病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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飛ノ台貝塚 抱き合った男女の人骨(複製)
(飛ノ台史跡公園博物館蔵)
 
 
合葬人骨出土状況(複製)
飛ノ台貝塚
(撮影許可あり)
場所・時代:
飛ノ台貝塚, 千葉県船橋市,
縄文時代早期(約7000年前), 1993年発掘
所蔵先:
飛ノ台史跡公園博物館(千葉)
出展先・年:
飛ノ台史跡公園博物館(千葉)常設展示, 2017
 

千葉県船橋市にある飛ノ台貝塚は、約7000年前、縄文時代早期の遺跡です。こちらの遺跡は、煮炊きや燻製といった火を使う調理の際に用いた「炉穴」が、全国で初めて発掘確認された遺跡として有名な場所です。

現在遺跡は史跡公園として整備されており、遺跡の一部が復元展示され、そばに博物館があります。
このあたりは、住宅密集地ですが、7000年前にも、確かにここで人の人生があったわけです。
数度にわたる発掘調査の内、平成5(1993)年の調査で、第8号貝塚の下にあった土壙から、 二人の人骨が発見されました。
飛ノ台遺跡
飛ノ台史跡公園 見取り図

右上の図では中央に第8号貝塚があり(黒い点で埋めてあるところ)、その右斜め下方にある楕円の部分が土壙(お墓)です。黒矢印が指している場所です。

出土した人骨の模型が遺跡横の博物館2階に展示されていました。事故か何かで二人一緒に亡くなってしまったのでしょうか?そして死後硬直が起こる前に、急いで誰かが二人が抱き合う姿勢をとらせ、埋葬してくれたのでしょうか?
生前、二人はとても仲が良かったことでしょう。そして、この二人がずっとこれから一緒にいられますように…と遺された家族が願ったことが伝わってくるようです。

二人の頭は北の方角に向けられ、互いに両膝を深く曲げていました。調査の結果、二人の年齢差は数年ほどで、男性は壮年期、女性は思春期の年頃だとわかったのです。
右は遺跡横の博物館内の展示解説パネルです。実際の発掘写真から書き起こした想像図が添えられていました。
飛ノ台遺跡
右の写真は復元された遺跡ですが、黄色の矢印が示すところが土壙です。土壙のすぐ横の白ク埋め尽くされている部分は、たくさん貝が出土したところです。土壙のすぐ横(一段掘り下げたような所)には、土が赤化した炉穴の跡がありました。土壙と別に仕切られて、炉穴として作られていたようです。 飛ノ台遺跡

船橋市の西ヶ堀込遺跡発掘現場に見学に行った時、関東ローム層は酸性で骨は埋まっていても溶けてしまうけれども、貝が捨てられていると、そのカルシウム分によって土のペーハーも酸性度が弱くなって、骨成分は守られると発掘に携わる職員の方から伺いました。

飛ノ台遺跡の抱き合う二人の人骨は、その上に貝塚が出来上がっていたことから、カルシウム分が土の下へと浸み込んで、二人の骨を守ってくれたのかなあと想像します。

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2017年12月当初、この記事を書いた後も貝塚から人骨が出土したことが、どうしても解せない部分がありました。貝塚は当時のゴミ捨て場として利用された跡だと私は理解していたからです。そのような場所になぜ人骨が…?何だかもやもやした気分だったのですが、その後ある論文の存在を知りました。昭和10(1935)年、人類学雑誌に発表された河野広道先生の「貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ」(※1)です。
河野広道先生は大正、昭和時代に活躍された研究者で、北海道史編纂の黎明期に編纂主任として携わった河野常吉氏のご子息です。初めて道史編纂が行われるに当たり、父常吉氏は膨大な資料を収集されました。その後広道氏はリュックサックを背負って古本屋を巡り、更に市町村要覧を片っ端から買い集めた(※2)というエピソードが伝わっています。広道先生は北海道帝国大学(現在の北海道大学)農学部で昆虫学を学ばれ、やがて研究分野は考古学にも広がっていきました。その後、広道先生は北海道大学構内から見つかった土器を示準資料として北大式土器を提唱し(※3)、モヨロ貝塚(北海道網走市)、東釧路貝塚(北海道釧路市)、朱円栗沢遺跡(北海道斜里郡)、御殿山遺跡(北海道日高郡)など貝塚や遺跡の発掘調査、指導を多く手掛けられ、北海道学芸大学札幌分校(現北海道教育大学札幌校)の教授として考古学研究者の育成にも関わられました(※4)

そうした数々の現場経験から広道先生は、貝塚からは人骨が出土することが多く、かえって人骨が伴わない貝塚の方がとても稀なくらいだと指摘されました。そして少なくとも北海道で見つかった人骨の葬り方は丁寧であり、完全な土器や石器なども副葬品として見つかることから「この事実は明らかに死者に対する情愛や畏れの情の表現であつて、宗教的な埋葬法である。」(※5)と述べられています。
広道先生は少年時代、なぜゴミ捨て場と考えられていた貝塚に死者を葬ったのか解釈に苦しんだそうですが、その後アイヌの思想や習俗を深く知るようになり「イオマンテ」の思想がその謎を解き明かすきっかけになったのです。
アイヌの神聖な儀式「イオマンテ」とは、熊をカムイ(神)の国に送る儀式としてよく知られていますが、広道先生によると野生であっても飼育した熊であってもイオマンテは営まれ、また熊以外の動物やフクロウや鷲のような鳥もイオマンテが行われたことが、アイヌの口伝やそれを記した古文書に散見される(※6)のだそうです。アイヌに食物を与えようと天上界に住む神々が人間界に姿を現す時、動物などの姿を借りて現れるのであり、だからこそ食べ終えた後の部分も粗末にせず、丁重に神の国へと「送る」ということです(※7)。 不要な部分にも神を見出したということですね。
19世紀初頭、アイヌの生活を記録した最上徳内の『渡島(おしま)筆記』には「魚鳥の羽毛骨節の如きも人の践むことなからん所を択て捨て」(※8)とあります。つまり当時のアイヌでは魚や鳥の羽毛や骨・節といったものを捨てる時、人間によって決して踏まれるようなことはない場所を選んで捨てたということです。アイヌは食料とした動物、鳥、魚介類のうち食べられなかったところに限らず、生活に必要な猟の道具、武具、農耕具、その他食器等で不用となったもの、壊れたものなども「送り」の対象にしました。ヌササン、ポンヌサと呼ばれる祭壇のそばにまとめられ、炉の灰さえも多量になると、まとめて一箇所にして神と人間との間を取り持つイナウを立てておくという徹底ぶりでした。やがて送りの場所に集められたものは腐ったり、分解されて消え去るわけですが、土器や貝、骨などは時を経て塚から発見されるのです(※9)。広道先生はアイヌがその生活に関わるものや器具を「送る」という考え方について「万物が人類と同様の精神作用を有するといふ万神思想と関連して居る。」(※10)と考えられました。
貝が大量に出て来ることから「貝塚」と現代では称していますが、そもそも古代に遡ってみれば、実は様々に神の世界へ「送られた」ものの集合体であったのであり「貝」塚とだけ称するのは、実は当時の実情からはかけ離れているのかもしれません。
そのように考えると、貝塚から出土する人骨は、亡くなった人を神の国、死後の世界へ送った証しとも言えるのではないでしょうか。

広道先生は次のように(※11)述べられています。

貝塚は、少なくともアイヌの場合には、前述の様に「物送り場」の跡であつて、物の霊を天国に送つた「骸」の置場である。従つて、現代文化人の塵捨場とは、目的は同じ廃物置場ではあるが、本質的には全く異る見方で取扱はれた。「物送り場」はタブーにより汚すことを厳禁され、物送り場に物を送るのは、一定の儀式と祈りとを捧げた後になされた。だからこそ、霊の上天した人間の遺骸をも亦貝塚に葬つたとて何の矛盾もない。

アイヌの考へ方に從へば、総ての物が生きて居るのであつて、それぞれ人と同様な精神生活を営んで居り、霊がその物体を離れるのが死といふ現象であり、器具などなら破損して用をなさなくなつた時がその物の死を意味する。この様な考へ方から、品物が毀れても物送り場に送り、動物を殺しても、植物を採つても、不用の部分は総て物送り場に送るのである。(略)兎に角、往時は上述の様な考へ方から、霊の上天した人の屍も、毀れた物も、同様に取扱つた時代がある。

引用文献:前掲書1, pp.157-158

貝塚から人骨が出てくることについて、貝塚であった土地が比較的掘りやすいために後年になってから墓地として再利用されたのでは?という考えもありますが、貝塚の年代と埋葬された遺骨の年代が同じ年代であることからも広道先生は「やはり本州先住民にも現代アイヌのイオマンテの思想に似た宗教的思想が存したことが想像出来る」(※12)とされています。

さて、本題に戻ります。アイヌの精神性を海を隔て遠く離れた千葉の飛ノ台貝塚に、そのまま重ねて考えるのは無理があるかもしれません。しかしながら今から約5500年前〜4000年前の人々の生きた証しである三内丸遺跡(青森県)からは、距離の遠さをものともしない当時の交流の様子を知ることができます。ここからは北海道産黒曜石の石槍も出土していますし、500km離れた新潟県糸魚川市周辺由来の翡翠や、580km離れた長野県産の黒曜石も見つかっています。また見つかったアスファルトや琥珀などは100-200km圏内から運ばれてきた(※13)そうです。そうした物の移動の背景には必ず人の交流があったのであり、そこに精神や思想が伝えられ、共有され、受け容れられたり、或いはそれぞれの土地流にアレンジされて変化を遂げることは、自然なことのように思えます。
飛ノ台貝塚の二人が送られたのはカムイ(神)の世界ではなく、別の観念、死後の世界だったのかもしれません。抱き合った姿で「送られた」二人と、その二人を「送った人」たち。そして二人のそばの赤化した炉穴は、火が焚かれた証拠です。二人のために何か火を伴う儀式がそばで行われていたのかもしれません。二人の「送り」をより良いものにするために…。
そして貝塚はこの世と神の国、あるいは死後の世界とをつなぐ実に神聖な場所だったのだろうと思います。故人を大切に悼む思いが今に伝わる場所、それが貝塚なのかもしれません。

 
引用文献・参考文献/史料
※1 河野廣道(1935)「貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ」『人類学雜誌』50(4), pp.151-160
※2 君 尹彦(2008)「戦後史の出発〜市町村要覧の史料的価値〜」『北海道立図書館江別移転40周年記念講演会記録』北の資料 120 特別号, 北海道立図書館, pp.1-2
※3 「河野広道博士と北大式土器」(2011)『北海道大学埋蔵文化財調査室ニュースレター』第11号, 北海道大学埋蔵文化財調査室
※4 大谷敏三「北海道考古学会の歩み(1)」(2011)『北海道考古学会だより』第101号,p.5
※5 前掲書1, p.151
※6 前掲書1, p.154
※7 前掲書1, pp.152-153
※8 前掲書1, p.156
※9 前掲書1, pp.155-156
※10 前掲書1, p.155
※11 前掲書1, pp.157-158
※12 前掲書1, p.159
※13 青森県教育庁文化財保護課 三内丸山遺跡保存活用推進室
パンフレット「三内丸山遺跡 −縄文時代の大規模集落−」
※14 飛ノ台史跡公園・博物館 展示解説パネル
 
改変 2018/5/14, 初出 2017/10/12 長原恵子