端山から見守る心 |
2007年10月、当時在籍していた京都造形芸術大学の通信教育部歴史遺産コースの専門講義科目の中に、東北の風土を歴史的な観点から学ぶ授業(歴史遺産学5)がありました。
山形では端山(はやま)・深山(みやま)信仰があるのだそうです。
それはどういうものかというと、人は亡くなると、人里に近い小さな山(端山)にいて、祖霊として家族の生活を見守り、33年経つと、端山よりももっと奥深いところにある高い山(深山)に昇り、やがて天に昇るという信仰なのです。端山信仰は、山形では縄文時代からあったそうで、大変驚きましたけれども、背後にそびえる小さな山々に亡くなった方を重ね合わせて、その庇護に対する感謝を抱くとは、人々の謙虚さや精神性の高さが表れているように思います。
そうした端山信仰を千歳先生は次のように記されています。 |
死者と生者が語り交わる端山信仰には、深い意味があると思います。それは、人間の死はすべての終わりではなく、この世のひとつの終わりであり、あの世への旅立ちであるという考えです。
永遠の命のなかのこの世だという考え方と、生者と死者が語り合いながら永遠に生きるという思想。
この想念は、人間が考えたすぐれた叡智であると思います。
引用文献:
千歳栄(1997)『山の形をした魂』青土社, p.26 |
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山形のスクーリングでは、この著者である千歳先生の講義が特別に開催され、山寺(立石寺)の麓で受けることができたのですが、当時建設会社の会長さんという顔もお持ちでありながら、長年ご自身のライフワークとして、地元山形に関する学問を深め、究めてこられた姿が大変印象的であり、迫力を感じるものでした。こんな風に年を重ねるって、素晴らしいことだなぁと感じたことを思い出しました。「生者と死者が語り合いながら永遠に生きる」という考え方、落ち着きをもたらしてくれますよね。
さて、その端山とされる山形市の千歳山と、その麓の平清水の集落の墓地一帯に、指導の森先生と学生一行は出かけました。
その日は気持ち良い快晴の秋空だったせいかもしれないのですけど、切り開かれた山の斜面に整然と並んでいるお墓には、燦々と日の光が降り注いでいました。まるでお墓全体が、ひなたぼっこをしているかのような感じだったのです。そして斜面のお墓が麓の集落の人々のお宅を一軒ずつ、上からしっかりと見守っているかのような雰囲気を醸し出していました。 |
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1:墓地から見下ろす風景(右下に集落があります)
2:千歳山 |
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亡くなった方が新たな時間軸の中で、新たなお役目として、この世で生きている家族たちの生活をしっかりと守っていくという考え方は、遺された方から心細さを取り除いてくれるような、そんな気がいたしました。 |
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先立ったお子さんも、きっとあなたのこと守っているはず… |
2014/2/25 長原恵子 |