秋草文壺(国宝)
(慶応義塾 蔵・東京国立博物館 展示) |
|
品名: |
秋草文壺(国宝) |
|
|
出土: |
渥美窯 神奈川県川崎市幸区南加瀬出土 |
数量: |
1口 |
時代: |
平安時代・12世紀 |
所蔵先: |
東京・慶応義塾 |
展示会場: |
2018/4 東京国立博物館 平成館
(写真撮影許可あり) |
|
|
|
2017年冬に川崎市夢見ケ崎動物公園を訪れた際、近くの白山古墳から「秋草文壺」が出土したことが公園内看板に記されていました。それについてはブログ(※1)でも紹介しましたが、その実物を東京国立博物館で見ることができました。非常に素朴で落ち着いた、でもどことなく品のあるあたたかい感じの壺でした。今日は秋草文壺について取り上げたいと思います。
昭和の初め、慶応義塾大学が横浜の日吉台でキャンパス造営を行うに当たり、キャンパス内及びその周辺の地域で発掘調査が行われることになりました。そこで昭和17(1942)年4月、川崎市幸区の加瀬山、白山(はくさん)古墳も調査が行われたのです。白山古墳は現在の慶応義塾大学日吉キャンパスから、ちょうど東に600m(※2)のところに位置していました。その前方後円墳の白山古墳、その後円部直下からこの壺が出土したのです(※3)。
白山古墳周辺は現在判明しているだけでも11基の古墳や塚(※4)が築かれており、古くから栄えた場所でした。4世紀後半頃に築かれた白山古墳の木炭槨からは三角縁神獣鏡を始め、小型の内行花文鏡、刀、剣等が出土されていますから、時の権力者が埋葬されたと思われます。なかでも白山古墳の三角縁神獣鏡は同笵鏡(どうはんきょう:同一の鋳型から作られた鏡)が京都府椿井大塚山古墳から出土していることから、大和政権と密接な関わりがあったことを示唆している(※5)と考えられるそうです。しかし残念なことに白山古墳は戦前、川崎に進出した工場用地の盛土用として削られたために、ほぼ消滅してしまいました(※6)。
さて今回の「秋草文壺」は古墳の後円部直下に粘土が敷かれ、更に川原石が積まれた上に置かれていました。出土当時、火葬骨が壺に納められた状態でしたが、骨はきちんと供養埋葬され(※7)、現在の壺の中は空になっています。
|
灰白色の砂質の粘土で作られ、紐巻き上げに成型し、肩部分にかかったオリーブ色の自然釉が胴へ流れ落ちています(※8)。
薄、瓜、柳、萩などの植物が2本の線で区切られたスペースの中に線描されています。トンボも飛んでいます。
高さは40.5cm、口径17.6cm、底径14.2cmで、常滑焼に一番近似していると言われていたものの、渥美焼の代表作とされている(※9)そうです。 |
|
|
|
|
|
口辺部に「上」の文字が刻んであります。わざわざ上と刻むことの意味はわかりませんが、この壺が何か特別の目的で作られていることを示している(※10)と考えられています。 |
|
|
|
|
壺自体の様式から秋草文壺は12世紀のものと判定されました(※11)。この壺は古墳の領域を掘って、後から埋納されたものであり、そこに副葬品が伴われていたわけでもなく、誰の骨であったのか手がかりは発見されていません。しかし、古墳築造から秋草文壺が制作された年までの間には、随分時の隔たりがあります。そう考えると、古墳の被葬者と秋草文壺の人骨と何か直接の関係があるようには思えないものの、壺に納められた人にとってその場所は何か深い思い入れがあったと言えるでしょう。
秋草文壺、シンプルで素朴な図柄ではありますが、線描された薄の様子は、まるで穂を揺らす風の音さえも聞こえてきそうな、そんな風情を醸し出しています。故人の魂はこの壺の中でずっと秋を感じ、秋草やトンボたちを愛でていたことでしょう。 |
|
<参考資料・ウェブサイト> |
|
<写真> |
写真1〜6 |
秋草文壺 拡大図(当方撮影・撮影許可あり) |
|
|
|
2018/8/25 長原恵子 |