「知らない男性だったけど、
直感的に自分の息子だとわかりました」
「部屋に来て、ニコニコとしていた」
引用文献:
奥野滋子(2015)『「お迎え」されて人は逝く 終末期医療と看取りのいま』ポプラ社, p.44
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病院で医師にそういう話をしたら、カルテには「幻覚を見るようになった」と記されてしまうかもしれませんね。その男性は、幼い頃、亡くなってしまった彼女の次男でした。彼は成長した青年の姿で母の前に現われていたのです。霊感の強い姪御さんは、その次男の存在を部屋の中に感じていたと言いますから、決して幻覚などではなかったでしょう。
思いがけない次男との再会、「あぁ、この子は立派に成長していた…」「大きくなっても、私のことを忘れないでいてくれた…」そんな風に嬉しく思ったことでしょう。そしてこの世での生から、死後の生へと移り進むための準備を始めたのです。長男に料理を教え、大切にしていた庭の花々の手入れを託しました。一緒に買い物にも行ってプレゼントを送り、きれいに身支度を整えて自分の遺影を撮影しました。そして1週間後、旅立っていったのです。旅立ちの瞬間、きっと次男が母をしっかり守り、導いてくれていっただろうと思います。
もう一人、若い頃に幼いこどもを亡くしたある女性の元に、一人のこどもがやってきました。その子は彼女の布団に入りたいと言うのです。 |
たとえば、私が看取ったあるおばあさんは、亡くなる直前に「あの子、あんな格好で寒くないかしら」とよく話していました。家族に確認すると、若いときに子どもを亡くされていて、どうやらその子どもが会いに来ていたようです。
ベッドの脇には私以外誰もいないのに、「この子、ベッドに入りたいというのよ。布団が足りないから、もう1枚持ってきて」と頼んでくるので、「今、そばにいるの?」と尋ねると、「いる」と答えました。
引用文献:前掲書, pp.50-51 |
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その女性はその子のことを「よくわからないんだけど親しみを感じる」とお話されたそうです。もしかしたらから赤ちゃんの頃に亡くなったお子さんが、大きくなり、遊び盛りの小学生の姿となって表れてきたのかもしれませんね。そうであれば、顔の印象が変わってしまうのも、無理ないことではありますね。
さて、奥野先生の身内の方にもそういう経験があるのだそうです。奥野先生のおばあ様は心臓病で亡くなる前の日「男の人がそこにいる」と話していたそうです。
おばあ様の息子さん(奥野先生のお母様の兄)は、学生帽と高下駄とマント姿の似合う学生で、家の前の階段を高下駄で元気よく駆け上がり、ただいまと元気に戸を開けて挨拶する青年でした。しかし戦時中、残念ながら腹膜炎で亡くなったのです。彼の死後、おばあ様は息子の後を追いたいほど落ち込み、泣き暮らしました。しかし息子の高下駄の音が聞こえる感覚がして、悲しみがやわらぐようになりました。それは単なる幻聴なのではなく、母を心配した息子の成せる技だったのかもしれません。「僕はいつもそばで見守っているんだからね」という思いを伝えるために…。
その後、月日は流れ、おばあ様が心臓病のため余命の限りとなりました。 |
「ああ、来てくれたのね」と宙を見ながら会話している。
その様子を見た母は「お兄ちゃんが来てくれたんだったら、仕方ないね」「ずっと、一緒に死にたいと言っていた人に会えたのだから、よかったじゃない」と気持ちの整理ができたと話していました。
引用文献:前掲書, pp.152-153
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当時学生さんだった息子さんがお迎えに来た時、すっかり成長した男性になっていたことから、おばあ様は最初はわからなかったそうです。でも面影と懐かしさから息子だと気付いたのでしょう。息子の名前を呼んでいたのでした。 |