様々な距離を越えて、続く命
ー土井晩翠 長女 照子さん・長男英一さんー |
お子さんに先立たれた後、ご両親はこれから何をすればいいのだろうかと途方に暮れる方は多くいらっしゃいます。看病に費やしていたエネルギーや時間を、どこにどう向ければ良いのか…確かにやらなければいけない事柄はいくつもあります。たとえば家の中の用事、お子さんにきょうだいがいらっしゃる場合は育児、そしてお仕事、その他いろいろと挙げられることでしょう。しかしながら、そうしたことに自分が向かう時、何か空しさがこみ上げ、まったやる気になれずにいることは、決して珍しいわけではありません。でもそうした時、「やらなければいけないこと」とは別に、「やりがいを感じられること」に出会うことは、虚脱感から抜け出す上で役に立つように思います。
たとえば土井晩翠夫妻は、昭和8(1933)年に長男の英一さんを亡くされた後、英一さんがずっと心を寄せていたハンセン氏病に対する支援の遺志を受け継ぎました。
英一さんはハンセン氏病に苦しむ人々の支援の一つとして、切手の売上金額の一部を寄付金にすることができる慈善切手の発行実現を望んでいたのです。英一さんは単に夢見るだけで終わらせていませんでした。亡くなる3年前、昭和5(1930)年10月9日の東京日日新聞の角笛欄には「慈善切手」という投書を出していたほどでした。臨終間際に見舞いに訪れた宮城県選出の文部省政務次官 内ケ崎作三郎氏には、慈善切手実現の願いを託しました。内ケ崎氏は後に振り返り、次のように綴られています。
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英一君が世にも珍しい知と徳とを兼ね備へながら、僅か二十五歳で夭逝した事は、天二物を与へずとは言ひながら、誠に遺憾極りない事である、
しかしその事業は碌々として馬齢を重ねる人に比して遥に命永く、殊に一青年学生の思ひつきも、至誠の一貫が伴ふならば、必ず実現する日の来る事を躬を以て示したものとして、この愛国切手一枚は、世の人々に教へるところ少くないであらう。
引用文献:
内ケ崎作三郎「愛国切手の誕生秘話」『主婦之友』昭和12年9月号,
土井八枝(1940)『藪柑子』長崎書店, p.207
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「碌々として馬齢を重ねる人に比して遥に命永く、殊に一青年学生の思ひつきも、至誠の一貫が伴ふならば…」って、まさに若くして終えられた英一さんの人生を、とてもよく表している言葉ですね。
土井夫妻は、ハンセン氏病の患者さんが多くいらしゃった国立療養所東北新生園を慰問されていました。その際、詠まれた歌があります。 |
逝ける子の願をつぎて病む人の慰めたらむかずならぬ身の
引用文献:
成田正毅(1955)『想い出の晩翠先生』晩翠先生を讃える会, p.99
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土井夫妻にとって、ハンセン氏病患者さんの病院へ慰問することは、英一さんの思いを辿っていく意味を持っていたのだろうと思います。
さて、お子さんが望んでいたこととまったく同じことをする、となると、難しさを伴うこともあるでしょう。でもあまり厳しく考えず、お子さんの望んでいたコンセプトに基づいて、自分の立場でできること、自分の得意とすることを行っていく…そうした在り方でも良いのではないかなあと思います。 晩翠氏は照子さん、英一さん亡き後、ホメーロスによる古代ギリシヤの長編抒情詩『イーリアス』を訳すことに、取り組んでいきました。
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かう曰ふと親馬鹿と笑はるゝのは請合だが、二人は共に鳶が生んだ鷹であつた。其両児がもう現世では逢へぬ、わが残生は前途黒暗々であつた。
が、彼等の霊が、時々夜の夢昼の夢に現はれ『父さん、しつかり!私共のやるべき仕事の幾分を代つてやつて下さい。祈つてお助けしますよ。』此声に励まされ、二児が生存中であつた十年のむかし、『野口英世頌』の末段に『地上に於ける愛の極、やさしき子らの祈より力を得つつ執りし筆』と書いた通り、多年中絶のホメーロス訳を取り上げた。
そして三十余年勤続した第二高等学校から引退して時間の余裕を得たので、あまりにも重い此荷を再び担ぎ上げてよろめく脚を踏みしめ乍ら、徐々に歩を進めて、今度やつと完成を告げた。
まるで夢のやうな心地である。
引用文献:
土井林吉(1948)『晩翠放談』河北新報社, 「「イーリアス」訳の跋」pp. 172-173
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晩翠氏が手掛けた『イーリアス』の和訳は、昭和15(1940)年に発刊となりました。夢の中で受けた照子さん、英一さんの励ましは、本当に晩翠氏の大きな心強さに変わり、和訳の筆を進めることができたのでしょう。
「私の夢の中には、こどもが出てきたことがない…」と嘆く方も多くいらっしゃいます。しかし、たとえばあなたが気付く、気付かないにかかわらず、お子さんがあなたのことをずっと励ましているはず。
夢に出てこないのは「夢に出なくても大丈夫」だと、お子さんが思ったのかも知れませんよ。励ますという思いは、たくさん送り届けてくれているのだけど、あちらの世界で遊んだり、出かけたり、友達と話をしたり…お子さんはお子さんなりに、大忙しなのでしょう。
またお子さんに注いできた愛情を、別の形にして表す場合もあります。
晩翠氏は照子さん、英一さんが亡くなったそれぞれの年の瀬に、孤児や孤独な老人への支援として、白米一俵を贈呈されたそうです。その仲介を頼まれた方が次のように回想されています。 |
この節分を書いている筆者は、昭和六年(1931)に河北新報社の編集局に入社した。
照子さんが亡くなったのはその翌年であるが、その暮れにたまたま晩翠先生から電話がかかって「娘照子の死を有意義に記念したいと考え、この歳末に当り、心ばかりの供養というかクリスマスプレゼントを貧しく幼い子どもたちを対象として、仙台育児院の孤児たちと老人施設の孤独な老人たちに、白米一俵を贈りたいので仲介してください」とい申出であった。
またその翌年の英一君が死亡した昭和八年の暮れにも、同様飯米の贈呈により暖かい年末年始を孤独で不幸な人たちに迎えさせて下さいという心やりであった。
引用文献:
村上辰雄「一の章 土井家の人びと」
土井晩翠顕彰会編(1984)『土井晩翠―栄光とその生涯―』p92
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我が子への愛情は誰かへの支援へと形を変え、見ず知らずの方へあたたかい気持ちが広がることは、どんなに良いことでしょう。
そこで、何か新しい出会いがあったり、始まりがあったり、自分の生きがいを見出していくこともあるかもしれません。
更に晩翠氏は1936(昭和11)年7月、宮城郡七ヶ浜吉田浜町字沢尻の畑地を、宮城女学校(現:宮城学院女子大学)にキャンプ敷地として寄贈(※1)されたそうです。宮城女学校は照子さんの母校。聡明利発な照子さんが青春を謳歌した学び舎は、親にとっても大きな意味を持つ場所だったことでしょう。
自分の娘は若く逝ってしまったけれど、学校はこれからも長く続きゆく場所。だからこそ、その学校と共に娘の人生が生き続けるような思いがあったのかもしれませんね。
我が子の思い出を書いたり、話すことは、単に自分のためだけではなく、別の意味を持つことがあります。他人への影響ということです。仙台で亡くなった照子さんのお話を軽井沢で行い、そこに来られていた大阪の生徒さんが心動かされたということ…言葉は過去と現在という時間の距離を、実際の土地の距離を、人の関係性としての距離を、様々な距離を取り払ってしまうのかもしれませんね。 |
わが誕生日
照子が逝いてから満四ケ月。わが子と曰はんにはあまりに尊い照子であった。二十七歳で聖徒の如く大歓喜に溢れて昇天した照子であった。婦人の友社からたのまれて書いたわが内子の「照子の思出」(婦人の友九月号)は諸所に感化を及ぼした。感謝である。
極端の左傾派で大阪高等学校を退学せしめられた重といふ生徒が照子の最後を此夏軽井沢の佐藤定吉博士の修養会でわが内子から聞いて懺悔感泣したのは「思出」刊行の前であった。刊行を見るなら一層印象を深めるだらう。
引用文献:
黒川利雄(1971)『生誕百年記念 晩翠先生と夫人 資料と思出』p.18,
1932(昭和7)年10月23日の日誌より
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お子さんへの思いは、多様に形を変え、命を宿して生まれ出ていきます。そうした可能性を選択できるのは、親御さんの気持ち次第。 |
2015/9/21 長原恵子 |
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