病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
Lana-Peace 「大切なお子さんを亡くされたご家族のページ」
大切なお子さんに先立たれたご家族のために…
 
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お子さんを亡くした古今東西の人々
声を詰まらせた父

奴隷解放宣言で知られる第16代 アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン氏は、4人お子さんがいらっしゃいましたが、そのうち2人の息子さんに幼いうちに先立たれました。
リンカーンは生前、うつ病を患っていたのではと言われていますが、そうした病気を抱えながら、いくつもの苦境を経ていった姿を知ることは、現代の私たちにとって、大きな示唆が得られるような気がいたしますので、今日は取り上げたいと思います。

1850年2月1日、リンカーンの次男エドワード君は3歳で亡くなりました。その詳細はわかりませんが、亡くなって約3週間後、2月23日に継弟のジョン・ジョンストン氏に次のような短いメモが記されています。

「おそらくご存じないと思うので書きますが、私たちは息子を亡くしました。52日間病気で、今月1日の朝死にました。
長男ではなく次男でしたが。つらい思いをしております」

引用文献:
ジョシュア・ウルフ・シェンク著,越智道雄訳(2013)
『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』
明石書店, p.166

「約2カ月」ではなく「52日間」と書き記したリンカーンの心情。
リンカーンにとってその1日、1日がきっと忘れられない大切な日々だったのでしょう。短いメモではありますが、リンカーンの親心が伝わってくるものであります。

その後、1862年1月、三男ウィリアム君と四男トーマス君がチフスにかかってしまいました。軍の野営地から出る排池物と下水道本管の損傷によって当時、生活水源とされていたポトマック川の水が、汚染されていたのだそうです。共に11歳、8歳の幼い子どもであり、リンカーン夫妻は随分心配したことでしょう。
エッセイ「珈琲と娘」で取り上げた副島八十六(そえじま やそろく)氏の長女五十枝さんも、チフスが原因で亡くなっていますが、安心して水が飲める現在の衛生環境は、本当にありがたいことだと思い知らされます。
ウィリアム君の症状は胃痙攣と下痢で始まったそうですが、悪化し、翌月、2月18日、昏睡状態になってしまい、20日、亡くなったのです。
リンカーンのその悲哀は次のように伝わっています。

メアリー・リンカーンのドレスメイカーのエリザベス・ケクリーがウィリーの遺体を清めているところへ大統領が入ってきて、初めてわが子の死を知った。
リンカーンはベッドへ歩み寄ると、ウイリーの顔を覆っていた布をとり、長い間、わが子の顔を見つめていた。
そして、この子はこの世で生きていくには善良すぎたと言った。「この子に死なれるのはつらい、つらい」と言いながら、声を詰まらせた。
「大統領は両手で頭を抱えた」と、ケクリーは言っている。
「つらさのあまり、あの大きな体が震えた。私は、ベッドの足元に突っ立ったまま、涙が止まらず、口もきけず、畏怖の念に打たれて相手を見つめるばかりだった。大統領は悲しみに心挫け、弱い、何もできない子供に帰ったようだった。」

引用文献:前掲書, p.275

三男ウィリアム君は、次男エドワード君が亡くなった年の12月21日に生まれたお子さんでしたから、父リンカーンにとって、ウィリアム君に寄せる何か格別な思いがあったかもしれません。そのウィリアム君が亡くなった打撃は長く続いたようで、3年後の夫婦の会話の中にも表れています。

1865年4月14日、馬車の中で、リンカーンは妻と次のような会話をしていました。

「ねえ、あなた」と、彼女は呼びかけた。
「ずいぶんとご機嫌でいらっしゃること、びっくりだわ」と。
「私たちは2人とも、これから先、もっと上機嫌になるにちがいないよ」と、夫が答えた。
「戦争といとしいウィリーに死なれて、ずいぶんと惨めな思いをしたからね」とも。
この週の始め、夫妻は第2期政権が終わればどうしようかと話し合った。

引用文献:前掲書, p.324

この会話の数時間後、リンカーンは暗殺犯に撃たれ、翌日、その生涯を終えたのです。リンカーンはウィリアム君に先立たれた後、その死の間際まで、心の中が惨憺たる思いが長く続いていたことが伝わってきますね。

周囲の人々の言葉によると、リンカーンは次のような側面がありました。

※1 ジョーゼフ・ギレスピー氏の言葉

「つらい思いをしていても、それを人前で話題にしたことはない」上に、「優しい人物だったが、感じやすさを面に表すことはなかった」

※2 妻のメアリー・リンカーンの言葉
「非常に深い所で感じる」夫ではあったが、「その感情を面に剥きだす人ではなかった。顔に出すことはまずなかった」

※1, ※2共に引用文献:前掲書, p.167

様々な交錯した感情があっても、リンカーンはそれを心の内側に押し込めてしまうところがあったようです。でも言葉数が少ないからといって、何も感じていないというわけではありません。
なかなか自分の心の内を表さない人が、口に出した言葉は、たとえそれが短いものであっても、一つ一つに大きな重みがあることを忘れてはいけませんね。

お子さんの死によって大きなショックを受けたリンカーンが、生き続けていくために助けになったことは、一体何だったのでしょうか。
エッセイ「救命筏となるもの」でそこについて考えてみたいと思います。

 
気持ちを表す言葉が見当たらない時もあるけれど、とにかく何か言葉にして外に出すことが、心の均衡をとるうえで、大切なのだと思います。
2014/4/13  長原恵子