親と亡き子を繋ぐ「後瀬」への思い |
こどもとの死別の後、会いたい、でももう会えない……その現実が親により一層大きな悲しみをもたらします。こどもを恋しく思う気持ちを閉ざすことなどできません。一生、会えないことを「苦しみ」として抱えて生きていくのか、あるいは覆せない死という事実に今迄とは違った角度から視線を向けることで、親の生き辛さを変えることができるのか? 今日は『万葉集』の先人たちの歌を通して、心の綾の行方を考えていこうと思います。今回の歌は亡き人を偲ぶ挽歌ではなく、男女の恋愛感情を詠んだ相聞歌です。「会いたいけれども会えない、でもいつの日か必ず会いたい」その気持ちを伝えるため、選ばれた言葉がありました。それは実際に今も福井県に存在する地名「後瀬山」です。「後瀬山」その言葉に潜むとても大きな力を探ってみましょう。
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多くの方が学生時代、国語や古文の時間に『万葉集』を学んだ記憶があるかと思いますが、Lana-Peaceのエッセイの中で『万葉集』を取り上げるのは初めてなので、少し振り返っておきます。
『万葉集』は今から遡ること1300年ほど前、7世紀前半から8世紀半ばにかけて、我が国の皇族から庶民に至る様々な人々の詠んだ歌が収められた和歌集です。現在の日本の元号「令和」は『万葉集』の中に登場するある歌の序文「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ……」から導かれ、生まれました(※1)。天平2(730)年正月13日、大伴旅人(おおともの
たびと)が大宰府で開いた梅を愛でる宴席で詠まれた歌32首(『万葉集』巻5, 815-846番)の序文となります。
『万葉集』には4,516首もの和歌が20巻に収められています。この編纂に携わった人物として伝わるのが旅人の息子、大伴家持(おおともの
やかもち, 718-785年)でした。天平17(745)年正月7日、家持は従五位下(じゅごいのげ)に昇叙されましたが、すぐに官職に任命されたわけではありません。家持は文才のみならずプロジェクトの遂行能力に長けた人物だったのでしょうか、左大臣橘諸兄(たちばなの
もろえ)から『万葉集』編纂の命を受け、巻16までの編纂業務に従事していたと考えられています(※2)。『続日本紀』によると家持はその翌年3月10日、宮内省の少輔(しょう)に任命された(※3)ことから、それまでの約一年、この大事業に臨んだということですね。家持の詠んだ歌数は『万葉集』に収められた歌の中でも最多で、巻16までに147首(※4)もあり、巻17以降は家持の歌日記とも称されています。家持は非常に才気溢れた人物であったことが伺えます。
その大伴家持と大伴坂上大嬢(おおともの さかのうえの おおおとめ)が交わした相聞歌が今日の題材です。相聞歌とは親しい間柄の人へ歌を贈り、その歌に応えてまたお返事の歌を詠み交わすもので『万葉集』に多く見られます。時は8世紀前半、和歌の中でお互いの気持ちを伝えあっていたのでした。
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■家持と坂上大嬢
天平3(731)年7月、14歳だった家持は父旅人を亡くしました。父の後ろ盾を失った家持及び弟・妹らの生活を支えてくれたのは、旅人の異母妹である大伴坂上郎女(おおともの
さかのうえの いらつめ)でした(※5)。『万葉集』には坂上郎女の歌も数多く登場します。その中には坂上郎女が大伴氏の私有地であった跡見田庄(とみのたどころ)や竹田庄(たけだのたどころ)で詠んだ歌があります(※6)。坂上郎女はそうした私有地管理のため、農繁期に出向いて作業の監督や実作業に当たった(※7)そうですから、経済的な基盤を持ち、統率力のある叔母が甥家族の生活を支えた、というところでしょう。坂上郎女には二人の娘が居ました。その長女が坂上大嬢です。家持は坂上大嬢とこの頃、顔を合わせる機会も増えたと考えられます。 |
■最初の結婚
天平4(732)年前後、15歳の家持は坂上大嬢と最初の結婚をしたと考えられています(※8)。当時の貴族社会では同族の財産の散逸を防ぎ、結束を固めるためにこうした非常に近しい血縁間の結婚が一般的に行われていました(※9)。『万葉集』巻4には坂上大嬢が家持宛てに天平3-4年頃に詠んだと考えられている(※10)報贈歌が4首登場します(581-584番)。これらの歌に先立つ家持の「贈歌」は万葉集編纂段階で削除された(※11)ようですから、家持の気持ちを知ることはできません。しかしながら坂上大嬢の4首を見ると、彼女が家持との関係にとても不安を感じていたことが伝わってきます。自分の元を訪れなくなり、誰かに言伝さえ頼むことのない家持は、もうすっかり心変わりしてしまったのだろうか……。当時は夫が妻の元を通う妻問婚が主流ですから、待つ立場の身としては、随分心細かったことでしょう。いてもたってもいられない気持ちの坂上大嬢は歌の中で自分を「幼婦(たわやめ)」と称しています。
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ますらをも かく恋ひけるを たわやめの 恋ふる心に たぐひあらめやも
引用文献A:
小島憲之ほか校注・訳(1994)『新編日本古典文学全集 6 万葉集 1 巻第一〜巻第四』小学館, p.313
『万葉集』巻4, 582番 |
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あなたのような立派な男性さえも恋しい思いを抱えているのに、私は比べようもないほどもっと恋しく思っている、でも私のような幼き未熟者は恋する気持ちを抑えることができず、凛としてなどいられない。それは仕方ないではありませんか、どうかわかってほしい……そういう気持ちが滲み出ています。当時の律令で婚姻は男子15歳、女子は13歳以上と定められていました。坂上大嬢の生年は定かになっていませんが、家持のことを「ますらを」と表現していることを考えると、坂上大嬢は家持よりも年下であった可能性が高いと言えます。結婚が許されるぎりぎりの数え年13歳だったのでしょうか。思春期の頃はたとえ1歳差であっても、随分成長の隔たりを感じるものです。坂上大嬢が自分のことを幼稚に情けなく思い、卑下する気持ちが出てくるのも、無理ないことかもしれません。
毎朝、春日山に雲がたなびくが如く、家持を恋しく思う気持ちは絶えたことなどない、と坂上大嬢は表現したのでした。「春日山」は平城京から東方に位置し、奈良の都に住む坂上大嬢にとって日々の暮らしに溶け込む光景だと言えます。
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春日山 朝立つ雲の 居ぬ日なく 見まくの欲しき 君にもあるかも
引用文献:前掲書A, p.314
『万葉集』巻4, 584番
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この584番の歌を最後に、坂上大嬢と家持の相聞歌は数年間途絶えてしまいました。
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■娘を憂う母の心
坂上郎女は長女夫婦の関係性に随分やきもきしたことでしょう。『万葉集』619番に坂上郎女の詠んだ怨恨歌が登場します。この歌の前書きには誰宛ての歌であるか明記されていません。しかしながら歌の後半で登場する「幼婦(たわやめ)」という表現は、数多くの『万葉集』の中でこの歌と坂上大嬢の詠んだ前出の582番しかないことから、娘の思いを母が代作したものと考えられています(※12)。
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(略)たづきを知らに たわやめと 言はくも著(しる)く
手童(たわらは)の 音(ね)のみ泣きつつ たもとほり 君が使ひを 待ちやかねてむ
引用文献:前掲書A,
pp.323-324
『万葉集』巻4, 619番
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家持に対してたとえ娘がまだ幼く至らないところがあったとしても、それを含めて受け容れてくれないか、ずっと愛すると言い続けてきた家持を信じて娘は心を許したのに、すっかり関係が疎くなってしまい、娘はまるで小さなこどものように声をあげ嘆き、泣き暮らす姿が哀れでならない、といった母の気持ちが伝わってきます。
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■家持、幾人もの交流と新たな家庭
坂上大嬢と坂上郎女の気持ちをよそに、家持は幾人かの女性と相聞歌を交わし、やがてある女性との間に家庭を築くようになりました。坂上郎女との往来歌や交流状況から、その女性との関係は家持17〜19歳の頃に始まった可能性が高いと考えられています(※13)。その幸せは長く続かず、女性は天平11(739)年6月、幼い子とまだ22歳の家持を残して亡くなりました。家持は開花した撫子を見ては植えた彼女を思い出し、秋風の冷たさは一層身に沁みることを歌に詠んでいます。『万葉集』462番の歌の前には「過ぎにし妾(をみなめ)を悲傷して作る」と添えられています。「妾」の字を用いたのは後年の妻坂上大嬢にはばかったからであろう(※14)と考えられていますが、この女性が若き日の家持にとってかけがえのない人であったことは言うまでもありません。 |
■家持と坂上大嬢の再会
その年の8月、坂上郎女は家持を竹田庄へと招待しました。死別の悲しみに暮れる家持を励ましつつも、坂上大嬢との縁を再び取り戻すための計らいだったのではないでしょうか。竹田庄は現在の橿原市東竹田町の辺り(※15)です。家持は遠い道のりではあったけれども、会いたくてはるばるやってきたと歌に詠みました。「妹を相見に 出でてそ我が来し」(※16)と表現したことから、坂上大嬢がここで席を共にしていたことが強く考えられます。小野寺静子氏の論文「大伴家女流歌の研究」(※17)によると家持の奈良の佐保の邸から坂上の里(坂上郎女・坂上大嬢の住まいのある場所)までは約1.2km、こちら現代の地図では奈良市法連町のホテルリガーレ春日野あたりと佐保川を挟んで南に下った位置に相当します。移動に差し障りがあるような距離とは言えません。一方、竹田庄は家持と坂上大嬢の住まいからそれぞれ20km程も南下した、かなり離れた場所となります。家持を竹田庄にわざわざ招いたのは、妾と死別後まだ月浅い家持と坂上大嬢が席を共にすることへ、人々が向ける批判的な目をかわすためだったのかもしれません。
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■「後瀬山」に託した思い
その後、数年の隔たりを埋めるかのように、二人の相聞歌が始まりました。『万葉集』巻4の727番からお目見えします。家持から坂上大嬢には5回に渡って21首が贈られました(※18)。これらの歌は天平11年から12年の間に詠まれたものと考えられています(※19)。再会後の形式的な挨拶といったものではなく、坂上大嬢のことを忘れようにも忘れられない、誰もいない所へ二人連れ立ち、寄り添いあっていられたら、どんなにか幸せだろうと情熱的な言葉から始まります。
それに対して坂上大嬢から家持に3回、6首の歌が贈られました。その中で春日山が詠まれた歌が登場します。735番の歌です。坂上大嬢は会いたいけれども会えない思いを、朧月夜に照らされた春日山の光景で表現しました。最初の結婚当時、会いたい気持ちが絶えぬ様子を前出584番のように「春日山の朝の雲」で表わしましたが、今回は会えず心憂う様子を「春日山の夜の霞」に投影したのです。雲や霞、うつろうものがどうであれ、坂上大嬢は動かぬ春日山の如く何年経ってもひたむきに家持のことを思っていたのですよ、と伝えたかったのかもしれません。
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春日山 霞たなびき 心ぐく 照れる月夜に ひとりかも寝む
引用文献:
引用文献:前掲書A, p.359
『万葉集』巻4, 735番 |
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そして周りの人々からどのように言われたとしても、家持に会いたい、その強い思いを坂上大嬢は次のように詠みました。
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かにかくに 人は言ふとも 若狭道(わかさぢ)の 後瀬の山の 後も逢はむ君
引用文献:前掲書A, p.359
『万葉集』巻4, 737番 |
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これに対して家持は次の歌を贈りました。
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後瀬山 後も逢はむと 思へこそ 死ぬべきものを 今日まで生けれ
引用文献:前掲書A, p.360
『万葉集』巻4, 739番 |
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『万葉集』関連の本には「後瀬山(のちせやま)」は後で逢おうという気持ちを表現するために用いた序詞(じょことば)としての解釈が記されています。和歌の手ほどきを受ける時、当時彼らがお決まり事として習っていた、ということであれば特に気に留める必要はないのかもしれません。しかしながら『万葉集』の中で逢瀬、再会を強く望む気持ちを表わす歌は数あれど、この2首しか「後瀬山」が登場しないことは、ひときわ目を引く事実だと私は思います。「後瀬山」は当時、序詞としてそれほど用いられていなかったのでしょうか?
あるいは家持が編纂時にあえて「後瀬山」が詠み込まれた他の歌をはずしたのでしょうか? そうだとしたら、それはなぜ?
彼らの歌を際立たせるためでしょうか? 更に見過ごせないのは家持と坂上大嬢との相聞歌で「後瀬山」を最初に用いたのは、かつて「幼婦」と自己卑下していた坂上大嬢だ、という点です。それほど技巧を凝らさず、シンプルな歌だからこそ「後瀬の山」にかけた思いが率直に表われています。
後瀬山は現在の福井県小浜市にある小浜湾を望む山。奈良から直線距離にして90kmも北上した若狭の地にあるのです。坂上大嬢にとって若狭は馴染みの深い場所だったのでしょうか? 『続日本紀』の養老3(719)年7月13日条には備後国守である大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ:坂上大嬢の父)に安芸・周防の二国を管掌させると記されています(※20)。これは現在の広島から山口の東半分に相当する場所にあたります。備後国守赴任時、奈良から経由地としてわざわざ若狭を通ったとは考えにくいところです。したがって坂上大嬢が父から思い出話として何度も若狭の話を聞いていた可能性は限りなく低いでしょう。また、坂上郎女が管理した大伴氏の私有地が若狭にあった可能性を示す資料を今回見つけられませんでした。坂上大嬢にとって後瀬山は縁の深い場所ではなく、序詞の一つとしての位置付けであったと考えられます。
坂上大嬢は「周りの人々からあれこれ噂を立てられたり、非難されたとしても、若狭道にある後瀬山の名が示すように、私は今後、あなたに会いたいと思っているのです、他でもないあなたに」と詠んだわけです。歌の前半ではもう噂や中傷、批判といった騒音に傷つくような私ではない、と毅然とした現在の態度が表され、「後瀬の山」の後に続く歌の後半ではこれから会いたい、と未来に向けた強い意思が表されています。家持が別家庭を築いていた数年間、坂上大嬢は会いたくてもその願いは叶わない過去があったことを考えると、「後瀬の山」は「後=これから、未来」の「瀬=機会」つまり希望を象徴する言葉だったと言えます。
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それに対して家持は歌の冒頭に「後瀬山」持ってきて、返事の歌を詠みました。坂上大嬢の胸にあった「後瀬」への強いメッセージが、家持の胸に届いたからでしょう。「死ぬほど苦しい時期があったけれど、まさに後瀬山の名が表すように、あなたにこれから会えると思えばこそ、私は今日まで生き抜くことができたのです」そこには坂上大嬢以上の情熱的な表現がとられています。
妾との死別後、これからどう生きていけばいいのか、余りに辛すぎる、自分も死んでしまいそうなほど苦しい、そうした家持にとって自分へ変わらぬ愛情を表現してくれる坂上大嬢とこれから会うことは、迷いや恐れを払拭し、希望のある将来へ向かう原動力に繋がると感じたことでしょう。家持、坂上大嬢双方にとって「これから」「会う」ことを心待ちにする気持ちが共に生きる力になったと言えます。
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その後、500年近い時を経て、藤原定家が詠んだ恋の歌の中に「後瀬山」が登場しました。それは家持と坂上大嬢らの歌と同様に、やはり生きる力をもたらしたのです。
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たのめおきし後瀬の山の一(ひと)ことや恋を祈りの命なりける
引用文献B:
佐竹昭広ほか編・樋口芳麻呂ほか校注(1994)『新日本古典文学大系 46 中世和歌集
鎌倉篇』「定家卿百番自歌合」岩波書店, p.146
75番 左 内大臣家百首, 149 |
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この恋がうまくいきますようにと祈っていた私にとって、再会を暗示する「後瀬の山」その一言は私の心の支えであり、まさに命だったのです、と詠まれたものです。
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亡くしたこどもを恋しく思う時、会えなくて、寂しくて、死ぬほど辛いと感じた時でも「いつかこれから、きっと会える時が来る」そう言い聞かせることは力になってくれます。普段は死後の世界を信じていない人でも、我が子のことになると話は別です。我が子は死後、天国、極楽、浄土等、所謂もう何も脅える必要のない安寧な世界の中でその魂が生き続けている、そう思うものです。そこはいつか親も寿命が尽きた時に向かう場所、だからこそ、その世界での「再会」に向けて気持ちを仕切り直し、今をしっかり生きようとするモードに変わることが遺された者にとって大きな助けになるのです。「いつか会える」それは希望になるからです。その「いつか」に向けて親の生きる姿勢に変化が訪れます。先立った我が子と再会する時、あんなことも、こんなことも……と伝えたいことはたくさんです。それは我が子が悲しみの涙を流さずにはいられない話となるのか、あるいは嬉しく驚き、共に喜び合う涙となるのか、それは遺された親のその後の人生によって随分変わることでしょう。もちろん人生は喜びが善で悲しみが悪、などと切り分けられるような単純な話ではありません。どちらもその親が一生懸命生きた証です。ただ一つ言えることは後瀬での再会時、先立った子が「自分のせいで親は苦しみしか得られなかった」と苦悩に苛まれる親の生き方では、親も子も幸せになれないということです。以前こちら(※21)で紹介した武蔵野大学の学祖である高楠順次郎先生の言葉を思い出します。高楠先生は明治41(1908)年2月、生後5カ月の次男八十男(やそお)君をジフテリアで亡くしました。
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愛児をして父母を泣かした不孝の子たらしめず、父母を教へた智識の孝子たらしめねばならぬ。
引用文献C:
高楠順次郎(1937) 「亡児八十男の追懐」, 村田勤・鈴木龍司編, 『子を喪へる親の心』岩波書店, pp.204-205
(※WEBの表示上、旧漢字は当方が改めています) |
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愛しい我が子の早すぎる死を思うと、親の涙は絶えることがないけれども、いつまでも息子を親を泣かせる親不孝者にしてはならない。息子は父母に様々な気付きや導きをもたらしてくれた、親孝行な子なのだ、決して親不孝なのではない、と思えるように、自分の意識を変えていくことが必要であることを高楠先生は手記の中で綴られています。
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今年3月、私は初めて「後瀬山」という名の椿を東京で見ました。ほんのりと淡いピンク色で殆ど白と言っても良い美しい品のある椿でした。いつの時代からこう名付けられたのでしょうか。現在の後瀬山の麓には人魚の肉を食べた後、800年生き長らえて日本全国を行脚して善行を重ねたという八百比丘尼の入定洞があります。椿を愛し、玉椿の姫と呼ばれた八百比丘尼は最期に地元若狭に戻り、洞窟の入口に椿を植えて入定しました。福井県小浜市のHPでその伝説の動画を見ることができます(※22)。
椿「後瀬山」の命名由来がこの伝説に基づくかどうかは不明ですが、安政6(1859)年、糀屋亀五郎により刊行されたという『椿伊呂波名寄色附(つばき
いろは なよせ いろずけ)』という椿一覧集に「後瀬山」が登場します。現在それは文久3(1863)年にできた写本を宮城県図書館のデジタルコレクション「叡智の杜Web」で見ることができます。実に便利な世の中です。18コマ目に「の」で始まる椿の2番目に「後瀬山」が名を連ねています(※23)。「いつか会えますように」と古代から切なる願いを重ね合わせられてきた「後瀬山」の名を得たこの椿、これから毎年、この椿を見るたびに「後の瀬」を思うことにより、人は希望を見出し、力が湧き出ることを改めて思い返すことになるでしょう。 |
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<引用参考文献・資料, ウェブサイト> |
※1 |
内閣府HP「元号について【令和】改元に際しての内閣総理大臣談話」 |
※2 |
小野寛編・著(2010)『万葉集をつくった大伴家持大事典』笠間書院, pp.32-33 |
※3 |
経済雑誌社編(1897-1901)『国史大系 第2巻 続日本紀』巻16, p.263,
国会図書館デジタルコレクション 137コマ目 |
※4 |
前掲書2, p.33 |
※5 |
小野寛(2013)『大伴家持』笠間書院, p.10 |
※6 |
大伴坂上郎女が跡見庄で詠んだ歌は『万葉集』巻4, 723-724番, 巻8, 1560-1561番、竹田庄で詠んだ歌は『万葉集』巻4, 760, 761番, 巻8, 1592-1593,
1620番として登場します。 |
※7 |
小島憲之ほか校注・訳(1994)『新編日本古典文学全集 6 万葉集 1 』巻第一〜巻第四,
小学館, p.366 注釈 |
※8 |
鉄野昌弘(2013)『大伴家持』創元社, pp.19-21 |
※9 |
前掲書8, p.20 |
※10 |
前掲書7, p.356 注釈 |
※11 |
前掲書7, pp.312-313 注釈 |
※12 |
前掲書7, pp.323-324 注釈 |
※13 |
藤井一二(2017)『大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯』中央公論新社, p.9 |
※14 |
前掲書7, p.255 注釈 |
※15 |
奈良県HP「万葉のうた
第5回 竹田庄」 |
※16 |
『万葉集』巻8, 1619番 「玉鉾の 道は遠けど はしきやし 妹を相見に 出でてそ我が来し」
小島憲之ほか校注・訳(1995)『新編日本古典文学全集
7 万葉集 2 』巻第五〜巻第九,
小学館, p.362 |
※17 |
小野寺静子氏は「大伴家女流歌の研究」の中で佐保の邸・坂上里について川口常孝氏が想定された場所から2邸の間の距離をkmで算出されています(論文中, p.17)
小野寺静子(1986)「大伴家女流歌の研究」『札幌大学女子短期大学部紀要』pp.9-28 |
※18 |
大伴家持が詠んだ相聞歌は『万葉集』巻4,
727-728, 732-734, 736, 739-740, 741-755番,
大伴坂上大嬢が詠んだ相聞歌は巻4, 729-731, 735, 737-738番として登場します。 |
※19 |
前掲書2, pp.394-395 年表注釈 |
※20 |
前掲書3, 巻8, p.116,
国会図書館デジタルコレクション 64コマ目 |
※21 |
Lana-Peaceエッセイ「父母を教えた智識の孝子」 |
※22 |
福井県小浜市HP「八百比丘尼物語」 |
※23 |
『椿伊呂波名寄色附(つばき いろは なよせ いろずけ)』
写本, 1863, 宮城県図書館「叡智の杜Web」掲載18コマ |
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参考文献 |
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小野寛編・著(2010)『万葉集をつくった大伴家持大事典』笠間書院 |
※ |
北山茂夫(2009)『大伴家持』平凡社 |
※ |
鉄野昌弘(2013)『大伴家持』創元社 |
※ |
藤井一二(2017)『大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯』中央公論新社 |
※ |
宇治谷孟 訳(1992)『続日本紀 中 全現代語訳』講談社 |
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<写真> |
写真1 |
椿「後瀬山」
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2021/3 東京・練馬区立夏の雲公園「つばき園」当方撮影 |
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