善の導きによる安らぎ |
死後の世界について「あるわけがない」と考える方もいらっしゃいますし、「いや。ある」と考える人もいらっしゃいます。人それぞれです。
また
「人は死ねば無になってしまうのだ」と日頃おっしゃっていたような方が、大切なお子さんに先立たれてしまった後、「いや、決しては無ではない」と思うようになることもあります。
もしも「ある」「ない」の論議で頭を悩ます方がいらっしゃったら、次のジョン・ヒッツ氏の言葉がとても参考になるのではないかと思います。
ヒッツ氏はヘレン・ケラー女史にとって、サリバン先生に並ぶ恩人として挙げられることができる方だと思います。ヒッツ氏は当時、耳の不自由な方のための情報を集め、配信し、雑誌を発行する機関「ヴォルタ局」の局長であった方です。ヘレンが13歳の頃、 ヒッツ氏に出会い、それから大変親交を深めていきました。
ヒッツ氏の協力で得ることのできた点訳本は、ヘレンの勉学を加速的に進める上でも大きな助けとなりました。また、そうした支援の他に、ヘレンの信仰の基盤となったスウェーデンボルグの著作を紹介したのも、ヒッツ氏だったのです。(※信仰は決してヒッツ氏に強制されたものではなく、へレンが自らの意思で選び取ったものであります。)
ヘレンが学びの世界を広げていくうちに、ヒッツ氏が贈ってくれた言葉をヘレンは次のように回想しています。決して死後の世界の有無に言及した言葉ではありません。ただ、核心をついた言葉ではないかと思うので、ここに取り上げたいと思います。 |
「むずかしい本を読むときは、何が真実であるかよりも、何が善であるかを見つけることのほうが簡単だということを、いつも思い出すとよいでしょう」と言うのです。というのも、スウェーデンボルグが言っているように「善とは光を発する小さな炎のようなもので、人の目を引き、認めさせ、信じさせる」からです。
引用文献:
へレン・ケラー著, 鳥田恵訳(1992)『へレン・ケラ一 光の中へ』めるくまーる, pp.50-51 |
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物事を「真実」としての側面から見るのか、あるいは「善」としての色合いを見るのか。そう考えると物事には両方満たすものもあれば、片方しか満たさないものもあります。
ただその「善」が誰かを傷つけたり、貶めたりするようなものでなければ、自分が善だと判断するものにしたがって、突き進むことは良いのではないかと思います。
ヘレンは点訳されたスウェーデンボルグの『天界と地獄』を読むうちに、その中に登場する盲目の婦人の言葉に触れ、大きな心の変化を生み出していきました。なぜならその婦人は、失った現実の光をつぐなって余りある光を、スウェーデンボルグの著作が与えてくれたと断言していたからです。そして、その婦人と同様に、天界という存在を信じることは、ヘレンにとってもやはり希望をもたらしたのです。 |
私が全体として心に描いている世界は、限定された肉体感覚がいたるところで出くわす断片的な事物や不合理な偶発事の混沌とした世界とは別ものだというのです。(略)
不死性ということがようやく私にも理解できるようになり、この世界が愛しく意義あるものとして新しい像を結びはじめます。
引用文献:
へレン・ケラー著, 鳥田恵訳(1992)『へレン・ケラ一 光の中へ』めるくまーる, pp.51-53 |
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お子さんを亡くされた後「あの子はもうどこにもいない、すべて消えて終わってしまった…と」思いながら、生きることは苦しすぎます。
でも、亡くなったお子さんが、どこか安寧な場所で楽しく過ごしていると思い浮かべることによって、あなたの心に安らぎが得られるのならば、それは善による導きの一つだろうと思うのです。 |
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あなたの人生が、幸多きものであるようにと、あなたのお子さんは強く願っているのですから…。 |
2014/2/5 長原恵子 |