病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
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ベドルジハ・スメタナ氏のピアノ三重奏曲ト短調、それは大変心揺さぶられるとても美しい曲ですが、その誕生の裏には実に悲しいストーリーがありました。今日は作曲家 ベドルジハ・スメタナ氏のお話を取り上げたいと思います。

ベドルジハ・スメタナ(1824/3/2-1884/5/12)は、雉鳩夫婦と呼ばれるほど、妻のカテジナと大変仲が良い夫婦でした。1849年8月、結婚した当初は妻の実家で生活をスタートさせましたが、やがて自宅兼音楽塾の住まいを借りて独立しました。家族にも慶事が続き、1851年1月には長女ベドルジーシカが誕生し、続いて年子で次女ガブリエレ、三女ジョフィエが誕生しました。スメタナ家は毎年、赤ちゃんの元気な泣き声が部屋のどこかで聞こえる、そんな賑やかなおうちだったのです。仕事の面でも順調に音楽塾の生徒数は増え、1852年にはブルタワ川の川岸通りに拡張移転しました。そうした幸せな時間を過ごしていたスメタナ一家に、1854年7月、悲しい出来事が起こりました。次女ガブリエレが結核で亡くなったのです。1852年に生まれたばかりの、かわいい盛りのガブリエレ。スメタナ夫妻はどれほど心を痛めたことでしょう。

ガブリエレが亡くなった後のスメタナ夫妻の詳細は伝わっていませんが、翌年2月、ベドルジハは初の自主コンサートを企画し、開きました。2月のコンサートに向けて、1852年の秋冬は準備に奔走していたことでしょう。たくさんの人に来てもらいたい、成功させたいと考えたベドルジハは、開催予定日や曲順の変更とその様々な手配など、思考錯誤して頑張りました。ガブリエレ亡き後の傷心は、特別に情熱を注げるような仕事に取り組むことによって、癒していたのかもしれません。コンサートではオーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の結婚を祝して、ベドルジハが作曲した祝典交響曲がベドルジハの指揮のもと、演奏されました。また彼のピアノ伴奏による歌曲や、ピアノ独奏も披露されました。長丁場のコンサートとなりましたが、4歳の長女ベドルジーシカは静かに、お行儀よく聴いていました。舞台で活躍する父の姿を見て、どんなに嬉しく、また誇らしく見ていたことでしょう。そんな健気な長女の様子を妻から聞き、ベドルジハも娘の音楽の才能を期待し、嬉しく思っていました。

しかし娘に託す夢を、猩紅熱が無残にも奪ってしまったのです。1855年の夏、プラハでは猩紅熱が流行しました。ベドルジハは四番目の子を妊娠中の妻カテジナと、幼い長女と三女を、プラハ郊外のヌスレへ避難させました。秋の音楽教室開催に向けて、準備しなければいけなかったベドルジハは自宅に残り、家族の避難先と自宅とを往復する毎日でした。
8月31日、妻からベドルジハに電報が届きました。長女ベドルジーシカの具合が悪く、猩紅熱の兆候が見られていたのです。ベドルジハは急いで馬車を走らせました。そして三女を妻の母に預けると、スメタナ夫妻は長女の看病に専念したのです。高熱を出し、発疹も出て、のどが腫れ、苦しそうにしているベドルジーシカ。懸命の看病も病魔の勢いには勝てず、ベドルジーシカは9月6日、亡くなりました。まだわずか4歳半でした。
半年前のコンサートでは、あんなにおりこうさんに自分の音楽を聴いてくれていたというのに…。ベドルジハは自分の未来に輝く星が、突如消え失せてしまったような、大きな喪失感を抱いたことでしょう。

それから2か月間、ベドルジハはピアノ三重奏曲の作曲に没頭しました。そこにはベドルジーシカへの思いがたくさん詰まっっていたことでしょう。作曲期間中、10月25日に四女が生まれ、妻と同じ名前のカテジナと名付けられました。どうして母娘を同じ名前にしたのでしょうか。それはスメタナ夫妻の胸中のみぞ知るわけですが、2か月前にかわいい長女を亡くした時、母カテジナはまるで自分の身の一部が消えてしまった思いだったのかもしれません。そして新しく自分から生まれ出た命に、自分の分身のような思いを重ね見たのでしょうか。

その年の11月、ついにピアノ三重奏曲が完成し、12月30日、スメタナ音楽教室主催の「室内楽の夕べ」で、初演されました。それは渾身の作であったにもかかわらず、新聞には音楽批評家の激しい非難の記事が掲載されました。でも、きっとベドルジハはどれほど、他人が酷評しても、この作品に、誇りを持っていたことでしょう。なぜなら長女を亡くし、自分がとても苦しかった時期に、共に歩み、そうして生まれ出てきてくれた作品なのですから…。
実際、その音楽を聴いてみると、第一楽章のバイオリンの音色は、悲痛な思いに嘆き、男泣きして、時に叫んでいるかのように、怒りを表しているかのように、沸々と湧き立つような思いが聴こえます。そうした気持ちを時になだめるかのように、時に煽るかのようなピアノの音色。そしてバイオリンの音色と組み合わさって、更に全体の音に厚みと奥行きをもたらしてくれるチェロの音色。ベドルジハがどんな思いで鍵盤に向かい、楽譜を書き進めていったのかを考えると、一層その音色は悲しく響いてきます。
第二楽章では、バイオリンの音色は、まるでベドルジハが娘ベドルジーシカに優しく語りかけ、思いを伝えるような調子へと、変わっていきます。
第三楽章ではピアノ、チェロとバイオリンの掛け合いが、まるで父と娘の会話のように聴こえてきます。それは娘の冥福を祈る父と、父の幸せを願う娘のやりとりのよう穏やかな時もあり、心の抑揚が激しい時もあり。父の深い心の闇もあり。伝えきれなかった思いや言葉が次々と溢れ出て、それぞれの楽器の音色にのせきれないほどの様子が伝わってきます。

翌1856年、またもやスメタナ一家に不幸が訪れました。長女亡き後、スメタナ一家に新しい光をもたらしてくれた四女カテジナが、6月30日、亡くなってしまったのです。2年の間に幼い次女、長女、四女に先立たれてしまったスメタナ夫妻…。

しかし神様の采配はあるのですね。その年の9月、当時大人気だった作曲家リストが、ベドルジハの音楽教室兼自宅を訪れたのです。尊敬する憧れの大先輩リストの来訪にベドルジハは心が躍りました。そして自分がピアノを、親友がバイオリン、チェロを担当し、あの酷評されたピアノ三重奏曲を演奏したのです。それをリストは、非常に高く評価してくれました。

演奏が終るとリストはスメタナに抱きつき、カテジナを振り返って言った。

「マダム、私はこのすばらしい作品にどのような賛辞を送ればいいのか分りません。
これは真の天才だけが創り得る音楽です」


引用文献:
ひのまどか(2004)『スメタナ 音楽はチェコ人の命!』リブリオ出版, pp.75-76

大作曲家リストによってこれほど褒められたことは、もちろんベドルジハは嬉しかったでしょう。しかしそれ以上に、父親として喜びを感じるところがあっただろうと思います。長女を亡くしたて間もない時期の作品ですから、リストの賛辞はそのままベドルジハの心に、長女の死を悼む言葉として響いただろうと思うのです。

当時ベドルジハは経済的に厳しい生活が続いており、またせっかく作曲した祝典交響曲もベドルジハがチェコ人だからという理由で皇帝への献呈を返されるといった、辛酸味わう時でもありました。数日間、音楽教室兼自宅でリストと演奏したり、語り合う機会を得たベドルジハは、今後の身の振り方もリストに相談しました。そして以前から声をかけられていたスウェーデンでのピアノ教師の仕事を引き受けることにしたのです。それは祖国ではなかなか得られないほどの、高い報酬が得られるものでした。善は急げと言いますが、旅費を工面したベドルジハは妻と三女を祖国に残し、1856年10月11日、スウェーデン ゲーテボルグに向けて出発しました。

新天地での生活は、大きな転機となりました。経済的に充実し、音楽学校での指導や個人レッスンのほかにもオーケストラや合唱団への指導を行いました。室内楽やピアノのコンサートを定期開催し、シェイクスピアの「リチャード三世」を題材とした交響詩の作曲も手がけました。そしてついに家族一緒に生活しようと、1857年9月、プラハの音楽教室を閉めて、妻と子をスウェーデンに呼び寄せたのです。

スウェーデン移住後の妻カテジナは、だんだん体調が優れず、衰弱していきました。ベドルジハはカテジナを温泉地へ連れて行き療養しましたが、一向に改善はみられませんでした。そして翌年1858年の冬、あまりに強く妻が帰国を希望するため、医師に診てもらったところ、結核に感染してとても厳しい状況になっていると初めて知ったのです。ベドルジハは帰国しようと決めました。存分に音楽の実力を発揮できる場も、経済的安定も捨てると決めたのは、きっと4年前の辛い記憶が蘇ったからでしょう。幼い次女の命を奪った結核。その同じ病気に、今度は妻の身が蝕まれていたのですから…。

ベドルジハは1859年3月、告別演奏会を開き、4月10日、祖国に向けて、スウェーデン南西のゲーテボルグを出発しました。もう妻カテジナは、歩くことさえままならないほど、体力を失っていました。旅のサポートのため、急遽来てもらったカテジナの母も、我が娘の姿に大きなショックを受けたことでしょう。船と汽車を乗り継いで祖国を目指した長旅は、病身のカテジナからもっと体力を奪うことになってしまいました。そして旅の途中でカテジナは意識を失い、ドイツのドレスデンで4月19日早朝、ついに息を引き取ったのです。ベドルジハの日記には次のように綴られています。

終ってしまった……。
カテジナ、私の大切な、心から愛する妻は、今朝五時、静かに、われわれが何も気付かない内に息を引き取った。

さようなら、私の天使!


引用文献:前掲書, p.92

誰にも気付かれないで早朝、旅立ったとしても、先立った三人の娘たちは母のことを迎えにきたでしょう。決して寂しく一人ぼっちで逝ってしまったわけではなくて…。カテジナは4月22日、娘たちが眠る旧市街のオルシャニ墓地に葬られました。

喪失を積み重ねながら、それでも人は生きていく。
その人生は過酷だけれど、きっと天からしっかりと見守られ、支えられて導かれているのだと思うのです。

 
お子さんが亡くなった後、何かに没頭して大変な時期を乗り切っていくことは、あなたの散ってしまいそうな心を支えてくれるはず…。
2017/2/10  長原恵子