親の生きる道を照らす子
ー土井晩翠 長女 照子さんー
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死後、永続する命という世界観を持ち続けることは、遺された家族にとって大きな救いの力になることがあります。死によってすべてが終わるのではなく、そのつながりも断たれるわけではないのだと考えることは、心の中から虚無感を追い出してくれるのかもしれません。
「春高楼の花の宴 巡る盃 影さして…」で始まる歌曲「荒城の月」は、きっとどなたも小学校や中学校の音楽の時間に、聞いたことがあると思います。「荒城の月」の作詞者 土井晩翠氏の夫人である土井八枝さんはお嬢さんの照子さんに先立たれた後、死後の世界観が心の支えになった話を手記の中に綴っていますので、今日はご紹介したいと思います。
土井晩翠・八枝夫妻のお嬢さん照子さんは、明治38(1905)年1月、仙台に生れました。照子さんは小さい頃から快活で、聡明で、健康に育っていました。ずいぶんしっかりした方であり、両親は照子さんを頼りにし、信頼していました。たとえば元々土井姓は「つちい」でしたが、「どい」に呼び方を変えたのは、照子さんの発案でした。父の晩翠氏が仙台弁で発音すると「つつい(筒井)」のように聞こえるため、いっそのこと「どい」に読み方を改めてはどうかと、照子さんが提案し、晩翠氏がそれに同意して河北新報に改名の広告を出したというエピソードが残っています(※1)。
照子さんは、宮城女学校(現在の宮城学院の前進)で英語を学ばれ、第二学年の時には特待生として音楽専攻科(ピアノ科)に入学を許可され、高等女学校の勉強も、YWCA(女子青年会)や東北学院教会の活動も、勤しんでいました(※2)。女学校を一日も欠席しなかったほど、健康に過ごしていました。
しかし、19歳の春、健康診断で病気がわかり、休学することになりました。八枝さんの手記の中にその病名は書かれていませんが、状況から考えると、結核だったのではないかと思われます。その後、照子さんの病気は一進一退を繰り返しましたが快癒することなく、昭和7(1932)年、6月23日午前2時、27歳の若さで亡くなりました。
照子さんが亡くなってから、八枝さんは次のように書かれています。 |
扨(さて)私が書き度いと思つて居ります事は
私共がこれ程愛し且力にして居りました愛する娘の突然の死に面し、どれ程歎き悲しみ失望落胆して居るかと皆様から御同情をいたゞいて居りますのに、
一同元気にかうして居られますのは、
彼女がその臨終に霊界の実在といふ事を明かに見せてくれ、
彼女の霊は今も天上に生きて神様のお指図の儘(まま)に働いて居るといふ確信を得させてくれた為でございます。
引用文献:
土井八枝(1937)「照子の思ひ出」,
村田勤・鈴木龍司編『子を喪へる親の心』岩波書店, p.146
(土井八枝氏の文章は「雨の降る日は天気が悪いより」にも前出)
※WEB掲載上、こちらで旧漢字は常用漢字に直しています。 |
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大切なお嬢さんに先立たれた後、ご家族が元気にしていられるのは、霊界の実在を知り、今もお嬢さんがそこで生き続けていると確信できているから…。それはいったいどういうことなのでしょう。
6月22日の午後、呼吸が悪くなり、ご家族の目にも臨終が近いと感じられました。ちょうど息を引き取る半日前のことでした。八枝さんが照子さんに話しかけた、その言葉の中には、二人の心の中にキリスト教が深く根付いていたことがうかがえます。 |
「照ちゃん、私の娘としてこれ迄暮してくれた事を光栄と神様に御礼申します。これ迄何でも母さんを導いてくれて心丈夫に暮したが、此家にあなたが居なくなると、母さんは毎日どんなに淋しいか知れません。
然しあなたの霊は天上に生きるといふ事を信じるから、何でも母さんに指図して下さい。母さんは元気を出して、いつ迄も老耄れないで、あなたの指図通りに一生懸命に働く決心だから…」と申しますと、喜んでうなづきました。
引用文献:前掲書, p.147 |
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その後、少し持ち直した照子さんはレモネードを枕元の家族一人一人から飲ませてもらい、お父様に頼んでアルフレッド・テニスンの詩「Crossing the Bar」を音読してもらいました(※3)。
そして娘の姿を写真に残しておきたかった母の願いを聞き入れて、照子さんは自宅に来てくれた写真屋さんに写真を撮ってもらい、見舞いに駆け付けた人々に心を込めてお礼を言い、自分のお葬式で歌ってほしい讃美歌を選び、お祈りをしました。それは「自分が楽になりますように」というお祈りではありません。自分が愛した人、愛せなかった人皆のために、守ってくださいと、苦しい息の中、神に祈ったのです。
その夜10時頃、照子さんは悪魔の幻影を見たようで、照子さんは手で空中を打ち、悪魔と闘う仕草を見せましたが、そこでキリストの救いを得たようなのです。照子さんは「エス様、ありがたう」と100回以上お礼の言葉を繰り返しました。 |
「エス様ありがたう、エス様ありがたう、エス様エス様エス様ありがたう」と手を上げての大感激大韓機で確に此時はエス様が御見えになり、御手をのべ給うて御救ひ下された事を、あたりの者は直感しました。
エス様ありがたうはいつ迄も続き、果てはさも嬉しくてたまらぬといふ顔をして大声で笑ひ出しました。
主人が「ずゐ分晴れやかに笑ふ子だつたが、あれ程嬉しさうな笑ひ声は聞いた事がない。出来ない事だがあの笑ひ声をレコードにとつておきたかつた」と後で申しました。(私共は照子の亡きあと時々何かのふしに想ひ出して、なつかしさに堪へず顔を見合わせて思はず涙を催す時、いつも此の時の声とさも嬉しさうな顔とを思ひ出しては慰めとして居ります。)
引用文献:前掲書, pp.153-154 |
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そして、照子さんは家族に対する神からメッセージを受けたようで、それぞれの人に対して肉体的な、そして霊的な教訓や注意を伝え、奇跡的な不思議な技も見せてくれたのだそうです。
23日、照子さんは息を引き取り、お葬式も済んだ6月28日の朝、八枝さんは、照子さんからのメッセージを受け取ったのです。 |
暁に目をさました私は床の中で照のありし日の快活な様子を思ひ浮かべてなつかしんで居りますと「母さん今の感じを今度の婦人会でお話しなさい」とはつきりと命ぜられました。
臨終の折「何でも天から指図しなさい、母さんは働くから」と約束した通りさっそく私に働かせてくれることと存じ、喜んで7月7日に私共の教会の婦人会で御話し致しました。其後も度々私が話す可き事、為すべき事を照を通して神様が私に御示し下さいますので、私はいよいよ深く照が霊界に生きて神の御用をさせて頂いて居る事の確信を得、感謝で心が一ぱいでございます。
霊界がかくも的確にわかれば、人間が二十歳三十歳で死なうが、七十八十迄生きようがそれは私共にとつて問題ではなくなり、たゞ清い天上に永遠に生きるに足る丈の心の準備を常にする事が人生の最大目的といふ事に帰着します。
私は今、愛する照の死によつて信仰がどれ程尊い有難いものであるか、又天からの御慰めが如何につよいものであるかといふ事がはつきりわかりました。
どうか此後の私の生涯は、神様の御指図のまヽまに、人様の御為に出来る丈の事は何でもさせて頂き、照がのこして行つた立派な死の型丈も学んで世を去られる様になり度いと念願するのみでごさいます。
引用文献: 前掲書, p.155 |
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涙にくれて深い悲しみのどん底にいるときよりも、心を落ち着かせてお子さんの事に想いをはせている方が、お子さんからのメッセージが届きやすいのかもしれませんね。お子さんはいつも、あなたにメッセージを送り続けているのだけれど、あなたが悲しみに狂乱している時には、心を通い合わせられないのかもしれません。
そして、お子さんは亡くなった後も、いつもいつもあなたのことを大切に思い、見守り、別の世界から愛情を送り続けているのだと知る、あるいはそう信じることは、遺された家族が、顔を持ち上げて生きていこうとする力を授けてくれるのでしょう。
土井家ではかつて三人の女の子が死産などによって夭逝していた(※4)のだそうです。八枝さんにとっては、死後の世界の永続を感じさせられるような言葉のやりとりを先立つ子と交わせたのは、照子さんが初めてだったのかもしれません。ある程度年を重ねたからゆえに、交わせる言葉ですね。そして、姓を改正するほど尊重した娘の意見と、娘への信頼…。
その娘の言葉であるからこそ、死後の世界の永続を、心強く信用できたのだと思います。 |
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死後の世界観は人それぞれ。でもどのような信仰であったとしても、お子さんがあなたに、敬愛の気持ちを注いでいるのはきっと同じ。 |
2015/5/1 長原恵子 |
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