アントニン・ドボルザークが結婚したのは32歳の冬でした。
時に1873年11月17日。新婦はプラハの国民劇場仮劇場の合唱団コントラルト歌手であった、アンナ・チェルマーコヴァー。アンナは当時19歳でしたが、明るく楽天的な性格で、夫アントニンの良きパートナーでした。二人はアンナの実家で新婚生活をスタートさせ、やがてナ・リブニーチク街に引っ越しました。
アントニンは教会でのオルガニストとして勤め、アンナは歌う仕事をして、暮らしていましたが、1874年春、ドボルザーク一家に新しい家族が増えることになりました。4月4日、長男オタカールが誕生したのです。オタカールの誕生はドボルザーク一家にとって、まるで福の神の来訪のようでした。その年の7月、アントニンが応募したオーストリア国家奨学金は、しっかり獲得することができました。また11月にはアントニンの作曲した「王様と炭焼き」の第二作が仮劇場で初演され、大成功を収めました。そして翌1875年も国家奨学金に応募し、再び奨学金を得ることになったのです。更に喜び事は続きました。同年9月21日、長女ヨセフィーナが誕生したのです。二児の父となったアントニンは、もっともっとしっかり働いて、家族を守っていこうと思ったことでしょう。
しかし何という悲劇でしょうか…ヨセフィーナは残念ながら、三日の命で亡くなってしまったのです。アントニンは娘の夭逝の原因について、自分に非があったのでは…と考えました。本当は決して誰のせいでもないけれど、彼はそう思わずにはいられなかったのでしょう。当時、アントニンはオペラ「ヴァンダ」を作曲中で多忙を極めていました。そのために、年子を妊娠しながら、長男の育児に励む妻アンナの体調を、自分はあまり気遣えいなかったと思ったのです。娘を亡くした悲しみや妻への申し訳なさ、後悔、そういった様々な気持ちを払拭していくため、アントニンは作曲に打ち込みました。そして「ピアノ三重奏曲・ト短調」が生まれたのです。
アントニンには尊敬するチェコの音楽家の大先輩がいました。ベドルジハ・スメタナです。スメタナはアントニンの17歳年上にあたります。まだアントニンが幼い頃、プラハで歌われていた「自由の歌」は、スメタナの作品でした。またアントニンがオルガン学校卒業後、所属した楽団がプラハの仮劇場の専属オーケストラになってから4年後、仮劇場首席指揮者として着任したのがスメタナでした。そんな大先輩でしたが、アントニンとスメタナは共通する部分がありました。スメタナも幼い長女を亡くしていたのです(詳しくはこちらを参照)。スメタナが長女を亡くしたのは、アントニンの長女の死の20年前、同じ9月の出来事でした。そしてスメタナは長女の死後、ピアノ三重奏曲を発表したのです。もしかしたらアントニンは、大先輩スメタナのピアノ三重奏曲誕生にまつわるエピソードを、どこかで耳にしていたのかもしれません。そして彼もピアノ三重奏曲に取り組んだのかもしれませんね。娘に先立たれて辛く、悲しく、もう先が見えないような気持ちになってしまった時、同じような苦しい境遇を経験した先輩の姿を思い出したのではないでしょうか。暗闇の中に進むべき道を見出せるのではないかと…。
こうしてアントニンはピアノ三重奏曲・ト短調を1876年に完成させました。その後、彼はイタリアの詩人ヤコポーネ・ダ・トディの「悲しみの聖母(スターバト・マーテル)」に触れる機会を得ました。それは磔(はりつけ)の刑で亡くなったイエス・キリストを悼む聖母マリアの悲しみが、ラテン語で詠まれた作品です。深く心動かされたアントニンは、早速作曲に取り掛かりました。2月19日よりオラトリオという形式で作曲を始めましたが、あまりの大作になることから、5月7日までで一区切りとして、保留にしたのでした。
さて、その年の9月18日、ジョセフィーヌの死からちょうど1年経った頃、ドボルザーク夫妻に次女ルージェナが誕生しました。夫妻にとって決してヨセフィーナを忘れることはできないけれども、ようやく訪れた新しい喜びの日々…。そんな幸せな時間を過ごし、ルージェナがもうすぐ1歳になろうとする1877年8月13日、またもや悲しい出来事が起こってしまったのです。お昼寝中だった長男と次女をベビーシッターに任せ、散歩に出かけた夫妻は、久々にゆっくりと穏やかな時間を過ごしていました。そして夕方になって、家に戻ったところ、ベビーシッターの口から発せられたのは耳を疑うような言葉だったのです。どうやらベビーシッターが目を離したすきに、ルージェナが何か口にして、具合が悪くなってしまったのです。ベッドには瀕死のルージェナが、横たわっていました。
ルージェナの詳しい死因は不明ですが、一説によると硫黄中毒によると言われています。今はマッチで火をつける時は、発火性の頭薬がついたマッチ棒をマッチ箱の横でこすれば、簡単に火がつきます。しかし当時のマッチとは、細い棒の先に硫黄液をつけ、それを乾かして自家製マッチを作っていました。ルージェナはそれを誤ってなめてしまったのではないか?と言われているのです。もうすぐ1歳、人生これからまだまだ楽しいことがたくさんあるという頃なのに…翌日、ルージェナは父母の元から旅立っていきました。
ドボルザーク夫妻の涙も乾かぬうちに、今度は長男オタカールに不幸が襲い掛かりました。天然痘にかかってしまったのです。ルージェナを亡くして憔悴しきった夫妻の心中を察すると、神様はあまりに無情ではないかと思ってしまいます。突然、体調を崩した息子をドボルザーク夫妻は3日間、必死に看病しました。しかし次女ルージェナが亡くなって、まだ1カ月も経っていない 9月8日の朝、オタカールは旅立ってしまったのです。十三世紀、オーストリアをも統治したチェコのオタカール二世にあやかって、あんな風に立派に力強くなってほしいと将来を嘱望されて名付けられたオタカール…彼が亡くなったのは、アントニンの36回目の誕生日でもありました。
こうして1877年の夏、ドボルザーク夫妻は打撃に次ぐ打撃の日々を過ごしたのです。その年の8月6日からアントニンはオーケストラのための「交響的変奏曲」に取り組んでいましたが、9月28日に仕上げると、10月初めからは長女ヨセフィーナの死後、途中まで手掛けていた「スターバト・マーテル」の作曲に、再び着手しました。長女に続いて次女、長男が相次いで後を追うように旅立ってしまった悲しみ…。こどもたちの声が響き渡らない家の中で、夫妻はどんなに寂しく苦しい思いだったことでしょう。アントニンは「スターバト・マーテル」の作曲に没頭し、ついに11月13日、完成しました。「どうして我が子が…」そういったやり場のない怒りや悲しみのエネルギーが、作品を生み出すエネルギーに変わっていったのですね。それはこどもたちの鎮魂の意味もあり、なおかつ自分を立て直す道のりのの中で、不可欠なものだっただろうと思うのです。
さて「スターバト・マーテル」は1880年12月23日、プラハの音楽芸術家協会による定期演奏会で初演されました。その後何度か公演が行われましたが、1883年5月10日、イギリスでロンドン音楽協会によって行われた公演によってとても注目され、アントニンは何度か渡英することになりました。そのつど大きな成功を収め、1884年、イギリス西部のウースター市のカテドラル建立800年を祝う祭典では、五千人が座れるゴシック大聖堂で演奏されました。イギリスの新聞はとても良い評価を書いてくれました。アントニンも大変嬉しかったようで、その喜びは妻アンナへ送った手紙の文面から読み取ることができます。 |