夫は、頭はいい……はず、と思う。だのに、生きていくにあたってのエネルギーや栄養は、すべて優しさという方面だけに使って、容量の良さとか、計算高くという方面までは、まわってきていない気がする。
洋平の障害がわかったときも、いつものまんまの夫で、
「重いもの背負って、よくがんばって、会いにきてくれたな」
と、優しく洋平の頭をなでていた。
洋平の目が見えていないと医師に言われたすぐそのあとに、
「きれいな海を見せようと思って」
と、疲れから眠り込む私を家に残し、海まで、洋平とふたりで
ドライブしてきたこともあった。
幼いころのダイが、騒ぎを起こし注目を集めても、恥ずかしいという感情を持たない人だった。怒ることもない。(略)
ダイを妊娠したときも、航を妊娠したときも、「障害児ならいいな」と言っていた。「障害児でもいいよ」ではない。「ならいいな」である。後ろから、首しめたろかい、と思った。
でも、障害児を三人授かって、結構楽しくて、私にはこの人生が合っていると気づいてからは、夫の言葉のおかげで、この子たちの親になれたのかな、と、少々感謝している。
ずうっと昔、結婚式で私の上司たちが、
「おまえ、自分の性格知ってるなー。尻に敷きやすそうなの、探したじゃないか」
と、言っていた。私の性格を誤解している。息は、夫のあとをついていくタイプだ(誰も信じてくれないが)。
でも今、全力で人生を走っていく子どものあとを、私が全力で追いかけているから、結局私は夫の前を走っている。思いっきり好き勝手もしている。
私たちは、夫の絶対的優しさという手のひらにのっている。
引用文献:前掲書, pp.111-113 |