病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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大学としてその名が生き続ける息子

一人息子の名を掲げた大学の創設、そう聞くと、一体どれほどスケールの大きい富豪の事業だろうかと思うことでしょう。しかしそこには、病気のため、15歳で夭逝した一人息子の名を、この世に永く留めておきたい、という親の切なる願いが込められていたのです。今日はアメリカのカリフォルニア州にあるスタンフォード大学にまつわるお話を、ご紹介したいと思います。

リーランド・スタンフォード氏(Amasa Leland Stanford 1824/3/9-1893/6/21)は、19世紀のアメリカで大陸鉄道に関わる事業家として、また州や国の政治家としても活躍した方でした。
ニューヨークで法律を学んだリーランドは、ウィスコンシン州で弁護士として働いていました。しかし事務所が火事にあったことをきっかけに、事務所を閉め、1852年、カリフォルニアに渡って、ビジネスの世界へ転身されました。雑貨商から始めた事業は発展し、やがて仲間と共に鉄道会社を立ち上げ、更に合併吸収を進めて、広大なアメリカ大陸を渡る鉄道事業を手掛けるようになりました。また、政治家としての側面も持ち、第8代カリフォルニア州知事(1862-63年)、共和党上院議員(1891-93年)として政治活動にも携わっていました。

リーランドは26歳の時、ジェーン・ラスロップ氏(Jane Elizabeth Lathrop Stanford 1828/8/25-1905/2/28)と結婚しました。彼が新天地としてカリフォルニアを選んだ時、妻ジェーンは父の介護があったため、二人は3年ほど離れて暮らし時期もありましたが、カリフォルニアで共に暮らすようになってからも、しばらくスタンフォード夫妻の間にはこどもが授からず、2人の生活が長く続きました。

そして結婚18年、1868年5月14日、ついにスタンフォード夫妻に大きな転機が訪れたのです。リーランド(44歳)とジェーン(39歳)の間に男の子が誕生したのです。夫妻の喜びはひとしおでした。ひざまずき、神に感謝の祈りを捧げるリーランドの姿を、ジェーンは初めて目にしました。男の子はLeland DeWitt Stanford(後にLeland Stanford Jr.と改名)と名付けらました。

両親の愛情を一身に受け、リーランド・ジュニアには、幼少時から様々な教育の機会が与えられました。幼稚園の頃には家庭教師がつき、音楽やダンスが教えられ、フランス語の特訓も行われたそうです。リーランド・ジュニアが6歳になると、一家はサンフランシスコ湾が見下ろせる大豪邸に引っ越しましたが、自然豊かな土地での時間を、幼少時の自分と同じように息子に経験させたいという父の思いから、5万5千エーカー(約6,700万坪)の牧場も手に入れました。

やがて一家は、ヨーロッパ旅行に出かけるようになりました。ヨーロッパの古い歴史的な都市等を訪れ、リーランド・ジュニアの見聞の幅を広げるためです。ルーブル美術館のエジプト学者からヒエログリフの初歩を習ったり、トロイ遺跡の発掘者ハインリヒ・シューリマンを紹介されたり…といった何ともゴージャスな機会は、歴史好きのリーランド・ジュニアにとって、たまらなく嬉しい経験だったことでしょう。彼は旅先で出会う美術品やアンティークの品々に強く興味を示し、熱心に収集するようになりました。あまりの品数の多さから、両親は息子のコレクションを収めたプライベート博物館をサンフランシスコに作ろうと計画したほどでした。

訪問先のフランスのボルドーでは、父リーランドはワイン作りにすっかり魅了されましたが、当時13歳のリーランド・ジュニアも賛同していたそうです。サンフランシスコのヒールド大学会計コースに、リーランド・ジュニアを登録した、という話も残っていますから、父は自分の片腕となって共に働く息子の姿を、夢見ていたことと思います。

リーランド・ジュニアはとても元気に、そしてずば抜けて優秀な少年へと育ちました。12歳の時、滞在先のフランス ニースのホテルでは、コーネル大学のアンドリュー・ホワイト学長に会う機会もありました。後にホワイト学長はリーランド・ジュニアについて、凛々しくしっかりした少年であり、もうすっかり思慮深さが身についていた、と称賛の言葉を夫妻宛の手紙にしたためていました。息子の成長をとても頼もしく、楽しみにしていた夫妻の様子が目に浮かぶようです。

1880年から始まったヨーロッパ家族旅行でしたが、1883年の旅行は悲しい顛末を迎えることとなりました。1883年5月、スタンフォード一家は渡欧し、夏から秋にかけてイギリス、フランス、ドイツで過ごしたあと、イタリアを経て、クリスマスはウィーンで過ごしました。そしてコンスタンチノープルに渡ったのです。トルコのボスポラス海峡でリーランド・ジュニアは、小さな蒸気船の舵取りも体験させてもらえました。
彼はとても喜び、興奮して一日中舵輪を握っていましたが、あいにくその日は強く風が吹きつけていました。体力を相当消耗したのでしょう。その日の夕方遅く、リーランド・ジュニアの顔色は青ざめてしまいました。それからも寒い日は続き、翌年1月、家族がアテネに到着した頃には、膝のあたりまで雪が積もっていました。

2月中旬にナポリに向かい、そこで2週間過ごしましたが、家族皆、体調は優れませんでした。中でも父は、医師から微熱を指摘された息子が気がかりで、もっと気候の良い、空気の清々しいところを求め、フィレンツェへと向かったのです。同月20日、フィレンツェに到着しましたが、リーランド・ジュニアの熱はずっとくすぶったままでした。
スタンフォード夫妻はローマにいる医師に電報を打ち、滞在先のホテルに息子の往診に来てくれるよう頼みました。そして診察の結果、典型的なチフス熱と診断され、これから回復期を経て、全快するだろうと伝えられたのです。母ジェーンは2月下旬に出した親友宛の手紙の中で、今がピークで、4週間室内で安静を保っていれば、治るだろうと医師が話したことを綴っていました。

しかしリーランド・ジュニアには、一向に回復の兆しがみられませんでした。体温は華氏105度(40.6℃)のあたりで、のこぎりの歯のようにギザギザした熱型を示していたと言われています。一日の中で体温の差が1℃以下で高熱を保ち続けているものは、稽留熱と呼ばれ、チフスに現われる典型的な熱型です。長期間続く熱に、ぐったりと横たわる息子。両親は延びて伸びていく体温計の水銀糸を、はらはらしながら見守っていたことでしょう。

両親は片時も離れず、看病しました。チフスに効く抗菌薬もまだ見つかっていなかった当時、できることと言えば、本人の苦痛を和らげながら、回復を待つしかありません。解熱させようと、リーランド・ジュニアの身体には氷で冷やしたシーツが巻きつけられました。世話をする人々も手配され、滞在先のホテルの支配人は、ホテル前の道路に藁を敷き詰めました。ヨーロッパによく見られる石畳の道は、固い靴底の人や馬車の行き交う音が、随分騒々しかったのかも知れません。そうした両親や周囲の願いもむなしく、リーランド・ジュニアは1884年3月13日の朝、息を引き取りました。まだ15歳でした。

リーランド・ジュニアの遺体はパリのアメリカン・チャーチの霊安室に運ばれました。そこでスタンフォード夫妻はジョージ・トーマス・クラーク牧師に出会ったのです。愛息の死で大きな打撃を受け、悲しみに打ちひしがれた夫妻は、毎日のように霊安室を訪れ、クラーク牧師と共に礼拝をしながら、信仰の希望を語り合いました。

そして 亡くなって数週間後、父リーランドの身に不思議なことが起こりました。あまりに憔悴し、息子の遺体の横の部屋のカウチで横になっていた時のことです。うつらうつらしていた父は「もう生きる理由がない」とつぶやいた時、息子の声が聞こえてきました。

"Papa, do not say that. You have a great deal to live for; live for humanity."


引用文献:(A)
George Thomas Clark(1931)"Leland Stanford, War Governor of California: Railroad Builder and Founder of Stanford University", Stanford University Press, p.382


長原意訳:
「パパ、そんなこと言わないで。
パパには生きる大きな理由があるよ。自分の人生を生きて。」

息子の魂が本当に声を表したのか、それとも父の夢想であるのか…それはどちらであったとしても、父へかけられた息子の言葉は、父を奮起させるきっかけとなりました。そして、もはや我が子に何かしてあげることはできないけれども、愛する息子を記念する方法はないかと考えるようになったのです。
ある時、父リーランドはクラーク牧師にこう尋ねました。

“This bereavement has so entirely changed my thoughts and plans of life that I do not see the way before me. I have been successful in the accumulation of property, and all of my thoughts of the future were associated with my dear son. I was living for him and his future. This is what brought us abroad for his education.

Now, I was thinking in the night, since Leland is gone what my wealth could do. I was thinking since I could do no more for my boy I might do something for other people’s boys in Leland’s name. When I was connected with the building of the railroad, I found that many of those engaged in the engineering were inefficient and inexact and poorly prepared for their work. I was thinking I might start a school or institution for civil and mechanical engineers on my grounds in Palo Alto. I have a beautiful situation there. What would you think of that?”


引用文献:前掲書(A), p.384

長原意訳:
「息子が亡くなったことにより、人生に対する計画や考えは、私がこれまで考えたこともなかった風に、根本的に変わりました。
財を成し、成功した私の人生において、将来の計画すべてが、愛する息子に関係したものでした。私は文字通り、彼と彼の将来のために生きていたのです。だから彼の教育のために、海外にも連れてきました。

でも息子が亡くなった今、夜になると私は、自分の築いてきた財産で、何ができるだろうかと、考えるようになりました。
もう息子のために私がしてあげられることは、ありません。
でも、息子の名において、よその家庭の息子のために、何かできることがあるかもしれません。
私は鉄道建設の仕事に関わっていた頃、仕事準備があまりにも疎かで、不十分、不正確といった場面を、数多く見てきました。そこで私はひらめいたのです。
私の拠点地パロアルトで、人々に役立つ機械工学の学校や施設を立ち上げるのはどうかと。場所としてとても良いところなのですが、あなたはどう思いますか?」

父リーランドの問いかけに、クラーク牧師は、最初からそのように細かく決めて始めるよりは、もっと幅広い視野で人々の人生、仕事に関わる教育施設をつくるのはどうか、とアドバイスをしました。そしてアメリカに帰国したらぜひ、コーネル大学設立者でもあり、クラーク牧師の友人でもあるアンドリュー・ホワイト学長に会うよう勧めたのです。

クラーク牧師のアドバイスは、夫妻の心にしっかりと受け止められたようです。それから一週間ほど経って、クラーク牧師に連絡がありました。夫妻の滞在するホテルまで、教会のスタッフと一緒に来てほしいと言うのです。これからパロアルトで始めようとする施設構想について、文書に残す場面に立ち会ってもらい、決意の表れの証人となってほしかったからでした。1884年4月24日、父リーランドは遺言書の中に大学への寄付に向けた条項を盛り込んだのでした。

息子を失った悲しみと失意のどん底にいた自分たちに寄り添い、そして、これからの方向性に光を投げかけてくれたクラーク牧師に、深い感謝を感じたのでしょう。夫妻はパリを発つ前、クラーク牧師の属する教会に2,500ドルも寄付し、クラーク牧師のイースター講話を何千枚も印刷し、配ったのでした。

息子にどうしても会いたかった夫妻は、交霊会に顔を出すようになりました。友人に招かれて、パリで交霊会に参加したこともありました。4月24日、リーランドの遺体と共に帰国してからは、ニューヨークで開かれた交霊会にも、友人で第18代大統領でもあったグラント夫妻と共に参加しました。そして息子の葬儀のために招いたメソジスト派のジョン・フィリップ・ニューマン主教の指導により、ノブ ヒルの自宅で交霊会を開くこともありました。

ジェーンのスピリチュアルな世界への探求を、父リーランドの弟のトーマス・ウェルトン・スタンフォードが、手助けするようになりました。彼も妻と悲しい別れを経験していたからです。アメリカらオーストラリアに渡ったウェルトンは、ミシンの販売事業で財を成し、結婚しましたが、結婚後1年もたたないうちに、妻が突然亡くなってしまいました。彼は自宅で交霊会を行い、妻にアクセスしようと試みたこともありました。オーストラリアで、スピリチュアリズムに関する協会も設立したほどでした。ですから息子に会いたいと願うジェーンの気持ちを、とてもよく共感していたのだろうと思います。
しかしながら、長年、ジェーンは交霊会に参加しても、望むような結果を得ることはできませんでした。妻の苦痛を見て、リーランドは、もう交霊会に出るのはやめた方が良いとアドバイスすることもありました。しかし 交霊会で確証を得られなくても、彼女は、死後の世界に期待も持っていました。それはキリスト教への強い信仰に基づくものです。ジェーンは、自分も死を迎えたら、先だった息子と夫にまた会うことができ、共に過ごせるのだと考え、周囲にしばしば語っていたそうです。

夫妻は息子の名を残すために、大学、技術学校、ミュージアムの創設等、いくつかの案を考えました。そしてアドバイスを得ようとハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、コーネル大学、ジョンズ・ホプキンス大学を巡りました。
そこで見せた父リーランドの姿は、悲しみに暮れるだけでなく、妻ジェーンに対する深い思いがにじみ出たものでした。一例として、1884年、夫妻がハーバード大学のチャールズ・エリオット学長に会った時の様子を記した手紙がありましたので、ご紹介いたします。(1919/6/26 チャールズ エリオット氏からデビッド ジョーダン氏(スタンフォード大学初代学長)にあてた手紙, David Starr Jordan Papers, Stanford University Archives)

... Mr. Stanford really had two objects in view. He wanted to build a monument to his dead boy; but he wanted to do something which would interest his wife for the rest of her life, and give her solid satisfaction. The latter motive seemed to me the strongest in him. I thought, too, that she had done much more thinking on the subject than he."


引用文献:(B)
Roxanne Nilan(1985)"The tenacious and courageous Jane L. Stanford", Sandstone & Tile, 9(2), Winter, p.3

長原意訳
スタンフォード氏の心の中には、2つの思いが占めていました。彼としては、亡くなった息子の記念碑を建てようと思っていたようですが、同時に、夫人のこれからの人生のことを案じ、夫人の人生の中で、生きがいとなるもの、そして心が十分に充たされるような何かを見つけたいと思っていたのです。
私の目から見て、彼は後者の思いの方が強いように見受けられました。また息子を記念した何かを作るということは、スタンフォード氏よりもむしろ、夫人の方がもっといろいろ考えているような印象も受けました。

息子の死が大きな契機となりましたが、実は何か公共の利益につながることをしたいという思いは、鉄道事業で富を得た父リーランドの心の中に、ずっとあったものでした。 大きな病院を造ろうか、あるいは大学を設立しようかと、長い間迷い、同僚の上院議員に相談したこともありました。その中で、君主制ではない母国アメリカにとって、これから平和を保ちながら発展していくには、教育された知性の高い人間が必要だ、という考えが大きくなっていったのです。

母ジェーンも他人のために何かをしたい、という思いは強く持っていました。ジェーンの父は仲間と共に孤児院を創設していたことから、幼かったジェーンも、父と一緒に訪れたことがあったそうです。他者、特に養育を必要とする者への慈悲の心は、そうした幼い時期から形成されていたのかもしれません。
また当時の女子は学校に行かずに、家で教育を受けているような時代でした。ジェーンも時々、地元の女性アカデミーに通うことはありましたが、本格的に大学で学んでいたわけではありません。自身の経験から、性別を問わず、学びたい者が高いクオリティの教育の機会を手にするべきだと、問題意識を持っていたのかもしれません。
ジェーンは息子が生まれる5年も前から、既にサンフランシスコで幼児教育を支援するための協会を、同志と共に設立していました。また、後に一家の所有する牧場で働く従業員のために夜間学校設立を行ったり、自分のニューヨークの実家を、働く女性とそのこどものシェルターにもしていました。遺言書の中には慈善団体へ幅広く遺産分配するよう、記されていたことからも、彼女の人柄を伺い知ることができます。

ついに夫妻は1885年11月11日、サンフランシスコの自宅で大学創設にあたり資産提供に関するサインを行いました。そこには、夫妻が求める大学の在り方として、学生個人の人生の幸せはもちろんのこと、大学が社会全体の向上に寄与するような、最高のクオリティの教育を受けた人材を輩出できる場になってほしいことが記されていました。

そして1887年5月14日、息子が迎えるはずだった19歳の誕生日に、パロアルト牧場に礎石を築いたのです。

夫妻は自分たちの信念を現実化するために、伝統にとらわれない構想を練っていきました。当時学生のほとんどは男子だったにもかかわらず、大学を男女共学にしました。特定の宗教に基づかない大学運営とし、大学中心部に建てられた記念教会は宗教に関係のないものにしました。そして単にお飾り程度に学位を欲するような者ではなく、本当に真面目に学ぶ意欲のある若者が、経済的事情で進学を諦めることなく学べるようにと、学費は無料にしました(1920年から学費は制定)。

そして大学内に博物館を設けることにしました。デザインは母ジェーンが主導しましたが、そのモデルになったのは、息子と共に訪れたアテネの国立考古学博物館でした。父リーランドは建築資材の選択等に細かく指示を出しました。博物館には息子の収集品と、夫妻が追加して購入したものを展示することになりました。それからもジェーンは海外の様々な国に足を延ばし、美術品を収集するようになりました。
それは単に観光と言うよりは、古き美しいものに価値を見出した息子の魂と共に歩く旅だったのかもしれません。息子の大好きだったことを自分が代わりに行うことにより、息子の意志が自分と共に生き続ける…そんな思いが心のどこかにあったのかもしれませんね。

こうして1891年10月1日、Leland Stanford Junior University(リーランド スタンフォード ジュニア大学)が開学したのです。

博物館のオープンを、1891年10月の大学開学に間に合わせたいという母ジェーンの希望から、工期短縮が図られ、切石ではなくコンクリートが使われました。そうして同年11月に建物自体の建設は終わりましたが、 コンクリートを乾燥させるには時間がかかり、内装工事にも時間を要して展示品搬入が遅れたことから、一般公開されたのは1894年でした。1893年に父リーランドは亡くなっていましたから、母ジェーンにとって、博物館はまさに夫と一から作り上げたこどものような存在だったことでしょう。ジェーンの希望で博物館は拡張され続け、1905年、20万平方フィートの広さは、当時の個人所有の博物館として国内最大になったそうです。

傷心の夫妻が、交霊会に参加する姿が見られていたためか、大学設立にあたって霊媒師の影響があると噂が立ち、開学時には、霊媒師のドレイク夫人が、自分がガイドしたと新聞に話を持ち込む、といった一件も起こりました。確かにスタンフォード夫妻は、ドレイク夫人に面識があります。初めての出会いは1884年10月、ニューヨークで開催された交霊会でした。しかし、夫妻が息子の名を冠した記念を残したいと話し、大学設立の下調べとして大学巡りをしていたのは、既にその前のこと。そこで夫妻は様々な憶測・噂話を正そうと決断し、ドレイク夫人の主張の誤りを正す声明を出して、ジョーダン学長に永久記録として残すよう頼んだのです。

"No spiritualistic influence affected the decision."



引用文献:前掲書(A), p.400

長原意訳:
「大学設立の決断に霊媒師の影響はまったくありません」

さて、リーランド・ジュニアの死から7年半後、開学式典に集った学生555名。その学生たちを前に、夫妻の胸に去来するものは息子への思いと、これまでの苦労など、様々だったことでしょう。次のように挨拶したのです。

"You, students, are the most important factor in the University. It is for your benefit that it has been established. To you our hearts go out especially, and in each individual student we feel a parental interest."


引用文献:前掲書(B), p.10

長原意訳:
「学生のみなさん、あなたたちは大学の中で最も重要なのです。この大学はあなたたちの利益につながるよう、設立されました。学生さん一人一人に、とりわけ愛情を注ぎ、親としての関心を感じています。」

一人息子を亡くした後、夫妻にとって、このスタンフォード大学が息子であり、大学の発展は息子の成長に等しく、そしてここに通う学生に、自分たちのこどものような縁を感じている…そういうことかもしれません。

"the children of California shall be our children"


引用文献:前掲書(B), p.4

長原意訳:
「カリフォルニアのこどもたちは、私が家の子なのです。」

このスタンフォード氏の言葉は、夫妻の共通の思いとなり、それがすべての始まりになっていきました。
後にジェーンは心の中で自分を"Mother of the University"(大学の母)と思うようになりました(A)。そんな彼女の気持ちを端的に表している手紙があります。それはスタンフォード大学の女子バスケットボールチームの学生から、ジェーン宛に贈られた2枚の招待チケットへのお礼状(Jane L. StanfordからEsther Keefersanあての手紙, 1896/4/4, Jane Lathrop Stanford Papers)でした。

I have the usual weaknesses of human nature to highly appreciate all tender, kind attentions from the young.
I sometimes feel that all I have left to me and all that I can claim in Earth life are the love and prayers of the students of Stanford University."


引用文献:前掲書(B), p.4

長原意訳:
「私は若い方々から優しくされたり、親切な気配りをしてもらうことに、とても弱いのです。
私は時折、思うのです。私に今遺されたもの、そしてこの地球上での生活で自信を持って言えること、それはスタンフォード大学の学生から受ける愛や祈りに尽きるのだと。」

こうして開学したスタンフォード大学でしたが、1893年、リーランドの身に危機が起こったのです。locomotor ataxia(歩行性運動失調症,脊髄癆(ろう))であると知ったのは、彼が亡くなる数週間前のことでした。これからどんどん大学を整え、拡張する矢先だったはず。彼が医師に言った言葉には、無念さが現われています。

"Only help me to last ten years more, to personally carry out my plans,""and I'll be thankful."

引用文献:
Kate Field's Washington 1893/6/28

長原意訳:
「個人的にやりたいと思っていることは、あと10年あったら実行できるのになあ、そうだと、とてもありがたいのだけど。」

リーランドの病状は、多くの医者から治る見込みがないと診断されました。しかし亡くなる前日まで、リーランドは仕事に励みました。牧場で仕事の指示を出し、報告を聞き、夕食時にはいつになく上機嫌で、床に就きました。その日の夜中には、リーランドの身の回りの世話をするスタッフが寝ている様子を確認していましたが、痛がる様子もなく、とても穏やかに微笑んでいるかのようでした。彼の死因は心不全と伝わっています。

リーランドの死後、当時金融恐慌のため、一人遺されたジェーンの肩に大学運営、リーランドの仕事の金銭がらみの問題、財産管理など、様々にのしかかってきました。リーランドが社長だった鉄道会社のローンの支払の滞りから、連邦訴訟により、リーランドの財産は6年間凍結されてしまいました。それは個人資産として扱われていた大学の運営にも余波が及び、経済危機が改善するまで、大学を閉鎖する案も出されました。しかし断り続けたジェーンは2週間、一人で考えました。そして、少しでも起死回生のチャンスがあるのなら、大学は続けるべきだと結論を出したのです。
サンフランシスコ・エグザミナーという日刊紙の記者に発表した、ジェーンのメッセージには、彼女の強い意思が表明されています。

"Mrs. Stanford says that she feels it will be her solemn duty to carry out the great work which had been so successfully inaugurated. She told me to state further that she was thoroughly conversant with the details of the Senator's plans and was familiar with all his wishes. Her life will be devoted to completing the task which was left unfinished. She will endeavor to do just what the Senator would have done had he lived."'


引用文献:前掲書(B), p.4

長原意訳:
とても順調に首尾よく始まっていた壮大なこの事業を、遂行することが、私にとっての厳粛な義務なのです。私は夫の計画の詳細を知っているし、彼が何を望んでいたか知り尽くしているのだから、夫が生きていたらどうしただろうか、そう考えながら、夫のやり残したことをやり遂げることが、これからの私の人生であり、力を尽していきたい。

大学運営を継続するための一案として、ジェーンは自分の給与も差し出しました。また自分の宝石類をお金に替えようと、バイヤーを見つけるために渡英したこともありました。それは不況のあおりで徒労に終わってしまいました。
やがて資産凍結が解除になりましたが、「大学の母」としてのジェーンの人柄を表すエピソードが残っています。
1905年2月、ジェーンは亡くなる少し前、自分の持っている宝石を売り払って、ジュエルファンドを創設し、図書館の本の購入資金に充てるよう、大学の評議委員会に指示を出しました。その中には、大切な思い出の品も含まれていました。息子リーランド・ジュニアを妊娠していた時、夫から贈られた18カラットの金の懐中時計です。

息子と夫に先立たれた後、ジェーンの心は大学と共にありました。我が子のように思う学生のために私財を投げ打ち、生涯を終えたジェーン・スタンフォード。それは、息子の名も夫の思いもそれぞれ、永遠に生きるようにという願いを原動力にしたものでした。今ではアメリカ屈指の名門校であり、そこから輩出された優秀な学生たちは、社会の中で様々な形で役立っていることでしょう。それは見方を変えれば、15歳で終えたリーランド・ジュニア一人の命が、何万人もの人生として生きて、活躍するとも言えるのかもしれません。

 
参考文献
スタンフォード大学 関連サイト
*
History of Stanford
*
History of the Founders' Celebration
*
Stanford University Founding Grant 
*
STANFORD UNIVERSITY AND THE 1906 EARTHQUAKE
*
JANE L. STANFORD THE WOMAN BEHIND STANFORD, Jane Stanford: Her Values and Impact
*
Jane Stanford: The woman behind Stanford University
*
MICHAEL PENA(2005)"Donor’s generosity brings Jane Stanford's wayward watch home", Stanford Report, November 2, 2005
 
スタンフォード大学 関連雑誌
*
Roxanne Nilan(1985)"The tenacious and courageous Jane L. Stanford", Sandstone & Tile, 9(2), Winter 1985
*
Jim Tankersley(1998)"The Stanford Label", Stanford Magazine, September/October 1998
*
Theresa Johnston(2000)"Mrs. Stanford and the Netherworld", Stanford Magazine, May/June 2000
*
Theresa Johnston(2003)"About a Boy", Stanford Magazine, July/August 2003
*
John Hennessy(2005)"Our Heritage, Our Mission", Stanford Magazine, July/August 2005
 
スタンフォード大学 関連出版物
*
George Thomas Clark(1931)Leland Stanford, War Governor of California: Railroad Builder and Founder of Stanford University, Stanford University Press
*
Robert W. P. Cutler(2003)The Mysterious Death of Jane Stanford, Stanford University Press
 
その他
*
Guide to the Golden Gate Kindergarten Association Records
*
Robert T. Grimm(2002)"Notable American Philanthropists: Biographies of Giving and Volunteering", Greenwood
*
Kate Field's Washington 1893/6/28
*

大森実(1986)『ザ・アメリカ 勝者の歴史 6 大陸横断鉄道 政商スタンフォード』講談社

 
悲しい気持ちやお子さんへの愛情は、新しい何かを生み出し、そして困難を乗り越えていく力に変わるのだと思います。
2016/12/21  長原恵子