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魂・霊と死後の生〜様々な思想〜 |
魂の雨宿り |
女優の長岡輝子さんは有名なNHK連続テレビ小説「おしん」に登場された方で、おしんの二度目の奉公先の祖母(八代くに)の役をなさった方です。当時、私は中学生だったのですが、方言の自然なあたたか響きと、存在感のある演技が大変印象的であったことを思い出します。
その長岡輝子さんは20代の時、最初のご主人を病気で亡くされました。
看取られた時のことを次のように書かれています。 |
私は間もなく天使がまた彼の心臓の鼓動を揺り動かしてくれるにちがいないと、じっと見守っていたが、鼓動は二度と消えず、彼の死顔はだんだん亡骸と変り、これはあの人のいない空っぽの姿だと思っているうちに、あの人は全部私のなかに入ってしまったから、私はもうこれからあの人を探さなくても、いつも一緒にいられるのだという不思議な安心感をおぼえるのだった。(略)
私は一刻も早く解剖して、彼の身体のなかに巣くっていた彼を殺した病根の正体をあばいてほしいと思った。
引用文献:
長岡輝子(1988)『ふたりの夫からの贈りもの』草思社, p.99-100 |
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上記の長岡輝子さんの本を読んだ時、脳死と判定されたお子さんの臓器提供を決断されたご両親のお気持ちに、通じるものがあると思いました。
こんな風に読み替えられるのではないかなあと。
「あの子の魂は全部私の心のなかに入ってしまったから、私はもうこれから、あの子を探さなくてもいいんだ。
あの子の身体の一部は、日本のどこかで新たな形で生きているけれども、あの子の魂はずっとずっと、私と一緒なのだから…」
そんな風にご両親は思っていらっしゃるのではないかと…。
これは私の勝手な考え方ですけれども、生きている時には、魂の宿る場所(身体)があるからこそ、その人自身として成立しているのであり、身体全体を失くした後、魂は身体の束縛から解かれた自由な存在となり、大好きな人の元に行って、一緒に過ごすことができるのではないかなぁと私は思っています。
一つの傘の下で、一緒に雨宿りをするようなイメージで。
大切なお子さんが脳死と診断されて、ご両親が臓器提供することを決断なさったことに対して、メディアで論評者の方が、いろいろと批難的なことを書かれることがあります。
子どもの脳死判定に関する問題だとか、時期尚早だとか、様々に…。
でも、大切なお子さんだからこそ、この世での人生の最終幕として、最もふさわしい形として、そのご両親が選んだ結果なのです。
お子さんに先立たれて心も身体も本当に憔悴しているご両親が、どうかこれ以上、傷つきませんようにと思います。
人はそれぞれ皆、自分自身の固有の世界観、価値観を持って生きています。それらに基づいて、人は日々、物事を選んでいくのです。
脳死と診断されて、臓器提供を選択することも、そのご両親の価値観。
脳死と診断されて、臓器提供を選択しないことも、そのご両親の価値観。
どちらが正しいとか、正しくないとか、そのような類の問題ではありません。
その時、その瞬間、ご両親がそのお子さんにとって「一番良い」と思える形の道を選んだのであれば、それがそのご家庭にとって「正しい」のだと思います。
ですから各家庭それぞれに、違った正しさがあってしかるべきなのだと、私は思います。 |
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いろいろな決断をしたご両親に、刃を向けるような発言が、周囲からどうか行われませんように… |
2014/1/10 長原恵子 |
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