縄文時代、四肢麻痺を生き抜いた人
1. 北海道 入江貝塚・後編(現地訪問記) |
縄文時代後期約4,000年前、四肢麻痺がありつつも10代後半まで人生をまっとうすることのできた北海道の10代青年(入江9号人骨)のお話(※1)をご紹介しましたが、彼の生きていた場所にぜひ行ってみたいと思い、2019年6月、1年半越しでようやく現地の北海道虻田郡洞爺湖町の入江貝塚に行ってきました。
入江貝塚はJR室蘭本線洞爺駅から東南に1.3kmほど下ったところにあります。洞爺駅方面から向かう時、入江貝塚までの間にはこちらで紹介した高砂貝塚(※2)と入江・高砂貝塚館があります。
|
|
入江貝塚は噴火湾沿岸から300mほど内陸側に位置し、標高約20mの海岸段丘の上にあります。洞爺駅周辺を散策していた時、噴火湾命名の由来が記された看板が立てられていました。イギリス海軍中佐ブロートンの著書『北太平洋探検の航海』によると、寛政8(1796)年8月、彼が指揮していた北太平洋探検船「プロビデンス号」が虻田沖にやってきた折、湾に火山が3つも見えたことからブロートンは「Volcano
bay
(噴火湾)」と命名したのだそうです。彼らが上陸した先には美しい川の流れる緑豊かな土地に、アイヌの人々が集落を築いていました。そこで航行に必要な飲料水や薪の調達を行ったのです。もちろん入江9号の生きていた縄文時代からは随分時代は下るものの、噴火湾沿いのこの辺りは古き時代から人々の暮らしに大きな恵みをもたらす場所だったのでしょう。
|
|
洞爺駅からスタートして入江・高砂貝塚館へ向かい、そこから高砂貝塚に寄り道してからのどかな住宅街の中を歩き進むと、入江貝塚が見えてきました。現在は史跡公園として整備され、立ち入ることができます。
|
|
入江貝塚の存在が明らかになったのは昭和17(1942)年です。道路開削時にA地点貝塚の一部が発見されました。その後、昭和25年(1950)、峰山
巌教諭と伊達高校郷土研究部が初めて発掘調査を行い、この台地上に大きな貝塚が3カ所(A地点・B地点・C地点)と縄文時代の竪穴住居があることがわかったのです。下の図は昭和29(1954)年、入江貝塚でA地点貝塚の発掘調査が行われた当時、描かれたものです。室蘭本線が図の下側を横切るように走っています。
|
|
右の地層は入江貝塚の剥ぎ取り地層です。5000年前迄の縄文時代前期、3500年前迄の縄文時代中期、3000年前までの縄文時代後期の後、近世へと続き、寛文3(1663)年に噴火した有珠山の火山灰が堆積し、現在の表土に至ります。 |
|
|
|
|
貝塚は2.8mもの層に及び、この中から縄文時代の土器、石器、骨角器、人骨、貝殻、動物の骨等、様々な出土がありました。貝塚から人骨が見つかることについて貝塚館の解説パネルには「貝塚はゴミ捨て場ではなく、神聖な場所で、食べ物や使っていた道具なども「葬った場所」であったのかもしれません。」(※3)と記されていました。ヒトもモノもみなすべて等しく、この世で活動や役目を果たし終えた後は高いリスペクトをもって貝塚に葬られたのでしょう。
|
入江9号人骨が見つかったのは昭和41(1966)年及び昭和42(1967)年、北海道高等学校郷土教育研究会(考古学担当)と札幌医科大学解剖学教室(人類学担当)によって行われたC地点貝塚の発掘調査でした。C地点貝塚の一部は現在、貝塚トンネルとして保護され、トンネル側面と底面から貝塚断面を見学できるようになっています。
|
|
当時の発掘では縄文前期末、中期、後期初頭の人骨が計15体見つかりましたが、埋葬方法はそのほとんどが屈葬で、埋葬のための土坑は確認されていません。その代わり盛土上部に配石を施したり、黄色粘土が人骨を覆う例が見られていることから、穴を掘って埋葬したのではなく、土をかけて埋葬し、盛り上がった状態になったと推察されています(※4)。9号人骨の墓域は盛土上部に配石があり、北北東に頭を向けて座葬に近い屈葬として石銛と共に埋葬されていましたが、平成24年度の報告書には9号人骨の墓域から見つかった土器片の写真が掲載されていました。凸型の帯状の文様や縄目の文様を見て取ることができます。元々完全な形で納められていた土器が壊れて一部だけ発見されたというよりは、それぞれ異なる土器のかけらが9号人骨の墓域に埋納されていたような印象を強く持ちます。高砂貝塚の例のようにあらかじめ破壊した土器片を埋納(※5)したのでしょうか?
|
|
9号人骨はどんな暮らしをしていたのでしょう。現在の入江貝塚史跡公園内には、平成5年度の発掘調査の結果を元にした縄文時代後期(約3500年前)の竪穴住居が復元されていました。竪穴住居の大きさは縦約7m、幅約6mの楕円形で床面は60cm掘りこまれ、固く踏みしめられた床の中央には石で組まれた炉があり、住居内から多くの入江式土器が出土しました(※6)。入江9号の生きていた時代は縄文時代後期といっても約4,000年前と考えられており、復元されていた住居よりも更に500年ほど時代を遡るため、その作り等はもっと原始的なところがあったことでしょう。
|
|
幼少期にポリオにかかった(※7)、あるいは筋ジストロフィーを発症した(※8)と考えられる入江9号は、10数年に渡って寝たきりの状態が続いたと考えられますが、ずっと竪穴住居の中で過ごしていたのでしょうか?
こちらの復元住居は入り口以外の開口部がないため、焚火をたかなければ内部は大変暗く、常にここで過ごすのでは気が滅入ってしまいそうです。現在の入江貝塚に立つと眼下には貝塚の西に広がる住宅街の屋根が連なって見え、その向こうに美しい噴火湾を臨むことができます。当時は縄文海進によってもっと海岸線が貝塚寄りだったかもしれません。前編の写真3(※9)で示したように、入江9号の歯はとても美しく生え揃っていました。長い年月、両手の麻痺があってもこうしてきれいに歯を保つことができるほど、家族によって食事、歯磨き、うがい等をしっかり介助してもらっていたのであれば、そうした基本的な日常生活行動だけでなく、心地良く過ごせるような配慮もとられていたことでしょう。家族に抱き上げられて竪穴住居内から外に連れ出してもらい、海や空を見ることもできただろうと推察します。
|
「貝塚」と聞くと、多量の貝殻が出土していることがイメージされますが、入江貝塚は貝の含まれる割合が少なく、魚や動物の骨が多い特徴があります。貝の多い貝塚を「白い貝塚」と表現される一方、貝の少ない入江貝塚は「黒い貝塚」と呼ばれるそうです。貝塚から見つかった貝は70種類以上にのぼり、アサリ、ウバガイ、ウニ等見つかっています。当時獲物を捕るために人々は様々な工夫を行ったようで、ニシンやカレイ等の小型の魚は網を使い、マグロ、カツオ、ブリ、サメ等の大型の魚は動物の骨を利用して作った釣り針を使い、イルカ、オットセイ、トドといった海獣類は骨角製の銛が使われたと考えられています。入江9号はしっかりした歯や顎の持ち主だったことから、そうした海の恵みも皆と一緒にきっとおいしく食べていたことでしょう。
|
|
入江9号と直接関係があるというわけではありませんが、入江・高砂貝塚館に展示されていた入江貝塚出土物の中で、ひときわ印象に残ったものがありました。それはイノシシの下顎犬歯を利用して作られた装身具です(写真24)。
こちらは平成5(1993)年、町道の改良工事に伴い行われた遺物回収調査で見つかったもので、本来はC地点貝塚に伴うと考えられる埋土から回収された遺物(※10)だそうです。あまりにもきれいだったのでレプリカなのかと思って館内スタッフに尋ねたら「本物です」とのこと。
イノシシは津軽海峡のブラキストン線を隔てて、本来は北海道に自然生息していない動物です。しかしながら入江貝塚からイノシシの犬歯由来の装身具が出土した事実は、当時本州の人々と入江貝塚の人々との交流があったことを示唆するものであり、海を越えてやってきた人々からどうしても手に入れたい、とそこに価値を見出した人々がいたことの証明でもありますね。
|
|
写真26は入江貝塚の公園内に設置されていた解説パネルを撮影したものです。現代のオスのイノシシの下顎骨標本(写真26上段)と装身具(写真26下段)との比較がありました。
|
|
下顎骨標本写真の左側で上方、下方の外側に向かってカーブしている白い部分がイノシシの犬歯です。犬歯の長さは下顎骨から見えている部分よりも倍以上あるそうで、この内側に収まっています。長い犬歯のカーブを利用して土台を作り、犬歯の先端を切断してその土台に1つずつ貼り付けたのでしょうか?
北海道庁環境生活部
文化局文化振興課のウェブサイト(※11)によると、この装身具は人の歯をデザインしたもので、痕跡的であるものの赤い顔料で歯茎が表現され、左右合わせて使ったと考えられているそうです。遥か昔、点滴等ない縄文時代、人々にとって口から飲食できるかどうかはまさに生命の分かれ目だったことでしょう。しっかりした歯と歯茎、それは力強い生命の象徴であったのかもしれません。それゆえこのような装身具を作り、病気の人にお守り代わりに身につけさせていたのだろうかと想像します。
|
それではなぜ歯と歯茎を再現した装身具が他の動物ではなくイノシシが選ばれ、そしてその中でも「犬歯」が選ばれたのでしょうか?
復興庁の『福島県避難
12 市町村イノシシ被害対策技術マニュアル』(※12)には現代のイノシシが犬歯で樹木の幹に傷をつけた痕跡の写真が掲載されていました。こんなに鋭い跡が残るとはものすごい威力です。イノシシの牙は一生伸び続けるそうですから、イノシシに強くたくましい生命力を見出し、そこにあやかりたいと人々が願ったでしょうし、イノシシに神性を見出したとしても不思議ではありません。
|
そこでふと思い出したのが千葉県船橋市の取掛(とりかけ)西貝塚のイノシシの話です。こちらの遺跡の002竪穴住居跡でヤマトシジミ主体の貝層下部から10体を超えるイノシシの頭蓋骨、切断されたシカの頭蓋骨、立てられたまま焼かれたオスのシカの頭部が見つかったのでした。動物儀礼の跡と考えられています。約1万年前、縄文時代早期中葉のものです。
|
|
写真27 取掛西貝塚(千葉・船橋) 動物儀礼跡 |
|
数ある動物の中でもなぜこの2種類が儀礼の動物として選ばれたのでしょうか?取掛西貝塚のこの儀礼の痕跡について飛ノ台史跡公園博物館企画展の解説パンフレットには「近くの山に棲み、狩猟の対象となったイノシシやシカは、彼らにとってなくてはならないものでした。動物の“命”によって、自分たちの“命”が支えられていることが分かっていたのでしょう。」(※13)と記されていました。
入江貝塚と取掛西貝塚は時代も場所も全く異なるものの、厳しい自然の中で力を発揮して生きている動物に尊敬の念を抱いていた点は共通していると言えるでしょう。何か強さを秘めるものに救いを求めようとした、それは人間の力の限界を感じていたことの表われでもあります。現代社会においてはポリオの弛緩性麻痺はポリオウイルス感染によるものであり、筋ジストロフィーは筋線維に必要なタンパク質が作れず、筋線維が変性、壊れやすいことが運動機能障害の生じる機序として明らかになっています。しかしながら当時の人々にとってはまったく原因不明であったわけです。人間は万能ではありません。だからこそ人々は病いを得た人にあたたかい目を向け、支えあって生きていこうとする姿勢が存在していたのではないでしょうか。
|
|
|
<引用文献・ウェブサイト> |
|
|
<図> |
※図1 |
入江貝塚周辺マップ 当方作成 |
※図2 |
入江貝塚 現地貝塚標本断面コーナー解説板撮影
2019/6当方撮影, 地点名はわかりにくいので当方が太字追記 |
|
|
<写真> |
写真1 |
噴火湾 |
写真2 |
プロビデンス号来航 看板 |
写真3 |
入江貝塚 |
写真4 |
入江貝塚 |
写真5 |
入江貝塚周辺 |
写真6 |
入江貝塚周辺 |
写真7 |
入江貝塚周辺 |
写真8 |
地層剥ぎ取りの様子 |
写真9 |
入江貝塚地層断面図 |
写真10 |
入江貝塚 |
写真11 |
入江貝塚 |
写真12 |
入江貝塚 |
写真13 |
入江貝塚 |
写真14 |
入江貝塚 |
写真15 |
9号墓域より伴出した土器片
北海道洞爺湖町教育委員会(2013)『入江・高砂貝塚 国指定史跡 平成24年度 洞爺湖町文化財調査報告
第8集』北海道洞爺湖町教育委員会, p.40より引用 |
写真16 |
入江貝塚 復元された竪穴住居 |
写真17 |
入江貝塚 復元された竪穴住居 |
写真18 |
入江貝塚 復元された竪穴住居 |
写真19 |
入江貝塚 竪穴住居内の炉 |
写真20 |
入江貝塚内 イルカの骨 |
写真21 |
入江貝塚内 ホタテガイ |
写真22 |
入江貝塚内入江式土器(後期) |
写真23 |
入江貝塚内円筒上層式(中期) |
写真24 |
入江貝塚出土 猪牙製品装身具 |
写真25 |
入江貝塚出土 イノシシの牙 |
写真26 |
入江貝塚出土の装身具と現代ノオスイノシシ下顎骨の標本 |
写真27 |
取掛西貝塚(千葉・船橋) 動物儀礼跡
船橋飛ノ台史跡公園博物館(2012)平成24年度船橋飛ノ台史跡公園博物館企画展『動物たちの考古学ー人と動物を考える』パンフレット,
p.3より引用 |
写真28 |
入江貝塚 |
|
写真15, 27を除くすべての写真は2019/6
現地にて当方撮影
写真1-2 噴火湾現地
写真3-7, 10-14, 16-23, 26, 28 入江貝塚
写真8-9, 24-25 入江・高砂貝塚館 展示品 |
|
|
初出:2019/10/6 一部改変:2021/12/29 長原恵子
|