いずこに横たわることになろうとも |
人生の最期を事故や災害で終えたお子さんのご両親は「せめてあたたかく居心地の良い場所で逝かせてあげたかった…」と、嘆いても嘆ききれない思いでいっぱいだと思います。また、お子さんが事件に巻き込まれて、しばらく失踪し、ようやく対面できた時にはお子さんは既に亡くなっていた場合、崖からどん底に突き落とされたような痛苦は、言葉にし尽くせないものだと思います。出口のない迷路を歩きまわっているような心境かも、しれません。
そのようなご両親にお届けしたい言葉が、アーネスト・シートン氏の『レッドマンのこころ』という本にありました。
シートン氏はあの『シートン動物記』で有名な、シートン氏です。
シートン夫妻は1905年3月、講演旅行で訪れたロサンゼルスで、ある女性から不思議なメッセージを伝えられたのだそうです。シートン氏の前世がインディアンであり、ホワイトマン(白人)にレッドマン(インディアン)の福音を伝えることが、シートン氏の今世の使命であるのだと。
驚いたようですが、やがてシートン氏は奥様と一緒に、たくさんのインディアンの方々に会ってじっくり話を聞き、資料を集めていきました。
そしてある部族の酋長から、次のような話を聞いたのです。 |
かつてインディアンは、一人ひとり、死を覚悟した時にうたう、”死の歌”を用意したものだった。
ある酋長が私に打開けたところによると、彼の”死の歌”は一八六二年にミネソタ州のマンカトで処刑された三十七人のスー族の英雄の歌と同じで、次のようなものだという。
われはうたう―
わが亡骸がいずこに横たわることになろうと構わぬ。
わが魂は死後も行進を続ける。
わが亡骸がいずこに横たわることになろうとも構わぬ。
わが魂は行進を続ける。
引用文献:
アーネスト・シートン著, 近藤千雄訳(1993)
『レッドマンのこころ―『動物記』のシートンが集めた北米インディアンの魂の教え』北沢図書出版, pp.48-49
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どのような場所でどのような最期を迎えようとも、魂が身体から離れて、どんどん自由な世界へと進んでいくのだから、何も案ずることはない…。
そんな風に考えることができたら、確信を持つことができたら、どんなに心強いことでしょう。
インディアンは死をどのように考えていたのでしょうか。
部族によって異なる点はあると思いますが、プエブロ族は、次のように考えているのだそうです。 |
肉体はただの殻であると考え、(中略)肉体を離れた霊は、次の世界へと進み、肉体より立派な新しい身体をまとうと信じている
引用文献:前掲書, p.48
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霊とか魂、といった言葉が出てくると、なにかおとぎ話を聞いているような、感じを受ける人もいらっしゃるでしょう。
しかしながら、シートンはそうした思想を尊重しました。
シートンはたくさんのインディアンとの語らいを通して、生命や大地への畏怖や敬愛の念を持つインディアンの思想に対して、敬意を払っていたのです。
『レッドマンのこころ』の前書きには「野生生活に戻るだけでは何の意味もない。未開人が引き継いできている霊的なメッセージの方がもっと大切である。なのに、そのことが理解されていない。」(前掲書, pp.11-12)というシートンの言葉で締めくくられています。それがシートンの心を、端的に表しているように思うのです。
動物を心眼で見続けたシートン氏。人間も動物の一つです。
インディアンの語りを通して、生命を有するものに共通する何かを、知性や言葉を超えて、見出したのかなぁと思います。 |
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事故や災害、事件に巻き込まれて、お子さんを亡くされたご両親へ。どんなに悲しい最期だったとしても、あなたのお子さんはそこにとらわれることなく、新しく安らかな所へ進んでいるのです。 |
2014/6/3 長原恵子 |