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家族の気持ちが行き詰まった時
塞ぎふこんだ心の底にあるもの

お子さんが大きな病気を発症し、治療、リハビリ生活を経てようやく我が家へと退院した時、家族はほっとした気持ちでいっぱいですね。そしてどうしたら早く元気になれるかと、自宅での療養生活に思いを巡らしているだろうと思います。でも、お子さん本人がなぜか暗い表情で、後ろ向きの態度だと、親御さんはとまどいがいっぱいになります。こんなに周りが応援しているのに、どうして?と。
そういうお子さんの心情を理解する上で役立つお話が、歌手の西城秀樹さんの闘病記の中にありました。秀樹さんは二度目の脳梗塞発症で退院した後、しばらく鬱々とした気持ちで過ごした時期があったそうです。秀樹さんは大人になってからの発症ですが、その赤裸々な内容は思春期を迎えたお子さんや、段々思考が深くなる年齢のお子さんたちの心情を理解するために、きっと参考になると思いますので、ご紹介したいと思います。

---*---*---*---

秀樹さんは初めて脳梗塞を発症した2003年6月当時、まだ長女は一歳の誕生日を迎えたばかりでした。そして新しい家族が奥様のお腹の中には宿っていたのです。病気を通して自分の中の弱さと対峙した秀樹さんが、強く立ち直っていったのは、家族の存在が非常に大きくありました。

病はぼくを人間として強くもしてくれた。脳梗塞になった当初、
「なんて、おれはこんなに弱虫なんだ。ぶざまな人間なんだ」
そう思った。しゃべれない、歌えない自分と向き合って、立ち向かっていく気力など、まるでなかった。親父の位牌が収められた仏壇に向かって、
「ごめんよ、おれ、こんなに弱かったとは、思わなかったよ」
亡くなった父親にむかつて、正直にそう告白したこともあった。
しかしぼくには家庭があった。そこから病いと闘う気力が少しずつ強くなっていった。

「俺はこの人生最大のライバル、脳梗塞に、真っ正面から挑戦してやる!」

自分に宣言して、立ち向かおうと思った。そして、病いと闘ううちに自分が人間として強くなっていくことを実感した。めげられない、負けてはいられない、土壇場のなかで、人間としてのぼくを、試されているように思えたし、鍛えられてもいった。
ただただ健康で、順風満帆に生きていたとしたら、分からなかったこと、体得できなかったことは、確かにあった。

「脳梗塞よ、ありがとう」

そう言ってもいい。それほどこの病気から受け取るものも大きかった。


引用文献 1:
西城秀樹(2004)『あきらめない ー脳梗塞からの挑戦ー』二見書房, p.148

そして八年後、二度目に脳梗塞が起こった時には、こどもたちは三人に増え、小学校三年生の長女を頭に年子の長男、次男、そして秀樹さんと奥様の五人家族となり、家の中では賑やかさが増していました。二度目の梗塞でのリハビリ病院から退院する際、秀樹さんの気持ちはしっかり前向きな気持ちを持っていたのでした。

「ぼくの症状は決して重いほうじゃない。何より、命があっただけでも幸せに思わなくちゃいけない。麻痺が残っていることや、リハビリがうまくできないことを恥ずかしいと思わず、今のありのままの姿を見せながら努力していこう」


引用文献 2:
西城秀樹(2012)『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』廣済堂出版, p.40

2012年1月下旬、秀樹さんの自宅療養生活が始まりました。しかし退院前の決意とは裏腹に、秀樹さんの心に立ち込めてきた暗雲は自宅での時間を重苦しいものに変えていったのです。バリアフリーが行き届いたリハビリ専門病院と自宅とを比べれば、当然自宅では不便な所も出てきます。自宅の限られた空間は、否が応でも病気によるネガティブな身体の変化をクローズアップすることにつながったのかもしれません。また、病院職員が自分に何かやってくれたことは、親切心からボランティアとしてやっているわけではなく、給与が支払われる仕事としてその役割を果たしているのです。更に家族と過ごす時間が増えたことにより、秀樹さんは家長としての自分をより一層強く意識する場面も増えてきたのでした。

育ちざかりの子どもたち三人と妻との生活の中で、大黒柱のぼくだけが不自由な体を抱えている。その事実がまた、ぼくの肩に重くのしかかってきたのだった。

引用文献:前掲書2, p.40

奥様は秀樹さんの回復を願って献身的に尽くしてくれました。一度目の脳梗塞の時も二度目の脳梗塞の時も、その姿勢は全くぶれることはなかったのです。秀樹さんは奥様へ素の自分を見せ、信頼を寄せていました。また秀樹さんが弱気になってしまった時も、奥様は秀樹さんの気持ちを否定するのではなく、寄り添い続けていたのでした。歴史書を読むのが好きな秀樹さんは坂本龍馬がお龍の前ではところ構わず泣きじゃくっていた、と知り、自分も龍馬と同様だと思いました。なぜなら外では虚勢を張っても、奥様の前では弱い自分を晒すこともあったからです。

「もう、歌手は廃業しなくちゃならないかもしれない」

ぼくは何度か妻に弱音を吐いたが、そんなときも妻はまったく動じない。

「そういうことは今すぐ決めなくてもいいんじゃないですか?
でも、あなたが決心したことなら、どんな道でもわたしはついていきますよ」

引用文献:前掲書2, p.41

「どんな道でもわたしは…」なかなか言えないことですね。「あなたが決心したことなら…」そういう奥様の言葉に、秀樹さんは彼女の寄せる深い信頼と愛情を改めて感じ取ったことでしょう。それでも自分に余裕のない時には、相手にあまりにもストレートな物言いをしてしまうことだってあります。心を許しているがゆえに。秀樹さんは最初の脳梗塞を発症した後、感情の起伏が激しくなっていたことを自覚されていたことから、自分で予防線を張っていました。それは自分の感情の不安定さが妻を傷つけてしまわないように…という秀樹さんの愛情の一つでもあったことでしょう。

「おれ、いまあんまりいい状態じゃないから、何も言わないでくれ」

脳梗塞になって、ぼくは感情の起伏が激しくなっている。ちょっとしたことで怒ってしまう危険性があるときには、あらかじめ、妻にそう言っておく。
妻はそのとき、言いたいことがあっても、先に延ばしてくれる。妻とのこういった上手なコミュニケーションが保てたことも、試練を和らげてくれる大きな一因だったと思う。


引用文献:前掲書1, pp.126-127

奥様の支えに感謝しながらも、二度目の脳梗塞の退院後、秀樹さんの心はどんどん内向きになってしまいました。
例えば立ち上がる時も支えを必要とし、トイレへ歩く時もステッキが手放せなかった秀樹さんに、奥様はさっと気遣いを示します。それが秀樹さんの心に負担を感じさせないよう、さりげなく行われていても、秀樹さんは素直に奥様へ感謝する気持ちが表せなかったのでした。決して奥様に対して反発していたわけではありません。自分が彼女に大きな負担を強いていると感じてしまったせいでした。

この病気は、発症した本人だけでなく、周囲で支える人もまた一緒に闘わなければならない。
それをごく普通にしてくれる妻に対し、「ありがたい」と思うと同時に、複雑な感情が生まれてしまう。「申し訳ない」という思いもあれば、「ほっておいてくれ」とも感じてしまう。ぼくの気持ちは、またしても後ろ向きになってしまったようだった。

「亭主がこんなに不自由な体になって、妻だってうれしいはずがない。
それなのになぜ、ぼくに文句の一つも言ってこないんだ!」

引用文献:前掲書2, p.42

秀樹さんは理不尽な怒りがこみ上げる時もあれば、自己否定で胸がいっぱいになる時もあったのでした。

「こんなにやさしくてしっかりした妻に迷惑をかける一方のぼくは、やっぱり生きている価値なんかない」

入院中に自分の弱さを自覚し、受け入れたはずなのに、家に帰ったらまた弱い自分が出てしまった。

僕が心を閉ざしていると、妻にもそれが伝染してしまうものらしい。退院して数週間は、お互いに言葉で相手を傷つけてしまうことを恐れ、ぎくしゃくした会話で必要最小限のことだけを伝えあっていた。退院直後の家には、気まずい空白の時間が多く流れていたような気がする。

引用文献:前掲書2, p.43

秀樹さんは病気をしたことによって「気持ち」「心持ち」そして「素直さ」がその回復には重要だと気付きを得たにもかかわらず、心の中の灯は消えかかってしまったのでした。行動も自ずと感情に伴い、自宅でのリハビリはちっとも進みませんでした。お風呂に入ってさっぱりしたいと思う気持ちも起こりませんでした。こどもたちがお風呂でパパの背中を流してあげようとついてきても「ありがとう」の前に先立つ気持ちは「こどもたちに不自由な動きを見せたくない」だったのです。

夜になると一人部屋に閉じこもり、別に観たいわけでもないCSチャンネルの映画と共に、いつの間にか眠りに落ちる瞬間をひたすら待つ、そんな毎日になりました。

一人になりたい、みんなぼくの見えないところにいて、話しかけないでくれ――。
退院後一、二週間はそんな思いでイライラしたりくよくよしたりしていた。自分ではあまり意識していなかったが、あの頃のぼくは、父親として子どもたちの前ではカッコいい姿を見せたいという気持ちが強かったのだと思う。

引用文献:前掲書2, p.44

入院中は毎日、退院することを目標に頑張ってきたからこそ、いざその目標にたどり着いてしまったら、これから何を目標にすれば良いのかと放心したのかもしれません。秀樹さんが具体的な日程を決めてステージへの復帰を目標に掲げれば、確かに励みになるでしょう。しかしそれを実現させるためには、多くの人が関わってきます。自分が懸命に努力しても、それまでに身体の状態が整わなかったら、それらの人の仕事自体にも影響することになります。周りに迷惑をかけないで、なおかつ自分の心を奮い立たせるような目標を掲げるために、暗中模索だったのかもしれませんね。

そんな秀樹さんを変えてくれたのは、こどもたちでした。

あの日あのとき、と記憶している印象的な出来事があったわけではないが、家で家族と過ごすうち、少しずつ前向きに考える時間が増えてきた。

引用文献:前掲書2, p.45

こどもたちの優しさを素直に受け取ることのできなかった秀樹さんが、こどもたちに感謝を示すようになっていったのです。

ぼくが薬を取り出すとコップに水をくんできてくれる莉子、薬を落とすとすぐに拾ってくれようとする慎之介を見ているうち、
「ありがとう。でも大丈夫、パパが自分でやるから」、
こんな言葉がいつの間にか出るようになっていた。

朝顔を合わせた妻に、「おはよう!」とぼくから声をかけられるようになったのも、それと同じ頃だったと思う。

引用文献:前掲書2, p.45

家の中の雰囲気が少しずつ変わり、奥様もほっとしたことでしょう。でも、一気に秀樹さんの葛藤が消えて、ポジティブモードへ一変したわけではありません。自己との対話をずっと繰り返し、秀樹さんは気持ちの舳先を「頑張ろう」の方向へ向けて進んでいったのでした。

「もうぼくはこのまま一生、家族の世話にならなければならないのか」

「いや、歩みがのろくても毎日の努力を欠かさなければ、いつかぜったい元通りの体に戻る。妻や子どもたちがこんなにぼくを手伝ってくれているのに、ぼくだけが怠けていてどうするんだ」

「だけど、ここまで一生懸命リハビリしてきても、たいしてよくならないじゃないか。ぼくはもうだめなんだ。」

「そんなことでどうする!どうせ人間、いつかは死ぬ。
このまま死ぬのを待つか、頑張ってチャレンジし続けていくか、選ぶとしたら頑張っている姿のまま死んでいくほうに決まっているだろう!」

一日のうちに何十回、何百回とこんなふうに自問自答していたが、「頑張ろう」と思う回数が多くなってきたのだ。

引用文献:前掲書2, pp.45-46

秀樹さんは迷いながらも、自分で進む道を見つけていったのです。

今まではそんな自分がもどかしかったが、「成長期の子どもたちと過ごす貴重な時間を神様から与えられた」と思うと家庭での生活ががぜん楽しくなってきた。(略)子どもたちと密に触れ合う中で、実際は子どもたちも、ぼくの「成長」を促し、見守っていてくれていることに気づいた。

引用文献:前掲書2, p.46

自分が見守っていたはずのこどもによって、見守られていた自分。そんな風にこどもたちが立派に成長してくれたのは、奥様のおかげだと秀樹さんは気付いたのでした。

もちろん、その陰には妻の存在がある。ぼくのことを大切にしている妻の姿を見て、子どもたちには弱いものをいたわる気持ちが芽生え、それを支える行動力が身についたようだ。そう、ぼくは弱いパパでもいい。うまく歩けなくても、言葉がつかえても、それをそのまま、子どもたちに見せればいい。(略)リハビリを頑張って、少しずつ健康な生活を取り戻す姿を子どもたちに見せたい。そして末っ子が成人式を迎えるまでは、どんなことがあっても元気でいたい。そう思った時、体の中から勇気や希望がわいてくるのを感じた。

引用文献:前掲書2, p.47

一時は大黒柱としてのあまりにも大きな責任から、現状を悲観し、心を閉ざした時期もあった秀樹さんでしたが、奥様、お子さんの存在によって大きな気付きと力を得て、変わっていったのでした。本人を責めたり、せかしたりすることなく、じっくり考える時間を与えること、それは家族のできるとても大きな関わりだと思うのです。心配でたまらず、あれこれ手を差し伸べたいと思っていても、本人には自分で考えるための時間が必要なのですから。

 
参考文献・ウェブサイト:
※1 西城秀樹(2004)『あきらめない ー脳梗塞からの挑戦ー』二見書房
※2 西城秀樹(2012)『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』廣済堂出版
 
お子さんの言動が後ろ向きになっている時、それはお子さんが自分自身の進む道を探ろうと格闘し、もがいている時です。本人の気付きは力に変わって、だんだん言動の変化の兆しが表れてくるはずです。
2018/9/3  長原恵子
 

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