病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
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底知れぬ謎

今日は『一握の砂』で広く知られている明治時代の文学者 石川啄木氏について取り上げたいと思います。
明治43年(1910)、石川夫妻に長男眞一君が誕生しました。啄木の日記によると、眞一君は生まれてから身体が弱かったそうで、生まれて24日目、10月27日、眞一君は亡くなってしまいました。

当時、石川夫妻も経済的に随分苦労をしていたようです。それは眞一君が生まれた日の啄木の行動にも表れています。歌集「仕事の後」を東雲堂に持ち込んだのです。午前2時に生まれた我が子と対面し、父としての責任感から、何とかお金を工面したい一心だったのでしょう。いてもたってもいられず、その日のうちに東雲堂に持ち込んだのだろうと思います。

原稿は
20円で買い取られる事になりましたが、啄木は更なる推敲を重ね、そして、すべての歌を三行書きに書き改める作業に取り掛かりました。
折しも、ちょうどその時期は、虚弱だった息子のことが気がかりだった時期でもありました。ものすごいスピードで作品の推敲が行われたのは、身体の弱い長男を目前に、少しでも良い生活をさせたいという親心からだったと思います。

そしてようやく東雲堂から見本組みが届いたのは10月29日、長男眞一君の葬儀が行われ、荼毘に附された夜のことでした。
生まれた日に東雲堂に持ち込み、荼毘に附された夜に東雲堂から見本組が届くという事実。眞一君は短い人生だったけれど、名著を世に生み出すきっかけを父親啄木に与えたという大きな役割を果たしたと言えるでしょう。完成形であった見本組に啄木は挽歌8首を加えました。これはまさに、この歌集が眞一君に捧げるものだったからだと思います。
このようないきさつを経た歌集は、同年12月上旬『一握の砂』として刊行されました。

これらの情報は次の文献を参考にしています:
1 石川啄木(2008)『一握の砂』朝日新聞出版, pp.315-316
2 『新潮日本文学アルバム6 石川啄木』(1984)新潮社,
    明治四十四年当用日記補遺(現物写真あり)
※1と2で差異のある個所は現物写真からの情報を優先しています。

啄木の歌は、飾らないシンプルな言葉で、事実が記されています。その表現は、まるで映画の一場面が切り取られて、今ここに表されているかのような印象をもたらします。
これは眞一君が生まれた時の歌です。

十月の朝の空気に
あたらしく
息吸ひそめし赤坊(あかんぼ)のあり

十月の産病院の
しめりたる
長き廊下のゆきかへりかな

引用文献:
石川啄木(2008)『一握の砂』朝日新聞出版, p.279
「手套を脱ぐ時」より

嬉しいとか、喜びとか、そういった言葉が一言も綴られていませんが、妻の出産を緊張しながら、新しい命の誕生を心待ちにしていた啄木の気持ちが伝わってくるものですね。

そして、眞一君に手向けられた挽歌がこちらです。

夜おそく
つとめ先よりかへり来て
今死にしてふ児を抱けるかな

二三こゑ
いまはのきはに微かにも泣きしといふに
なみだ誘はる

真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし児のあり

おそ秋の空気を
三尺四方ばかり
吸ひてわが児の死にゆきしかな

死にし児の
胸に注射の針を刺す
医者の手もとにあつまる心

底知れぬ謎の対(むか)ひてあるごとし
死児のひたひに
またも手をやる

かなしみの強くいたらぬ
さびしさよ
わが児のからだ冷えてゆけども

かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり

引用文献:前掲書, pp.286-290

眞一君が亡くなった時、啄木は朝日新聞の校正係の仕事を終えて、戻る途中でした。27日、夜中の12時を数分過ぎた頃に、啄木がようやく帰ってこれたのです。
自分の戻る前に、少し泣き声をあげ、息を引き取った息子。
蘇生処置(おそらく当時、エピネフリンの心腔内注射が行なわれたのでしょう)をする医師の手元を食い入るように見つめた視線。
段々冷えていく眞一君の温もり。
淡々と列記された言葉には、息子の死が信じられない気持ちが、行間から絞り出されてくるような気がいたします。

生まれた時も、亡くなった時も、感情ではなく事実が多く言葉にされていること…それはもしかしたら、周囲の人からの誤解を招いていたかも。
奥様の節子さんと交わされた会話の中で、こうした事実ばかりが話されるならば「あなたは、息子が亡くなって、悲しくないの? どうして、あなたは、そんなに冷静でいられるの?」と心の中で溝が生まれていたかもしれません。

でも啄木は眞一君が生きていた証を遺したくて、あえて事実を言葉にしていたのではないでしょうか。
小さいながらも、弱々しいながらも、息子は確かにこの世に生まれて、自分と同じ空間の空気を吸っていた。自分の帰りをずっと、待ってくれていたのかもしれない。だから到着する直前に泣いて、息がこと切れたのかもしれない。
そうした健気な息子の生きた証をしっかりとこの世に遺すためには、自分の感情を綴るのではなくて、自分の息子がどんなに頑張ったのかを表す歌にしなければ…そんな風に思っていたのかもしれません。
息子の死が信じられない啄木にとって、死は「底知れぬ謎」だったのですから…。

お子さんを亡くされたご両親にとって、心の表現の仕方が異なると、お互いを誤解してしまうことがあります。その小さなつまづきは、お子さんを亡くしたというとてもショックな出来事と共に記憶されてしまうため、後で尾を引いて、気持ちのすれ違いが広がっていくこともあります。
でもどうか、誤解をしないでください。
あなたも、あなたのパートナーも辛いのですから。その表現が違うだけ。

 
感情を言葉に表さないからといって、何も感じていないわけではありません。そこには、それぞれの理由があるはずです。      
2014/5/22  長原恵子