記しています。
『改訂新版 漢字源(CD-R版)』(学習研究社)によると、憾という字は「心+(音符)感」で、残念な感じが強いショックとして心に残ること。」なのだそうです。つまり、ご両親が大切に育て、とても大事な存在であった富士子さんの生涯は決して長いものではなかったけれども、残念でショックだという思いに勝るほど、富士子さんの誕生によって多くのものを得られたのだ…という気持ちだったのですね。
「天父の摂理に服従するの外はない。」というのは、諦めや落胆を意味するものではなくて、安部御夫妻のもとに、神の計らいで長女として生まれてきた富士子さんとの出会いと、共に生きた生涯の月日に感謝したいという意味だろうと思うのです。
娘の短い生涯を嘆き、慟哭するよりも、その心のエネルギーを娘との出会いに感謝する気持ちへと振り向けられていくこと、それは神への信仰によって、突き動かされたのものだろうと思います。
神の計らいによって短い命として召された娘は、神の計らいによって、きっと今、安寧に過ごしていることだろう。そのような確信を持てたのかもしれませんね。 |
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信仰というものは、苦しい感情でぐるぐるしている時に、別の視点、ある種の気付きを与えてくれるのかもしれません。 |
2014/5/7 長原恵子 |