スウェーデンボルグの描写によれば、天界というのは、たんにすてきな想像を寄せ集めた世界ではなく、住むことのできる実際的な世界です。忘れてならないことは、死というのは生命の終わりなのではなく、とても重要な経験のひとつにすぎないということです。
近くにいる人であれ遠く離れている人であれ、存命の人であれ亡くなった人であれ、地上で愛した人たちはすべて私の想念の大いなる静寂の中に生きていて、それぞれの個性、それぞれの流儀と魅力を保っています。孤独を慰めたければ、私はいつでもその人たちを身近に呼び寄せることができます。もしそれを妨げるような障壁があったら、私の心は張り裂けてしまうことでしょう。
けれども私は、二つの世界があることを知っています。
ひとつは、紐やものさしで測ることができる世界であり、もうひとつは、心や直感で感じ取ることができる世界です。スウェーデンボルグは、来世とはたんに想像できるだけでなく、望んでそこに行けるところである、としています。 (略)
人がこのことをなかなか信じることができないのは、それが証明できないからというよりも、むしろ本人自身が懐疑的な態度をとっているからです。その人の利己的な欲望が霊的な努力を圧倒してしまうのです。
もっと本当のことを言えば、たぶん彼の内的能力が、まだ意識的な経験をする段階にいたっていないのです。その能力は、有効に機能するには、まだあまりにも弱すぎるのです。彼は、欲心が自分の性格におよぼす悪影響を悟ることができません。自分の霊的存在の本当の意味を理解せず、物質的な存在だけが現実だと信じるのです。(略)
私は、私の魂が霊の光の中に立ち「生と死はひとつのものだ」と叫ぶまで、確固とした思想をもってあらゆる視力を超えた視力につき従ってゆきます。自分の人生を振り返るとき、私は一度も会ったことのない人たちからとても大切な恩義を受けているように感じます。
というのも、私がもっとも愛する交わりは、心の交わりであり、私にとってもっとも誠実で頼りがいのある友は、霊の友だからです。私は、宗教をもたない自分を想像することができません。もしそれができるなら、心臓のない生体を空想することも簡単でしょう。
引用文献:
へレン・ケラー著, 鳥田恵訳(1992)『へレン・ケラ一 光の中へ』めるくまーる, pp.205-208 |