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10数年もの間、度重なる脳梗塞を患いながらも、努力を続けてきた歌手の西城秀樹さんが2018年5月に永眠された半年後、奥様の木本美紀さんが手記『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を発表されました。そこには幾度となく試練が訪れても、前を向いて生きようと懸命に努力していた西城さんの姿と共に、西城さんを支え続けた美紀さんと3人のお子さんたちの様子が率直に綴られていました。そしてこれまでマスコミに公にはされていなかった西城さんの脳梗塞の実際の発症回数や、新たな病気(多系統萎縮症)のことも明らかにされました。想像よりも遥かに超える大変さを当時西城さんが抱えながら生きていたと知り、改めて驚きでいっぱいでした。そしてこんなに厳しい病状でありながらも、2020年に東京で開催されるオリンピックで、西城さんの国民的大ヒット曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A)」を歌うことを目標に掲げ、意識を失う当日午後までリハビリに取り組んでいたという西城さん。回復の明るい兆しがはっきりと見えない手探りの中、西城さんと共に、ご家族はどう過ごしていたのでしょう。様々なご家庭に参考になるお話が出て来るので今日はご紹介したいと思います。

2001年6月に美紀さんと結婚した西城さんはその年の11月、脳梗塞を発症しました。ふらつきや話し辛さ等が起こりましたが、当時マスコミには二次性多血症と過労による脱水で入院と発表され、入院治療を受けたのでした。その後、2003年6月に公演先の韓国で脳梗塞を発症し、帰国後マスコミに初めて脳梗塞と発表されました。それらを含めて西城さんは計8回脳梗塞を発症し、治療が続けられたのでした。その他、結婚前からあった糖尿病、そして2013年には白内障、頭部外傷、2014年12月には多系統萎縮症と診断された西城さん。その時間の流れの中で、美紀さんは西城さんが健康を取り戻せるよう、日常生活の面から献身的に支え続けてきたのでした。多い時には14種類もの薬を西城さんは内服されていたそうですが、できるだけ自然な形で栄養を摂ろうと美紀さんは食事に極力野菜を取り入れ、西城さんが苦手な生野菜には火を通して味付けを工夫していました。共に外出する際、西城さんがふらつく時は手をつなぎ、西城さんが低血糖発作を起こしたらすぐに対処できるよう、ブドウ糖等も常備して同行されていたのでした。

西城さんの病状は決して楽観視できる状態ではなかったものの、病気のために暗い生活を送っていたわけではありません。西城さんは脳梗塞発症後も歌だけでなくドラマやミュージカル、そして園芸に関するテレビの仕事等もこなし、活動の幅を広げると共に、家庭では子煩悩ぶりを発揮して愛情に充ちた時間を過ごされていました。2002年から年子で3人、子宝に恵まれた西城さん宅の食卓は本当に賑やかで、美紀さんが幼いこどもたちにお互いの話をしっかり聞こうとルールを教え、場を仕切ることもしばしばでした。「いとおしい日常」と題した章の中では、話す順番を待ちきれない西城さんがルールを破り、思わずこどもから指摘される、といった和気藹々とした食卓の風景や、微笑ましい西城さんのパパぶりも登場します。

にぎやかな食卓だったなあ、と今、いとおしく感じられるのは、あたりまえだったそんな日常の風景です。


引用文献 A:
木本美紀(2018)『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』小学館, p.120

西城さんは美紀さんが3人のこどもたちの育児で大奮闘しつつも、夫の脳梗塞が何とか再発しないようにと、日常生活の面からしっかり支えてくれていたことを、本当にありがたく思っていました。2005年1月号の雑誌インタビューに答えていた西城さんの言葉には、美紀さんの存在を心強く思い、とても頼りにしていたことが表れています。

僕の病気を気丈に受け止め、ずっと励まし続けてくれた彼女の存在がなかったら、僕は闘えなかったと思う。本当にかけがえのないパートナーです。この病気はいつ再発するかわからない。僕の導火線にはまだ火がついているようなものなんです。今でもときどき不安になり、つい弱音を吐いてしまうこともありますが、そんなとき、いつも彼女が励ましてくれる。全く頭が上がりません。(笑)


引用文献 B:
「再録 今なお心に響くインタビュー 西城秀樹さん、その輝きは永遠に(病気をしなければ、大事なことを見失ったままだった 2005年1月22号インタビュー再掲)」『婦人公論』2019年6月25日号, 中央公論新社, p.58

そして病気と共に生きていく中で、西城さんは大きな気付きを得るようになっていたのです。

遅まきながらではありますが、他人が見たときの魅力に左右されず、自分自身が輝いていられるかどうか、ということだけを基準に生きていくことが、やっと出来るようになってきた気がします。周りの評価を気にせず、カリスマ性をまとう必要もなく、マイペースで、ありのままの自分をさらけだせる。今の環境はありがたいです。

となれば、次は、自分が気づいたこと、生きることのすばらしさを、歌や芝居を通じて伝えていきたい。歌がうまいかへたかというのは、もはやそんなに大きな問題ではないけれど、以前よりもずっと、言葉を大切にするようになりました。(略)

そんな心で歌う歌が、「元気で生きていこうよ」というメッセージとして皆さんに伝われば、それこそが僕がずっと求めてきたことだと思うんです。それが、奇跡的に助けられた僕の、使命のような気がしてならないんです。

引用文献:前掲書B, pp.58-59

人は誰しも環境によって随分気持ちの浮き沈みが左右されるもの。そこに病気の存在が加わることにより、気持ちの沈む度合いは加速度的になることもあるでしょう。西城さんも例外ではありません。それゆえ美紀さんは西城さんの気持ちの昂揚が欠けてしまうような頃、例えば年末年始の華やかなイベント関連の仕事が収まる頃、次のような気遣いをしていたのでした。2012年2月当時のことです。

私にできることは、変わらず明るく接することでした。
世の中には、脳梗塞でもっと重度の障害が残ってしまう方もいます。治療が間に合わず、亡くなってしまった方もいらっしゃるでしょう。でも秀樹さんは、杖をついて歩くこともできれば、自力で食べることもできる。神さまに感謝しなくちゃ。子供達にも、生きているということは当たり前のことではない、奇跡なんだから、一瞬一瞬を大切に懸命に生きていかなくちゃね、と伝えてきました。そのありがたさを忘れずに、けれど以前と同じように、秀樹さんがステージ上で駆け回る日が来ることを心の底から祈っていました。

引用文献:前掲書A, p.139

そうした期待に応えるかのような西城さんの頑張る姿を知ることができます。ちょうど2012年2月末に開催された第65回日本選手権競輪の開会式でのことです。西城さんはゆっくり、しっかりとした足取りで会場中央に設置されたスタンドマイクまで歩き、アカペラで見事に国歌独唱されました。この2カ月前、実は西城さんに6度目の大きな脳梗塞が起こり、開催直前のディナーショーを急遽余儀なくキャンセルし、10日間の入院治療を受けていたのでした。その後、リハビリ病院に転院し、3週間の猛特訓に挑んでいましたが、右足を引きずり、引っかかる右足の甲から出血して靴下には血がにじみ、一人で身体のバランスを取ることも難しい状況だったと、一体誰が想像できるでしょうか。開会式での国家独唱のお仕事は、恐らく入院する随分前から決まっていたはずです。これ以上キャンセルすることなく、何とか仕事をやり遂げたいという責任感が西城さんを突き動かし、短期間での見事な回復をもたらしたのだろうと思います。

その年の夏、7回目の脳梗塞入院を経ながらも遠くブラジル サンパウロでの公演もこなし、迎えた年末、西城さんは友人でもある小倉淳さんの対談番組に出演されました。和やかな雰囲気で番組開始から30分ほど経過した頃、西城さんは2度の脳梗塞発症(当時マスコミには2003年6月と2011年12月発症の脳梗塞だけが発表されていました)により、気持ちが折れることはなかったのかと尋ねられると、次のように答えられました。

いやあ、折れそうになったよ。折れそうになったけれど、折れそうになったのを支えたのは家族だね。こどもがいるし、頑張らなきゃという思いがやっぱり、こうさせてくれたんだろうね。

引用サイト C:
「今夜も築地テラスで with 西城秀樹」JPLIVE.TV(2012年12月3日対談)

その翌年2013年1月、脳梗塞の8回目の入院治療を受けた時のことを、美紀さんは次のように綴っています。

私も心がくずれ落ちそうでしたが、悪いほうへは考えないようにするしかありません。仕事のオファーも少しずつ復活してきているこのタイミングで、わざわざ入院を明かすことはできませんでした。

引用文献:前掲書A, p.144

当時、慶応義塾大学病院で西城さんの主治医だった神経内科教授の鈴木則宏先生(『蒼い空へ』のインタビュー時は湘南慶育病院院長)は次のようにお話されています。

西城さんの場合、軽い脳梗塞を何度も繰り返し発症したということが特徴でした。すなわち、寝たきりという状態にはなりませんでしたが、問題は再発のリスクが高かったことです。何か所も脳梗塞による血管の詰まりが起こって、それがもう抑えきれない状態になってしまったということでしょう。動きに関しては、相当お辛い思いをされていたにもかかわらず、努力で打ち克ってステージにも立たれていたと思います。

引用文献:前掲書A, pp.130-131

2013年秋頃、西城さんの右半身麻痺はかなり回復したものの、ひどい眩暈に襲われるようになりました。病院で診察も受けていましたが、原因不明。家族が「クルクル病」と呼んでいたその状態を抱えつつ、仕事をこなしていた西城さんでしたが、やはりその影響なのでしょうか、玄関で転倒して後頭部を3,4針縫合するほどのけがも負いました。そしてようやく2014年12月、多系統萎縮症の疑いがあるとわかったのです。

脳梗塞は血管が何らかの原因で詰まってしまい、その先の血流が途絶えて脳細胞がダメージを受けるものですが、多系統萎縮症とは小脳系や錘体路(すいたいろ)が侵される病気です。脳梗塞の影響で身体の自由が利かなくなってもリハビリで何とか回復してきた西城さんにとって、身体のバランスや力を司る機能に新たな不調の波が押し寄せることは本当に辛く、耐え難いことだったでしょう。ふらつきや立ちくらみが増し、言葉を明瞭に話せない、排泄系の支障、手先の細かい動きができない……自分の積み重ねてきた努力の証しがどんどん指の間からすり抜けて消えていくようで、戸惑い、苛立ち、怒りを通り越し、恐怖や絶望を喚起してもおかしくはありません。美紀さんは「これ以上病気を進行させないで」と神に願う気持ちだったのでした。こんなに過酷な状況に置かれながらも、西城さんが負けない姿勢を崩さなかったことは、主治医の鈴木先生もよくご存知でした。

ここ4、5年は、本当にお辛かったことでしょう。(略)西城さんは常に前を向いていらっしゃいました。治療の過程で印象的だったのは、西城さんが病気に負けていなかったことです。何をしたらよくなるのか、どんなトレーニングをしたらいいのか、毎回、熱心に質問される。治る手立てがあるなら、と全力で努力されていました。そのがんばりの姿勢に、私自身も刺激を受けました。同じく脳梗塞と闘う患者さんやご家族も、勇気をもらえるのではないでしょうか。

引用文献:前掲書A, p. 187

2015年2月、3,120日ぶりに西城さんは新曲「蜃気楼」を発表されました。西城さんの公式HPで試聴することができます。大変な難病を患っていたことを微塵も感じさせない、力強い歌声です。この歌の中で、次の歌詞が出てきます。まるで西城さんの苦悩を表したかのようです。

もう一度だけなら立てる気がした
焦げつきそうなこの身体
闇に塵の世 一筋の光求めて
どうにもならないと諦めていた
胸が引き裂かれる痛み


引用楽曲:西城秀樹「蜃気楼」 作詞・作曲 ko

同年4月、西城さんは還暦記念アルバム「心響 -KODOU」を発表し、東京 赤坂BLITZでバースデーライブを開催しました。TBSの情報番組「ビビット」が密着取材していた中、「こどもがまだ小さいから頑張ろうという気になるんですよね。」と嬉しそうに語る西城さん。そして楽屋で弾ける笑顔の3人のお子さんたち。西城さんはリハビリのために読んでいるという松下幸之助の名言「今日気にかかることは、明日は気にかからない」を挙げ、「くよくよしてもしょうがないと。 前向いて歩こうという言葉が好きですね。」そう話していました。

2015年の還暦ライブを終えたあたりから、西城さんは精気が失せたような感じが増え、調子を崩した後の戻りが悪くなり、緩やかな下降線をたどるようになりました。2016年秋頃からは表情の変化が一層乏しくなり、あまり身の回りに関心を示さなくなりました。そしてプライベートでの外出を億劫がるようになりました。美紀さん自身そうした西城さんの変化は辛かったけれども、少しでも刺激を増やそうと外へ連れ出すよう努め、今まで通り語りかけ、冗談を言って、家で明るい雰囲気を保ち続けようとしたのでした。多系統萎縮症の根本的な治療はまだ解明されていない中、症状の改善が期待できる治療が始められ、美紀さんも頑張って西城さんを支え続けました。

たいへんなことが起こっても、私の心が折れずにやってこられたのは、子供達の存在があったからだと思います。

引用文献:前掲書A, p.174

そして2017年、末っ子の悠天(ゆうま)君が中学生になった頃、美紀さんは3人のこどもたちに西城さんの病状を包み隠さずお話されました。思えば西城さんが「脳梗塞」という病気で入院や内服、リハビリが必要なのだとこどもたちに説明したのは、悠天君が小学生になった頃でした。節目の頃、3人それぞれがきちんと理解できるタイミングを見計らって、父親の病気を伝えていたことは、こどもたちの自覚を促す上で、とても大切なことだと思います。

パパは体が前よりも、思うように動かなくなってきている。ひとりで歩くのもたいへんなの。
話しかけても、ちゃんと答えてくれないかもしれない。同じことを何度も聞いてくるかもしれない。言ったことを忘れちゃうかもしれない。でもそれは病気なの。わざとやってるんじゃないんだよ。パパはパパで、がんばってるんだよ。

引用文献:前掲書A, p.176

認めたくないけれども、認めざるを得ない事実。こどもたちはそれぞれの心で母の言葉をしっかり受け止めたのでした。病気のために西城さんの注意力が行き届きにくい部分は、家族全員でさりげなくフォローするよう更に団結していきました。

振り返ってみると、どんなことがあっても、とにかく家族だけは固く結びついていたかった。(略)秀樹さんと3人の子供という家庭をもって、たいへんなことや辛いこともあったけど、必ずうれしいこと、楽しいことを毎日見つけられた。パパが上手に歩けないことよりも、昨日よりちょっとでも歩けたことがうれしかった。

先の見えない闘病の日々でしたが、家族5人が一緒にいられる、そんな日々が少しでも長く続くことだけが支えの日々でした。

引用文献:前掲書A, pp.184-185

長女の莉子さんは日々父のリハビリを兼ねた散歩に頻繁に付き合い、父へのメッセージを手紙に書いていました。リハビリをちょっとさぼってエレベーターを使おうとする父に「パパちゃん、階段!」と促す莉子さんの言葉は威力を発揮し、美紀さんも「娘からの願いであるとうまくいくことが多い」と実感するほどでした。もちろん西城さん自身も「娘に励まされ、支えられているなあ」という思いでいっぱいだったことでしょう。2001年11月に西城さんが1回目の脳梗塞を発症した時、莉子さんの命は美紀さんのお腹の中に宿っていました。莉子さんは既にこの世に生まれ出る前から病身の父を見守り、励まし、加護する大きな力になっていたのです。

学校から帰ると「パパは?」と美紀さんに西城さんの様子を尋ね、西城さんの寝室に押しかけてお菓子を並べ、どれがいい?と尋ねる次男の悠天君。その姿に西城さんは心和む一時を覚えると共に、何としても末っ子の悠天君が成人するまでは見届けたい、と強く心に誓ったことでしょう。西城さんが亡くなった6日後、自宅で行われたフジテレビのインタビュー「直撃!シンソウ坂上」で悠天君は「身体が不自由だからと言って、人は人じゃないですか。お父さんはお父さんだし。だから一人のお父さんとしてしか見てませんでした。」と語っていました。彼は身体の不自由さを抱えながらも頑張る父を物心ついた時からずっと、見て育ってきたのです。中学2年生の青年の口を突いた言葉はあまりに凛として、清々しく立派でした。

素晴らしいドラムの演奏をする父のかつての姿を知り、ドラムを習い始めた長男慎之介君にとって、西城さんは「カッコいいパパ」であり、誇りに思っていたのでした。だからこそ父親の病状を直視し難かったのでしょう。中学に進学した頃、西城さんに学校に来ないでほしい、自分も友人宅のように父親からサッカーを教わりたいのに、と感情を爆発させたことがありました。その時、美紀さんは学校に通えるのもサッカーができるのも、それは皆、父のおかげなのだと慎之介君を厳しく叱り諭し、慎之介君が西城さんに謝ったことがありました。
慎之介君の葛藤、それは西城さんが誰よりもひしひしと感じていたことなのかもしれません。2012年12月、JPLIVE.TVの対談番組「今夜も築地テラスで」の中で西城さんは「今の一番の目標はサッカーできること、観てるだけじゃダメ!」と語っていました。当時サッカーが得意な小学3年生だった慎之介君に、自分が父としてサッカーを教えてあげたい、と強く望んでいた西城さん。その思いはずっと西城さんの心の中から消えることはなかったことでしょう。慎之介君は西城さんの心の奥底に潜んだ思いを読み取り、鏡のように映し出すことに長けていたのかもしれません。そこで耳にする慎之介君への美紀さんの叱責は、たとえどんな病状であっても夫として、こどもたちの父親として自分を尊重してくれる妻の深い愛情に改めて直面する機会にもなっていたはずです。西城さん自身が覚えていた焦りや苛立ちを率直に代弁してくれたかのような慎之介君に、本当は西城さんの方がありがとうと伝えたかったかもしれません。

2018年4月中旬、西城さんは栃木県で開かれた1960年代、70年代の往年のヒットソングを歌う同窓会コンサートに出席し、10日ほど経った4月25日もステージでの完全復活を目指して午後、リハビリに出かけていました。帰宅後、夕食に美紀さんお手製のスペアリブ、ポトフ、サラダ、白ご飯をしっかり味わった西城さん。いつものように家族と共にくつろぐ時間を過ごしていた時、西城さんは突然痙攣を起こし、意識を失いました。悠天君が119番に電話し、救急隊員の指示の元、美紀さんが心臓マッサージを試み、駆け付けた救急車によって病院に搬送されました。そしてそこから22日間、血圧がかなり下がった時も家族の声によって持ち直し、最期まで踏ん張り通して、2018年5月16日、西城さんは息を引き取ったのでした。享年63歳、家族の愛情に包まれた旅立ちでした。

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大変な病状だった西城さんが、決して自分の目標を諦めることなく、努力をし続けることができたのはなぜでしょう? そこには応援してくれるファンのためにも頑張りたい、という気持ちがあったでしょうし、その西城さんの気持ちを尊重し、共に同じ未来を目指してくれる「同志」のような家族の存在がとても大きかったのだと思います。とても険しい道のりであるけれども同志の家族は共に歩き、西城さんが精一杯努力できる日常環境を整えてくれました。家族の存在が西城さんの日常の中に彩りをもたらし、そこから西城さんの気持ちも鼓舞され、リハビリに励む原動力が生まれたのでした。家族が西城さんを夫、父として尊敬し、大切に思ってくれたこと、それは西城さんの闘病生活の中で、揺るぎのない自己肯定の原点になったのだと思います。

こどもたちが成長する過程で、こどもなりに相手の立場や気持ちを思い遣る気持ちは十分育ちつつも、やっぱり自分のことも見てほしい……そんな気持ちが出てくるのは当然です。時には家族の感情がぶつかり合うこともあったけれど、それはどこの家庭でもあること。ともするとバラバラになってしまいそうな状況をしっかり引きとめて再び望ましい方向へと進むことができたのは、ひとえに美紀さんの頑張りによるものであり、3人のお子さんの心根の素直さによるところが非常に大きいと思いました。

西城さんは2013年2月、チーム医療推進協議会のインタビューを受けられています。そこには西城さんの取り組むリハビリの内容、そして家族への思いや当事者だからこそ語れる現代医療の問題点等、実に示唆に富むお話が語られていました。西城さんは病院から患者が退院した後の家族の役割について、次のように語っています。

「(その際に重要なことは)単なる同情ではダメだということ。家族がヘルパーになってはダメだということです」

(略)「患者を支える周囲の人たちも、患者と一緒になって闘わなければならないことを一人でも多くの人に知ってほしい」

引用サイト D:
チーム医療推進協議会HP 西城秀樹さんインタビュー前編

西城さんが語る「単なる同情ではダメ」「家族がヘルパーになってはダメ」、それは不自由な身体やできない生活行動を補うこと以上に、求めたいことがあるという意味だと思います。大変な病気を抱えながらも生き続けていく時に必要なのは、情けをかけられることではなく、今の自分を理解し、受け容れてくれ、努力する自分と共に一緒に未来を見てほしい、ということなのだと思います。そして家族がその役割を担うこと自体、決してたやすいことではなく、家族にも大きな負担を求めることになる。だからこそ「患者」だけでなく「その家族」にも目を向け、時にはその家族にもサポートの手を差し伸べてほしい、と望んでいたのでしょう。

西城さんは病を得た自分自身が精一杯生きて輝き、気付きを歌として届けることが「奇跡的に助けられた僕の使命」と自覚されていましたが、西城さんを支え、守り続けた家族の存在は、西城さんの今世の使命を更に一段と高い偉大なものへと押し上げる働きを果たしたのだろうと思いました。

 
引用文献・ウェブサイト一覧:
※A 木本美紀(2018)『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』小学館
※B 「再録 今なお心に響くインタビュー 西城秀樹さん、その輝きは永遠に(病気をしなければ、大事なことを見失ったままだった 2005年1月22号インタビュー再掲)」『婦人公論』2019年6月25日号, 中央公論新社
※C 「今夜も築地テラスで with 西城秀樹」JPLIVE.TV(2012年12月3日対談)
※D チーム医療推進協議会HP 西城秀樹さんインタビュー前編
 
引用写真:
※1 木本美紀(2018)『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』小学館, 巻頭ページ
※2 同上
 
一人ではとても乗り越えられない苦境の中、自己肯定を重ね、頑張る意欲を生み出していくには、同志である家族の果たす役割がとても大きいのだと思いました。
2019/7/15 長原恵子
 
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